5.レオン・シュヴァルツ辺境伯
ゼールラント王国は、王都以外の二十四の地域を、国王から封土として受けた諸侯が治めて成り立っている。
ここ、シュヴァルツブルク辺境領は、その王国の北東に位置する。
すぐ隣は、虎視眈々と領土拡大を狙う危険な帝国が。
さらに国境となっている北の山からは瘴気が絶え間なく噴き出て、そこから頻繁に魔物が出現して人を襲う。
シュヴァルツブルク辺境領は、常に危険にさらされていて統治の難しい、寒々しい荒野なのである。
(……そう聞いていたのだけど、ひと昔前の話なのかしら。馬車から見た市街はとても栄えていて平和そうだったわ)
シュヴァルツブルク城の広いダイニングルームで晩餐の席に着き、夫となるレオン・シュヴァルツ辺境伯が来るのを待つあいだ、イリスは今日見た景色を思い出していた。
高い城壁に囲まれた城下町にはさまざまな建物が建ち並び、行き交う人々の表情は明るかった。
実家の家族は辺境伯領を田舎だと馬鹿にしていたが、まったくそんなことはない。
まあ、もしそれを知ったところで、異母妹のイザベラは辺境伯ではなく、王都の令嬢たちに人気のフロリアンを選ぶのだろうけれど。
(とりあえずは身代わりがバレてないようでよかったわ。でも気を抜かずに、しっかりイザベラのふりをしなくては)
レオンがダイニングルームへ入ってきた。
席に着いた彼を見て、イリスはどきりとした。
湯浴みをしたのかまだ濡れている銀髪も、胸元を寛げた服装も、やたらと艶めかしい。
庭師のヘルマン以外の男性にはまるで慣れていないイリスは、頬を染め目をそらしそうになったが、グッと耐えた。
きっとイザベラはこんなことで動揺などしないはずだ。
レオンが美しい緑の瞳をイリスに向け、事務的に言った。
「きみの到着を歓迎する。イザベラ・ローゼンミュラー嬢」
「ありがとう存じます、レオン様」
イリスはにっこり笑った。
レオンとイザベラが喋っているところを見たことがないので、真似をするのはかなり難しい。
そのため、最初はなるべく余計なことは言わないことにした。
「会うのはあの夜会以来だな」
「ええ、あの夜会ですわね」
どの夜会かはわからないが話を合わせる。
「突然の求婚で驚いたことと思う。あの夜、俺はきみにすっかり心を奪われてしまったんだ」
「まあ、レオン様ったら」
なんと、イザベラの言った通り、辺境伯は本当に異母妹にメロメロらしい。
これはますますバレないようにしなくては。
「遠征帰りで強制的に夜会に参加させられ、疲れ果てていた俺にきみがくれたミントシロップ……あれで求婚を決めた」
「………………えっ?」
思わず、素の顔でそう聞き返してしまった。
(ミントシロップって……もしかしてあれのこと? いつかの夜会で、庭園にいた男性に渡した……)
一気に記憶が蘇る。
月明かりの庭園。ベンチに座っていた男性。
彼も魔物退治の遠征帰りだと言っていた。
だいぶ疲れているようだったので、お守り代わりに持ってきていたミントシロップの小びんをあげたのだ。
はたして、レオンは中身が空になったその小びんを取りだし、イリスに見せた。
「こんなものを見ず知らずの男にくれるなんて、ずいぶん優しい令嬢だなと感心した。だが、もう少し気をつけた方がいい」
(そ、そういえばこの声……!)
そういえば、庭園で聞いたあの男性の声と同じだ。
でもまさか辺境伯ともあろう人が、たかがミントシロップ一つで結婚を決めるわけがない。
と、思っていたら。
「これは非常に貴重なものだからな。気を悪くしないでほしいんだが、夜会のあとでこのシロップに毒が入ってないか調べさせてもらった。見知らぬ人間からもらったものをそのまま口にするわけにはいかないし、もし毒入りであればそれなりの対応が必要だ。だが解析の結果は無毒。それどころか、きみのミントシロップは市販のポーションと同程度の回復効果を持っていることが判明した」
「………………」
そういうことだったのね……と思いながら、イリスは黙って聞いていた。
母直伝のレシピで作る、回復効果を持つミントシロップ。
彼が欲しいのは単なる花嫁ではなく、その作り手だったのだ。
「きみも知っているだろうが、ポーションは魔素が入っているからとても苦くて不味く、砂糖やハチミツを入れても誤魔化せない。戦場で体力を回復させるためには我慢してそれを飲むしかないが、飲んだら吐く者もいるほどだ。ところがきみのミントシロップはポーションと同程度の回復効果を持っている上に、甘くて美味い」
吸い込まれそうな緑の瞳を細め、レオンは理路整然と告げた。
「つまり、役に立つ上に高値で売れる…………これが求婚の理由だ、イザベラ嬢」
イリスはかすかに眉をひそめた。
彼が求めているものは完全に功利的な結婚だということはわかった。
だがそれなら、なぜ作り手の自分ではなくイザベラに縁談が行ったのか?
辺境伯に、慎重に尋ねる。
「……そんなに評価していただけるなんてうれしいですわ。ですが、なぜ私がそれを作ったのだとお思いになったのですか? 他の方から頂いたものかもしれないでしょう?」
「ああ、その点についても調べさせた。その結果、イザベラ・ローゼンミュラー嬢は普段から質のいいミントシロップを手作りしていて、友人たちに気前よく分けているということだった。夜遊びの翌日に飲むのが王都の社交界で流行っているとも聞いた。ついでに、異母姉がそれを妬んで家ではきみを虐めているとも」
「……な……」
イリスは愕然とした。
異母妹のイザベラは、イリスがミントシロップを作るたびに「これ、あたしにちょうだい」と奪っていった。
味が気に入って飲んでいるのだと思ってちょっとうれしかったのに、まさか、自分で作ったと偽り友人たちに配っていただなんて……しかも、夜遊びのあとで飲むために……おまけに、イリスがイザベラを虐げているという作り話まででっちあげて。
だから、夜会でイリスは他の人たちから刺々しい視線を向けられていたのだ。
異母妹を虐げる意地悪な姉として。
イザベラが言っていた、レオンが自分にメロメロだという話も、見栄を張るためだけの嘘だったのだろう。
今さらながらふつふつと怒りがこみあげてくる。
それには気づかない様子で、レオンは話を続ける。
「貴族の夜遊びの必需品というのも、それはそれで高く売れそうだが、辺境伯領でならもっと有効に活用できると踏んだ。わが領には大規模な騎士団が常設されているし、交易路が通っているので王都にも帝国にも販路を広げられる。きみのミントシロップを、ぜひわがシュヴァルツ家で量産化させてくれないだろうか」
打ちのめされていたイリスの心は、その言葉にぴくりと反応した。
騎士団で活用してもらえる?
しかも、王都や帝国に販路を?
(お母様のミントシロップが、世に広まるの? ……本当に!?)
聡明で才能に溢れた女性なのに、政略結婚で嫁がされ、息の詰まるような生活を強要されていた母の寂しげな顔を思い出す。
その母が大事にしていたレシピが量産化され、たくさんの人たちの役に立つとしたら……天上にいる母も喜ぶに違いない。
勢い込んで承諾の返事をしようとしたら、レオンが表情を硬くした。
「しかし、調査の結果、イザベラ・ローゼンミュラー嬢は相当な遊び人だということもわかった」
「………………」
そうですね、とも言えず、イリスは気まずい顔で黙りこんだ。
「妻にするには問題だが、俺はどうしてもきみの腕が欲しい。そこで提案だ。きみは辺境伯夫人として回復効果付きのミントシロップを作るが、俺とは仮面夫婦となり、それぞれ自由に過ごしていいこととする。どうだろう?」
「構いません」
イリスは即答した。
レオンがわずかに驚いたような表情を見せる。
だがどうせ実家に帰ることなどできないし、身に覚えのない悪評が広まった王都になどもう帰りたくもない。
それに……有能な辺境伯に「どうしてもきみの腕が欲しい」などと言われて、内心では舞い上がっていた。
今まで生きてきて、そんなことを誰かに言われたことは一度もなかった。
話の内容はかなり殺伐としたものなのに、うれしくて頬がゆるむ。
その笑顔に、レオンは一瞬息を呑んだように見えた。
「庭園にたくさんミントが植えられていました。あれを使っていいのですか?」
「……ああ。庭園は好きに使ってくれて構わない」
「ありがとうございます! 今後よろしくお願いいたします」
ふたたび無表情に戻ったレオンが、ワイングラスを持ち上げた。
「こちらこそよろしく」
イリスもグラスを掲げた。
燭台の灯の下に、涼やかな乾杯の音が響いた。




