板さんのまなざし
父は電車に乗って北九州市の小倉にわたしたちきょうだいを連れて行った。
煌びやかな街並みはわくわくしたけれど、思い出す光景はタバコの匂いがする喧しい遊戯場。お酒を飲む店で食べる酒の肴みたいな食事、といった「大人の香り」しか思い出せない。
叔父さん叔母さんが連れて行ってくれたようなデパートのおもちゃ売り場(当時大好きだったドラクエのグッズを買ってもらった)、ミュージカル。
近所に住む友達のお父さんに連れて行ってもらったような、巨大ローラー滑り台のある公園。
といった子どもの目線に立った「遊び」の記憶はあまりない。
日豊本線に揺られてその日も小倉に行った。その頃の暖房は足元の座席から温めるタイプで、冷たい空気に赤く染まった頬とは裏腹に、熱いほどだった足元を思い出す。
あの頃の電車の匂いを思い出そうとすると、中年男性に流行していた整髪剤とその暖房から出ているであろうカビ臭さと、その匂いが混ざっている。
灰色の空の下──余談であるが、北九州が青空を取り戻したニュースは非常に嬉しい思いだった。どんな思い出があろうが、何よりもわたしを育ててくれたのは、やはり故郷の風景である──乾いた風は、肺を痛くさせる。
アーケード街の薄暗いタイル道を歩くと、高温の胡麻油の香りが漂う。
盛りと天丼しかない硬派な天ぷら屋さんであった。
その天ぷら屋さんの板さんは、数ある「幼いわたしを気にかけてくれた」感謝する大人の一人である。
それは何故かを今から語ろうと思う。
その時は、二回目の来店だったと思う。父は「その店の常連と認められる」ような行動をとることが大好きだったように思う。
父はその日も「常連の仲間入り」する準備運動を始めた。
前回行った時は、盛況でしばらく待った後に入店した。その頃も香ばしい胡麻油の香りを覚えている。今思えばランチの時間帯だから盛りと天丼しかなかったのかもしれない。
父はそんなこだわりの店の店主とは仲良くなりたがる。父にとってそれはステータスになったのであろうか。よく分からない感情だ。
もちろん、行きつけのお店を持っている人は素晴らしいと思う。関係を築けるということは、コミュケーションのスキルも高いということだ。しかし、あくまで父はその行動原理が何か「見栄」じみたものだったように思えてならない。
時を二回目の来店時に戻して、その日はちょうど谷間の時間帯にだったようで、女将さんは暖簾を下げ、中休みに入る準備をしていたようだ。
カウンターで食事をしていたのはわたしたち親子四人だけだったと思う。
今思えば、ご厚意でゆっくりさせてもらえたのかもしれない。わたしたちきょうだいはまだ小さな子どもだったので。
しかし、何を思ったのか父は板さんにべらべらと話しかけた。何を話していたのかは思い出せないし、板さんは苦笑いを浮かべていたように思えなくもない。
だって彼は手を動かしていたから。夜の仕込みかもしれない。
わたしは、言いようのない居心地の悪い思いを抱えながらも、一生懸命食べていた。わたしは食べるのが遅い。
父はなんだか自分のおしゃべりがクライマックスを迎えて、満足げな空気を一瞬だけ滲ませた後、流れるように、
「お会計」
と、機嫌よく言った。
板さんはその時初めてだったと思う。はっきり、しかし静かに不快感を露わにして、
「いや、まだ子どもが食べてる」
と、わたしの方を見ながらびっくりしたように言った。
父は、いやあ失敬、失敬とばかりにその場を取り繕ったが、きっと板さんがそう言ってくれなかったらわたしは完食できないまま、店を後にすることになっただろう。
恥ずかしいことに、父は自分のこと──この場合は板さんに気に入られることでいっぱいになると、子どものことが全く見えなくなる。
いや、そうでなくても……ちなみに小倉に行く時が顕著だったが、外食の時に「何が食べたい?」と尋ねるのはいつも兄にだけだった。わたしは一度も訊かれたことがない。
それにつけても、この板さんは静かだが確かにわたしを見てくれていたヒーローだった。それが商売だったからだったとしても、それでも。
「わたしみたいな子ども」はちゃんと見ていてくれる、気をかけてくれるだけでもなんともありがたいのだ。
よく、他人のお子さんに「もっと何かしてあげられたら」と、後悔している心優しい方がいらっしゃるが、子ども目線からすると、後になってじんわりとその感謝を何度でも胸に刻んでいるので、どうかご無理をなさらないでほしい。その気遣いだけで、何度も救われているのだ。
しかし、もし仮に女将さんが同じことを言ったら「女のくせに生意気に俺に意見した」と、後で陰口を言ったと容易に想像できてしまうところが、我が父ながら恥ずかしくてたまらないし、申し訳なく思う。
その店を訪れる三度目はなかったような気がするが、それが偶然かどうなのかは分からなかった。
〈了〉