9.その頃、王都では
「お父様、お母様、あたしはいつまでお屋敷に引きこもってなきゃいけないの!?」
ローゼンミュラー家の居間でかんしゃくを起こしたイザベラが、ダン! とテーブルを叩いた。
だが父も母もそちらを見向きもしない。
いつものことだからだ。
長女のイリスが辺境伯へ嫁いでからというもの、異母妹のイザベラは「イリス」のふりをすることを命じられ、苛立ちを募らせていた。
異母姉がいつもそうしていたように屋敷から出ず、庭園にでもいなさいと言われたのだが、冗談ではない。
そんなことをしていたらイザベラは病気になってしまうだろう。
しかもイザベラは、せっかく婚約したフロリアン・ランセルにも会えずにいた。
今年の社交界で一番人気の彼をものにしたというのに、こんなに引きこもっていたら他の令嬢たちに自慢できないではないか。
さらに、目もくらむような金額の辺境伯からの支度金は、自分と母のドレスと宝石を買い、父が借金を返済したらすべてなくなってしまった。
あれはイザベラがイリスのふりをしてあげる報酬のはずだったのに、どういうことだ。
取り合ってくれない両親に見切りをつけ、イザベラは居間を出た。
ついでに息苦しい屋敷も出ていく。
外出禁止など知ったことか。
「フロリアンの家に行きましょう。きっとあたしに会いたがってるわ」
自慢の婚約者もイザベラとイリスの入れ替わりを承知していた。
その上で、「きみの名前が変わってもぼくの愛は変わらないよ」と甘いほほえみとともに囁いてくれたのだ。
鼻歌を歌いながら屋敷街を歩き、そう遠くないランセル家の門をたたく。
すぐに顔なじみの執事が対応してくれたが、フロリアンは不在とのことだった。
きっと部屋で絵姿を抱きしめながら自分を恋しがっているに違いないと思っていたイザベラは、拍子抜けした。
「どこにいるのかしら……もしかして、すれ違ったとか?」
彼は自分に会いにローゼンミュラー家へ行ったのかもしれない。
愛し合う婚約者同士なのだから、同時にお互いに会いに行き、すれ違ってしまったのだろう。ロマンティックだ。
そう思ってくるりと踵を返すと、道に停まっているランセル家の馬車が見えた。
馬車の陰にフロリアンの姿も見える。
やっぱり運命だわ! と顔を輝かせたのもつかの間。
近寄ると、彼は知らない令嬢を抱き寄せて口説いているところだった。
「きみは本当にかわいいなあ」
「もう、フロリアンったら。婚約者がいるのにそんなこと言ったらダメよ?」
「だって、きみも知ってるだろう? ぼくの婚約者のイリスは、異母妹のイザベラを虐めて遠くの辺境伯なんかに嫁がせた性悪女なんだぜ。いくら政略結婚だからって、そんな女と結婚しなくちゃいけないなんてやりきれなくてさ……慰めてくれよ」
「うふふ、どうしようかしら……」
イザベラはつかつかと二人の方へ歩いていった。
足音に気がついて、フロリアンがふりむく。
その頬を思いきりひっぱたいた。
頬を押さえながら、フロリアンはしどろもどろに弁解しようとした。
「イザ、いや、イリス……ち、違うんだ、これは……」
「最低! 婚約は破棄するわ!」
イザベラは足音も荒くその場を去った。
ちっとも会いに来ないと思っていたら、他の令嬢と浮気していただなんて!
ムカムカしながら屋敷に戻ると、イリスについて辺境伯領へ行っていた侍女が戻ってきていた。
不機嫌な顔のままで侍女に尋ねる。
「あら、ハンナじゃない。辺境伯領はどうだった? さぞ辺鄙なところだったんでしょうね?」
「いいえ、お嬢様。中心部は王都のように栄えておりました」
「へっ!?」
イザベラは目を点にした。
どういうことだ。話が違う。父は辺境伯領はド田舎だと言っていたのに。
「で、では、辺境伯はお姉様を見てどんな反応をしたの? 身代わりは気づかれなかった?」
「はい、おそらく……ただ、辺境伯は、イリスお嬢様にはあまりご興味がないようでした。寝室も朝食も別々でしたし……」
遠慮がちにそう報告され、イザベラはにんまりとした。
「ふ……ふふっ……そうよね、当然よ! 彼はあたしに求婚したんだもの!」
レオン・シュヴァルツ辺境伯とは夜会でたった一度会っただけ……というか、イザベラを含む令嬢たちが美しい辺境伯に挨拶しようと近づこうとした途端、彼はさっさと一人で庭へ出てしまったので、言葉を交わしたことすらない。
だがそのたった一度の機会で、彼はイザベラの可憐な容姿に一目ぼれしてしまったのだろう。
庭へ出ていったのは照れ隠しに違いない。
実際にそのあとしばらくして、破格の支度金まで付いた結婚の申し込みがあったのだから。
身代わりで嫁いだ花嫁のイリスを、「思ってたのと違う」と感じて遠ざけても、なんらおかしくはないのだ。
イザベラはいい考えを思いついた。
顎に細い指を当て、ぺろりと舌なめずりをする。
「ねぇハンナ。残念な花嫁が来て、辺境伯はさぞ気落ちしてらっしゃるでしょうね?」
「えっ? ええと、……そう、かもしれませんね……」
「ふふふっ。それなら、本物のあたしが行って、辺境伯夫人になってあげるわ! 『王都の徒花』と呼ばれた、このイザベラ・ローゼンミュラーがね!」
上機嫌なイザベラを、ハンナは不安げに見つめた。
「徒花」が「見かけ倒しで中身がない」という意味だと教えた方がいいのか迷っているようだった。
だが口は禍の元と判断したのか、何も言わずその場を去った。
○
その夜、さっそくイザベラは父に自分のアイデアを話し、辺境伯領へ行きたいとねだった。
だがピリピリしている父に「そんな金はない」と一蹴されて終わった。
ローゼンミュラー伯爵はここのところやたらと仕事が忙しく、だが人を雇う金もないため、常に苛立っていた。
イリスがいた頃は家の雑用はすべて彼女に押し付けていたのだが、その彼女が嫁いでしまったので、楽をしていたツケがすべて自分に跳ね返ってきているのだ。
正直、イザベラが辺境伯領へ行き、イリスと取って代わるというのはいい案だと伯爵は思った。
辺境伯が気前よくくれた多額の支度金は使い果たしてしまっていた。
伯爵の妻が追加の支度金を手紙で頼んだのだが、返事はない。
嫁いだイリスが気を利かせ、辺境伯に金を送るよう口添えしてくれればいいものを、土いじりばかりしていた変人のあの娘はそんなことも思いつかないようだ。
イザベラを辺境などへ嫁にやるのは可哀そうだと思っていたのだが、侍女のハンナの話では辺境伯領はなかなか栄えているらしい。
それなら、イリスなどよりイザベラを嫁にやればよかった。
愛嬌のあるイザベラなら、栄えているとはいえ所詮田舎貴族でしかない夫を丸め込んで送金させるなど、わけもないだろう。
辺境伯だって、つまらない娘のイリスよりも、本物のイザベラのことを気に入るはずだ。
だが、既に財政が破綻しているローゼンミュラー家には、イザベラを辺境伯領へ送り込む金すらなかった。
もし実際に送り込むとしたら失敗は許されないので、監視役として自分も同行することになるだろう。
物見高い妻も、間違いなく一緒に来ると言うに違いない。
けれどもすでに多額の借金をしているため、新たに三人分の馬車旅の金を用立てるには、この屋敷を担保にするしかない。
いくら浪費家の伯爵も、さすがに先祖伝来の屋敷を抵当に入れるのは躊躇われた。
ノックの音がして、疲れた顔の執事が入ってきた。
「旦那様、ザイフェルト様がお見えです」
「……今はいないと言って追い返せ」
「ですが、昼間もそう言ってお引き取りいただいておりまして……」
「うるさい! つべこべいわずさっさと行け!」
ザイフェルトは借金取りの男で、この頃は朝から晩までしつこく金を取り立てに来る。
暗い表情の執事が一礼して退室すると、伯爵は嘆息してソファに座りこんだ。
「辺境伯領か……」
ローゼンミュラー伯爵の胸の中では、屋敷と金が天秤にかかって揺られていた。




