3.身代わりの結婚②
それから数週間後。
イリスは長年ローゼンミュラー家へ仕えている庭師のヘルマンに会いに、庭園へ行った。
五十代半ばだが屋敷の誰よりも屈強で筋骨隆々とした彼は、日に焼けたなかなか渋い顔立ちに頬ひげを生やして腕まくりをし、いつも黙々と庭の世話をしている。
そして誰よりも優しく、イリスが小さな頃からずっと庭のことをあれこれと教えてくれていた。
継母と異母妹イザベラが来てから、イリスは家族に除け者にされていた。
だがヘルマンだけは、いつも温かく寄り添ってくれた。
他の使用人たちは主人に同調するようにしてイリスをいない者のように扱っていた中で、彼だけは愛情を注いでくれた。
この人がいなかったら、イリスの心はとっくに壊れてしまっていただろう。
今までなかなか言い出せなかったのだが、イリスはヘルマンに、異母妹の身代わりで結婚することを告げた。
彼はバジルの選定をしていた作業の手を止め、珍しく感情を露わにした。
「本当ですか……ここから馬車で一週間もかかる辺境伯のところへ、しかもイザベラお嬢様の身代わりで? なんてひどい話だ……!」
「大丈夫よ、ヘルマンさん。きっとなんとかなるわ」
さっきまでは自分もなんてひどい話なのだろうと思っていたのだが、ヘルマンがそう言ってくれると、不思議と「大丈夫」という言葉が口から出てきた。
心配してくれる人がいると、強くなれるものなのかもしれない。
イリスは用意してきたものをヘルマンに差し出した。
「これを受け取ってほしいの。今までお世話になったお礼よ」
小さな布袋に入ったそれは、銀貨だった。
あまり多くないドレスを売り払って作ったお金だ。
ほとんどのものを売ってしまったため、手持ちのドレスはたった三枚になってしまったが、ヘルマンのためなら悔いはない。
どちらにせよここ数年は一度もドレスなど新調してもらえず、どれもイリスの趣味には合わないイザベラのお下がりばかりだったのだ。
ヘルマンは目を見開いた。
何十年もこの屋敷に勤めているのに、ヘルマンの給金はちっとも上がっていない。
イリスの父のローゼンミュラー伯爵が人件費をケチって、全然昇給をしないからだ。
ヘルマンは肺の病気を抱えている。
本当は医者にかかり、定期的に薬を服用しなくてはならないのだが、少ない給金ではとても高額な診療費や薬代を払うことなどできなかった。
それでも彼がローゼンミュラー家に勤めているのは、おそらくイリスのためだ。
アザレアが亡くなる前、ヘルマンにイリスのことを頼んだから、この屋敷に残ってくれている。
ヘルマンは険しい顔をして、バジルの匂いのする大きな手で布袋を押しやった。
「それは受け取れません。ご結婚するイリスお嬢様の方が何かと物入りでしょう」
「私は大丈夫よ。それにきっとお母様も、生きていたらヘルマンさんにお礼をしなさいって言うわ」
「いや、受け取れません」
「でもせっかく用意したのだから……」
「いりません」
「だけど」
「駄目です」
頑固である。
だからこそ少ない給金でも音を上げず働いてくれていたのだろうが、これは絶対に受け取ってもらわなければ。
ヘルマンの作業着には、いくつもポケットが付いている。
その一つに素早く布袋を放り込み、さっと距離を取って木の陰に隠れた。
「イリスお嬢様!」
「あなたが元気でいてくれないと、私は心配でお嫁に行けないの!」
そう言うと、ヘルマンはやっと受け取る気になったようだった。
忸怩たる表情で礼を言う。
「……もったいないことで……ありがとうございます」
「私の方こそ、色々なことを教えてくれてありがとう、ヘルマンさん」
笑顔でお礼を言うと、これでお別れなのだと実感して、泣きそうになった。
涙もろいヘルマンはすでにシャツの袖で目を拭っている。
アザレア亡きあと、イリスは寂しさを埋めるかのように庭園に入りびたり、ハーブを収穫しては母に教わったレシピでミントシロップづくりに精を出した。
そのそばで常に優しく自分を見守ってくれていたのがヘルマンだった。
ただ、そうして出来上がったミントシロップはたびたびイザベラに見つかり「これ、あたしにちょうだい」と奪われてしまったのだが。
ガラスの小びんに入った緑色のシロップは見た目にも可愛らしいので、欲しくなったのかもしれない。
「魔女みたい」などと悪口を言っていたのに現金なものだ。
けれど、それは数少ない家族のつながりのように感じられて、イリスはいつも文句も言わず異母妹に渡したのだった。
お礼を言われることはほとんどなかったが……。
そんな生活にも、もう本当にお別れだ。
○
ヘルマンに別れを告げると、イリスは自室に戻り荷造りの仕上げをした。
とはいえ持っていく荷物は多くなく、伯爵令嬢だというのにトランク二つで事足りてしまった。
辺境伯から送られてきた支度金はすべてイザベラと継母のものになったようで、嫁入りする当人のイリスはドレスを新調するどころか、銅貨一枚さえも与えられなかった。
さすがに手持ちのドレスが三枚では心許なかったが、行き先は辺境だ。
社交が忙しくてドレスが足りない、なんてことにはならないだろう。
イリスは暗い廊下の一番隅に飾られた母の肖像画に話しかけた。
「……お母様、どうか見守っていてください」
もうすぐ辺境伯からの迎えの馬車が来る。
最後に、ハーブレシピの詰まった母の形見のノートを丁寧にトランクに詰め、イリスは生まれ育った部屋を出た。




