6.思い出のミントポーション①
広々とした高級感あふれる寝室で目覚めると、イリスは目をこすりながら窓辺へ行った。
起きてすぐに庭の緑を見るのが日課なのだ。
だが、目に飛び込んできたのは見慣れた伯爵家の小ぢんまりとした庭ではなく、早朝の日差しを浴びたシュヴァルツブルク城の広大な庭園だった。
(……ああ、そうだわ。私はイザベラの身代わりで結婚して、辺境伯夫人になったんだっけ)
昨日、夫となったレオンに言われたことが思い出される。
仮面夫婦になり、自由に庭いじりをしていいだなんて、彼は天使か何かだろうか?
それに、イリスの作るミントシロップを「欲しい」と言ってくれた。
誰かにそんな風に望まれたことは初めてで、何度思い出してもしまりのない顔になってしまう。
机の上に置いた、母の形見のハーブレシピノートを大事に持ち上げ、抱きしめる。
「お母様、私にミントポーション作りを教えてくださってありがとうございます。おかげであの家から出ることができました」
イリスの亡き母アザレアは、王都でも指折りの才女だった。
貴族の令嬢が入る花嫁学校ではなく、共学の魔法学校の魔法アイテム科を首席で卒業した。
政略結婚によってローゼンミュラー家に嫁いでからは、イリスの父が女性が外で働くことを嫌ったために才能をくすぶらせていたが、ひそかに庭園のハーブで魔法アイテムの研究を続けていた。
父は「女のくせに日焼けして庭いじりなど」と不満を隠さず、悪口ばかり言っていたが、イリスはそばかすの散った母の健康的な笑顔が大好きだった。
そしてアザレアは長年の試行錯誤の結果、通常は魔素によって非常に不味く感じられるポーションに、爽やかなミントシロップの味付けをすることに成功したのだった。
母が〈ミントポーション〉と名付けたそのレシピはイリスにも教えられ、今では母の作るものと同レベルの味と回復量を再現できるようになっていた。
イリスは母の死後、高額な授業料のかかる学校には行かせてもらえず、ドレスの節約のためほとんど社交もさせてもらえなかった。
継母とイザベラが揃って贅沢好きだったので、イリスに回す金など少しも残っていなかったのだろう。
そのため結婚はあきらめていたが、成人となる十八歳になったら家を出て、貴族令嬢という身分も捨てて、母の残してくれた宝石類を元手にミントポーションの店を開こうと思っていた。
今月、イリスは待望の十八歳になった。
だがまさか、こんな形で結婚とミントポーションの商品化の機会が同時にやってくるとは思いもよらなかったが。
(……でも、レオン様に本当のことを言った方がいいのかしら?)
異母妹イザベラのついた嘘が原因で、レオンはイリスではなくイザベラに求婚した。
そして家族はイザベラだと偽って、イリスを嫁がせた。
だが結果的に、彼の望むミントポーションを作れるのはイリスの方だったのだ。
嘘をついているのは心苦しいが、現実的にそのことで今誰かが困るというわけではない。
(嘘をついて嫁いだと知ったら、信用が地に落ちて、せっかくの商品化の話も立ち消えてしまうかもしれないわ。それに昨日のレオン様は意外と紳士的だったけれど、冷血で残酷という噂のある方だし……)
自分の父を見ていると、体面を傷つけられた貴族男性は容易に相手を許さないものだという気がする。
それに、レオンの長剣は切れ味が良さそうだった。
なにしろあんなに血しぶきを浴びていたのだから────。
イリスは思い出してぶるりと震えた。
(…………打ち明けるのは、もう少し様子を見てからにしましょう)
母のレシピノートをそっと机に置き、部屋を出た。
○
昼過ぎには、ローゼンミュラー家から付き添ってくれていた侍女のハンナが役目を終えて帰ることになった。
イリスは彼女を見送りに行った。
城の正面入り口前にはすでに馬車が停まっている。
王都からの旅でだいぶ打ち解けたハンナは、心配そうな顔をして小声で尋ねた。
「お嬢様……その、大丈夫ですか?」
イリスとレオンが交わした昨夜の会話の内容は、人払いがされていたため、使用人たちの誰も知らないはずだ。もちろんハンナも。
だからハンナは、入れ替わりがバレていないかを心配してくれているのだろう。
レオンとは仮面夫婦となることが決まったので、寝室も別々だし、今朝の朝食もそれぞれの部屋でとっていた。
辺境伯が花嫁を気に入らず、突き返すのではないかとハンナが不安になるのも当然だ。
イリスはにっこり笑った。
「ええ、私なら大丈夫よ。ハンナも王都まで気をつけて帰ってね」
「……はい。お嬢様も、お元気で」
ハンナは気づかわしげな顔で馬車に乗り込み、王都へ帰っていった。
きっとローゼンミュラー家に戻ったとたんイザベラから質問攻めに遭い、「イリスお嬢様は辺境伯から気に入られなかったようです」という報告がなされるのだろうが、別に構わない。
イリスの作ったミントシロップを、イザベラが自分の手作りだと偽り他の人にあげていたと知った瞬間、元々冷えていた家族に対する思いは凍りついて粉々に砕け散ったのだから。
馬車が見えなくなると、城から当のレオン・シュヴァルツ辺境伯が出てきた。
イリスを見つけると、ちょうどよかったという風に話しかける。
「イザベラ、ここにいたのか。庭園を案内したいんだが、今いいだろうか?」
「ありがとうございます、レオン様。喜んでご一緒いたします」
にこやかに答える。
互いにビジネスライクな態度だが、その方がよかった。
聡明な母を疎んじ、母のやりたいことを制限してばかりだった父のような夫より、ずっといい。
レオンはそつなく綺麗な所作で彼の手を差しだした。
エスコートしようとしてくれているのだろう。
そんなことをされたことのないイリスは、ちょっとまごついた。
(……でも、遊び人のイザベラはまごついたりしないはずだわ)
イリスは、イザベラのように「エスコートされて当然」という澄ました顔で、彼の手に自分の手を乗せた。
やってみれば意外と大したことはない。
だがレオンはその手を大事そうにぎゅっと握り、裾の長いドレスを着たイリスを気遣うように、とてもゆっくりと歩いてくれた。
握られた手が、段々熱を帯びてくる。
(冷血な人だと聞いていたのに……)
そのあとも、レオンはお姫様に対するように丁寧な態度で庭園を案内してくれた。
噂と違う彼の優しさに、男性に不慣れなイリスの頬は朱に染まり、鼓動がいつもより速くなってしまうのだった。




