第1章 火種
【お読みになる前に】
この物語は、インターネット社会における「炎上」という構造をテーマにしたフィクション(現代ホラー)です。
特定の個人、団体、プラットフォームを誹謗中傷する目的は一切ありません。
現代の誰もが当事者になり得る、日常に潜む「デジタル上の怪談」としてお楽しみください。
カーテンを閉め切った暗い部屋の中で、液晶タブレットの光だけが四角く浮かび上がっている。
イラストレーターのサナは、ふう、と深く息を吐いた。数日間、寝る間も惜しんで描き上げた自信作だ。画面の中には、幻想的な青い森と、そこで迷子になった小さな少女が描かれている。
「よし。これでいこう」
マウスを動かし、SNSの投稿画面を開く。
カチ、カチという乾いた音が、静まり返った部屋にやけに大きく響く。
投稿ボタンの上にカーソルを合わせ、人差し指に少しだけ力を込めた。
――クリック。
小さな音とともに、サナの描いた世界が広いネットの海へと放流された。
「投稿が完了しました」という無機質な文字。
サナは背もたれに深く体を預け、こわばった肩を回した。机の上に置かれた飲みかけの コーヒーは、もうすっかり冷めている。
数分もしないうちに、画面の隅で通知が動き始めた。
『ピッ』
静かな部屋に、電子音が小さく鳴る。
スマートフォンの画面がパッと明るくなり、部屋の壁を白く照らした。
「あ、もう反応が来た」
画面を覗き込むと、ハートのマークがいくつか並んでいる。「色が綺麗」「雰囲気が好きです」といった、いつもの温かい言葉たち。サナの口元に、自然と小さな笑みが浮かぶ。
自分の絵が誰かに届き、受け入れられる。この瞬間が、何よりも好きだった。
サナはスマートフォンを手に取り、ベッドに寝転がった。
画面を指でなぞり、更新するたびに数字が増えていく。
最初は一桁だった「いいね」が、十、二十、五十……と、心地よいリズムで膨らんでいく。
『ピッ』
また通知が跳ねた。
だが、その時。
流れるような好意的なコメントの中に、一つだけ、場違いな感触の言葉が混じっていた。
『こういうの、正直不快です』
指が止まった。
その一文だけが、画面から浮き出ているように見えた。
相手のアイコンは、初期設定のままの人影。名前も適当な英数字の羅列だ。
(不快……?)
サナは首を傾げた。
どこか残酷な表現をしたわけでも、誰かを傷つける意図があったわけでもない。ただの静かな森の絵だ。
けれど、その文字はトゲのようにサナの胸にチクリと刺さった。
「まあ、いろんな人がいるよね。全員に好かれるのは無理だし」
自分に言い聞かせるように呟き、そのコメントを画面の外へ追い出すようにスクロールした。
気にしない。そう決めて、画面を消した。
しかし、一度ついた火種は、サナが思っているよりもずっと熱を持っていた。
暗い部屋の中で、またスマートフォンが光る。
『ピッ』
今度は少し、音が重なった気がした。
再び画面を見ると、先ほどの不快だと言ったコメントに、別の誰かが返信をつけていた。
『確かに。なんか鼻につく絵ですよね』
『わかる。プロっぽく振る舞ってるけど、生理的に無理』
サナの心臓が、ドクンと嫌な音を立てた。
さっきまで優しい言葉で埋め尽くされていたはずの場所が、じわじわと変質し始めていた。
「なに、これ……」
指が勝手に画面を更新する。
一度始まった批判の流れは、まるで地面を這うカビや、暗闇で増殖する粘菌のように、じわじわと、けれど確実に広がっていく。
『この人、前も似たようなの描いてなかった?』
『っていうか、この構図ってあの作品のパクリじゃない?』
パクリ?
そんなはずはない。すべて自分の頭で考え、資料を調べ、筆を動かした。
否定したい。けれど、キーボードをたたこうとする指は、冷たくなって動かない。
コメント欄のスクロールが止まらなくなる。
文字の並びが、次第に意思を持った「生き物」のように見えてきた。
一つひとつの文字がうごめき、重なり合い、巨大な一つの塊になって、画面の向こうから自分をじっと見つめているような……。
それはまだ、はっきりとした形ではない。
ただの偶然、ただの比喩。そう思いたかった。
けれど、スマートフォンの放つ青白い光は、いつの間にかサナの顔を、まるで幽霊のように青白く、不気味に照らし出していた。
静かだった部屋の空気は、いつの間にかひどく重く、ざわついている。
サナの知らないところで、小さな火が、パチパチとはぜる音を立て始めた。




