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ぬるめに淹れた茶を、ごくごくと流し込み、和傘問屋・嶋屋の番頭はようやく息を整えた。
「……大旦那様がお亡くなりになってからというもの、妙なことが続いておりまして」
嶋屋は江戸の頃から続く、質素ながら由緒ある店だった。
五日前の夜、当主・嶋岡嘉兵衛が裏庭で倒れているのを使用人が見つけた。
頭を打ち、すでに息絶えていたという。
「その晩は雨で、足跡も流れてしまいました。警察は『庭石で頭を打った事故だろう』と……」
番頭は茶をもう一口すする。
指がほんの少し震えていた。
「……ですが、見たのです。あの……手を……!」
番頭が語ったのは、こうだった。
夜中に手水に起きた際、帳場の方から物音がした。行ってみると、真っ暗闇の中──
白い手だけが、自分を招いていたという。
「うわぁーっ!」
悲鳴に屋敷中が飛び起きた。灯を点けるが、そこには誰もいない。
ただ神棚の下の畳に、濡れた足跡があった。
その翌晩、女中のシズも奇妙なものを見た。
離れに置いた文箱を持ってくるよう言われ、薄暗い廊下を進んだところ、障子越しに人影が見えたのだ。
番頭が取りに来たのだと思い、声をかけた。
「番頭さん、すみません」
しかし障子を開けると誰もいない。行燈の火が消えかけ、灯りがゆらゆらしている。
その途端、生ぬるい風が首筋を撫で──「ひいぃ!」と悲鳴を上げて尻もちをつく。
その拍子に腰をやってしまった。まさに泣きっ面に蜂である。
そして、ついに若旦那・啓太郎の枕元に、それは現れた。
草木も眠る時刻。
「ちゅぅ……」という鼠のような声に目を覚ました啓太郎は、身を起こそうとしたが、体が動かない。
「こ、これが……金縛りってやつ……?」
横を見ると、白い着物の影が立っていた。腕を組み、じっと見下ろしている。
(ひぃーっ)
「ちゅうぅ……ちゅう……!」
口を動かして何かを言っているが、鼠の鳴き声にしか聞こえない。
その顔を見て、啓太郎は息を呑んだ。
「お、親父──!?」
啓太郎は布団を頭までかぶり、震えた。
「親父が……怒ってる……喧嘩なんか、するんじゃなかった……」
それ以来、飯も喉を通らず、部屋どころか布団からも出てこないという。
番頭の話が終わると、敬道はしばし黙して目を閉じ、低く言った。
「……承知した。晴臣、玲。お前たち二人で向かってくれ。装束では目立つ。普段のままでよい」
二人は同時に頷いた。
「わかりました」
朝の光が差し込み、畳の上に淡い影を落とす。
蝉時雨を背に、二人は番頭に導かれ、静かに石段を下りていった。




