第2章 増殖
スマートフォンの画面が、指先を焼くように熱い。
リチウム電池の熱なのか、それともそこに並ぶ言葉たちが放つ熱量なのか、もはや判別がつかなかった。
サナは暗い部屋で、ただひたすらに画面を更新し続けていた。やめればいい。電源を切って、布団を頭から被って寝てしまえばいい。頭では分かっているのに、指が呪縛にかかったかのように動く。
「……なんで? そんなつもりじゃなかったのに」
つぶやいた声は、乾燥した喉に張り付き、空気に溶ける前に消えた。
コメント欄の空気は、数時間前とは完全に入れ替わっていた。さっきまでそこにあったはずの温かな居場所は、一瞬にして見知らぬ戦場へと変貌していた。
『わかる。自分もずっと思ってた。この人の絵、どこか鼻につくんだよね』
『私も。なんか、人を見下してる感じがする。無意識に特権意識が出てそう』
『あー、やっぱり。自分だけじゃなかったんだ。違和感あったの』
「わかる」「自分も」「やっぱり」。その短い同意の言葉が、毒液のように広がっていく。
一人、また一人と、名前も知らない誰かが、前の誰かの言葉を無責任に肯定していく。それはまるで、真っ白なキャンバスに真っ黒なインクを一滴落とした瞬間のようだった。汚れは一瞬で繊維の奥まで広がり、元々の白さがどこにあったのかさえ分からなくさせる。
誰か一人が石を投げれば、周囲の人々は「石を投げてもいいんだ」と誤認する。そして、自分も参加しなければ損だと言わんばかりに、より大きな石を探し始めるのだ。
さらに、その怒りはサナの知らないところで自走し始めていた。
サナの絵が、悪意ある意見を付け加えられた状態で、四方八方に転載され、拡散されていく。そこには、サナが一度も話したことのない、全く面識のない人たちの言葉が並んでいた。
『これは教育に良くない構図ですね。もっと問題視されるべき。拡散希望』
『こういう表現を平気で流す感性が信じられない。フォロー外しました』
『今の時代、こういうの配慮が足りないって言われるの分かっててやってるよね』
彼らは、サナの絵を自分の正義を語るための安っぽい道具にしていた。怒りは怒りを呼び、さらに大きな怒りを連れてくる。雪玉が坂道を転がり落ちるように、それはどんどん膨れ上がり、手がつけられない大きさの暴力へと変わっていく。
サナの意識は、画面の中に吸い込まれそうだった。通知の音は、もはや「ピッ」という軽いものではなく、鋭い刃物が鼓膜を突くような衝撃となって襲いかかる。
(……そんなこと、一言も言ってない。そんな意味じゃないのに……)
サナは震える手で、必死に過去の自分の投稿を遡った。何か、誤解を解ける材料はないか。自分は決してそんな人間ではないと証明できる言葉はないか。
しかし、そこで目にしたのは、さらなる絶望の淵だった。
『この人、三年前にもこんなこと言ってる。やっぱり本性って隠せないね』
晒されていたのは、三年前、サナが友人と冗談半分でやり取りした、なんてことのない日常のつぶやきだった。
「今日は疲れすぎて、もう何もしたくない(笑)」
その一言が、今の「不快な表現をしたイラストレーター」という文脈に無理やり繋げられ、邪悪な意味を与えられる。
『三年前から仕事舐めてるんだな。プロ失格だろ』
『前からこういうところあったよね。化けの皮が剥がれただけ』
『性格の悪さが絵に出てる。納得だわ』
文脈を無視した切り取り。悪意ある解釈。
かつて自分が楽しく綴ったはずの思い出までもが、今の自分を絞め殺すための縄に変わっていく。過去の自分にまで裏切られたような感覚に、サナは吐き気を覚えた。
部屋は暗い。なのに、手元のスマートフォンの光だけが、暴力的なまでの強さで網膜を刺す。その光は部屋の壁に四角く反射し、まるでサナを閉じ込める檻の格子のようにも見えた。
画面を流れる大量のコメントは、もはや文字には見えなかった。
それは黒い波だ。
一定のリズムで押し寄せ、サナの精神を、尊厳を、少しずつ、けれど確実に削り取っていく。
スクロールし続けるコメント欄。
黒い背景に白い文字が並び、超高速で流れていくその様子が、ひとつの巨大な口のように見えた。
数千、数万の人間が、一斉に何かを叫び、咀嚼し、飲み込もうとしている。
文字がざわざわと蠢き、生き物のようにうごめいている。
いや、違う。文字の羅列が意思を持って、サナを喰らおうとしているのだ。
「やめて、もう見たくない……」
指が震えて、スマートフォンがベッドの下のフローリングに滑り落ちた。
ガツン、と硬い音がして、画面は床に伏せられた。それでもなお、スマートフォンの隙間から漏れ出す青白い光は、チカチカと不規則に明滅を続けている。その光のパターンさえ、誰かが自分を嘲笑っているリズムに聞こえてくる。
暗闇の中で、床から響く電子音。
『ピッ』
『ピッピッ』
『ピピピピッ』
音の間隔が狭まっていく。それはまるで、獲物を見つけた猛獣の呼吸のように、湿り気を帯びてサナの足元に忍び寄っていた。
サナは膝を抱えて丸くなり、耳を塞いだ。しかし、脳裏にはあの口の残像が焼き付いて離れない。一度火がついた群衆の正義は、もう誰にも、本人たちにさえ止められないところまで来ていた。




