27.名前を呼んで
イリスがイザベラの身代わりとなって辺境伯へ嫁いでから、今日で三か月。
ここへ来た当初は緑鮮やかだった庭園は落ち着いた色合いとなり、窓の外には澄んだ空が広がっている。
爽やかな空気を吸い込んでいると、ノックの音がした。
「おはようございます、奥様」
「おはよう、ベス、ハンナ」
辺境伯夫人であるイリスの身支度をするために入ってきたのは、二人の侍女だった。
ベスは元からシュヴァルツブルク城にいて、イリスが嫁いできた日から世話をしてくれている。
そして最近、二人目の侍女が付いた。
仕えていたローゼンミュラー伯爵家が没落して路頭に迷っていたところを、イリスの口添えでシュヴァルツ家に雇用されたハンナだ。
王都から遠く離れた辺境伯領で主人たちが捕らえられてしまい、途方に暮れていたハンナは、シュヴァルツブルク城で働かないかと言われて一も二もなくうなずいた。
今はベスの下で侍女の仕事を教わっているところだ。
ベスとハンナは、ブラウンの絹地にダリアの刺繍が入った美しいドレス────イリスがリースフェルト商会から買った新作だ────をてきぱきと着せ、髪も部分的に編んで綺麗に整えてくれた。
「二人とも、ありがとう」
礼を言うと、ベスはにこりとほほえみ、ハンナはイリスを見つめて言った。
「お綺麗です、奥様」
イリスは目を見開いた。
実家にいた頃の自分はいつもイザベラのお下がりのみすぼらしいドレスを着ていた。
ハンナもそのことを知っている。
けれど今イリスが身に着けているのは、自分の力で手に入れた、自分の好みに合う素敵なドレスだ。
だから、余計にハンナのその言葉がうれしかった。
「ありがとう」
顔をほころばせてもう一度礼を言うと、イリスは部屋を出て庭園へ向かった。
庭園は、秋を迎える準備に忙しかった。
すっかり元気になった庭師のマックスだが、高齢ということもあり、現在は勤務時間を減らして働いている。
ヤンと一緒にバラの剪定をしている二人に挨拶をして、イリスはミントのエリアへ行った。
新参だがその腕を買われ、庭師頭に抜擢されたヘルマンが、ペパーミントの収穫をしていた。
迷いのない動作で素早く鋏を動かし、大きな籠の中はみるみるミントの葉でいっぱいになっていく。
実家にいた頃から、この魔法のような鋏さばきを見るのが大好きだった。
彼は手を休めないまま、イリスをちらりと見て話しかけた。
「そろそろミントも終わりの時期ですね」
「そうね。ミントポーションは騎士団とも協力してたくさん作ったけれど、何か冬のあいだも作れるものを考えないと」
ミント類は生命力旺盛とはいえ、さすがに冬は収穫が難しかった。
アザレアが遺したハーブレシピノートにはさまざまなレシピが載っているのだが、理論が難解で、イリスにはまだミントポーション以外のものを作ることが出来ない。
とはいえ辺境騎士団の魔導士たちと協力すれば、いつかは成功する気がしていた。
今後の課題である。
ふと周りを見渡すと、いつの間にか紫色の花々が一面に咲いていた。
秋になると王都のローゼンミュラー家の庭園にいつも咲いていた、可愛らしいアスターの花。
アザレアが大好きだった花だ。
美しい母の面影と、ヘルマンが母へ向けていた優しいまなざしが脳裏に浮かぶ。
イリスは収穫作業を終え、片づけをしている彼を見上げた。
腕のいい庭師の彼は、その気になれば王都でもっと好待遇の屋敷に転職できただろう。
けれどもそれをせず、病没したアザレアに頼まれたというだけでローゼンミュラー家に残り、黙ってイリスのそばにいてくれた。
イリスはずっと疑問に思っていたことがある。
ヘルマンは亡くなった母を想っていたのだろうか?
そして母もヘルマンのことを────。
「おや、旦那様がお迎えに来られたようですよ」
その言葉で空想はかき消された。
尋ねるのはきっと無粋だろう。
この疑問は疑問のまま残しておくことにして、イリスはこぼれたミントを籠に入れながら言った。
「今日はレオン様と結婚式の打ち合わせがあるの。まだその時間ではないと思うけど……」
「あなたに会いたくて我慢できなかったんでしょうね」
「そ、そんなはずないわ」
赤面するイリスに、ヘルマンはいたずらっぽく片方の口角を上げた。
「奥様を独占しているとあの方ににらまれるのはごめんです。早く行ってください」
「もう、わかったわよ……」
やはりヘルマンは、ここへ来てから明るくなったようだ。
からかわれてむくれながらも、イリスはなんだか楽しい気分で、迎えに来てくれた夫のもとへ歩いていく。
午前中は辺境騎士団で仕事をしていたレオンは、騎士服に片マントという凛々しい姿だった。
マントを留めているのはイリスが贈った四つ葉のブローチだ。
「大切に使う」という言葉通り、いつも使ってくれているようだ。
もちろんイリスも彼からもらったネックレスを毎日身につけている。
そばへ来た彼が、やわらかなまなざしをイリスへ向ける。
「早く会いたくて迎えにきた」
「は、はい……」
なんとヘルマンの言う通りだったらしい。
騎士服姿がいつも以上に素敵な夫に肩を抱かれ、イリスの顔に熱が集まる。
「行こう、イザベラ」
「……はい」
だが、人前で彼が呼ぶのは、自分の異母妹の名だ。
その名を呼ばれるたび、ここでの役割を感じて身が引き締まり、それから────ほんの少しだけ寂しさを感じた。
○
辺境伯領のある王国北東部の風習は、王都のそれとはかなり異なる。
日曜日はほとんどの店は閉まっているし、落し物は警邏隊には届けず木の枝に引っかける。
一生のほとんどを通称で過ごし、本当の名である真名はごく親しい家族のあいだでしか呼び合わない。
人生の一大イベントである結婚すら、通称で通してしまうほどだ。
そんな慣習と本名を明かした場合の実際的な影響を考慮してレオンと話し合った結果、イリスは今後も「イザベラ」として過ごすことに決まった。
花嫁イザベラが本当はイリスという名前だったとしても、結局のところ、イリスが心配していたほどには問題はなかったのである。
「レオンとイザベラ」の結婚式を挙げると決まったのは、つい最近のことだ。
仮面夫婦なので結婚式など挙げないだろうと思っていたのだが、領地内外から客を招待し大々的に執り行うということなので、もしかしたらこれもミントポーションの宣伝の一環なのかもしれない。
そう思いながら、イリスは気合いを入れて、本日の夫との打ち合わせに臨んだ。
だが、通されたのは執務室ではなく、レオンの私室だった。
ふかふかの大きなソファに、向かい合わせではなく、すぐ隣に並んで座る。
距離が近い。
手も繋がれている。
目の前のローテーブルには、レオンの部下が作成したらしき結婚式の計画書が置かれている。
けれど当のレオンはそれを見もせず、砂糖菓子よりも甘い視線を、まっすぐイリスに向けている。
どういうことだろう?
「……あの、結婚式の打ち合わせは……」
「ああ、ウェディングドレスは王都風と北部風、どちらがいいだろうか」
「北部風でお願いします」
「承知した。打ち合わせは以上だ」
「そ、それだけですか?」
「打ち合わせだとでも言わないと、忙しいきみを捕まえられないからな」
「忙しいのはレオン様では……」
彼の端正な顔が近づく。
美しい緑の瞳は、どこか甘えるような、すがるような色を帯びている。
「イリス」
名前を呼ばれ、イリスの鼓動が速まった。
頬に彼の手が触れる。
熱がこもっていて、本当に自分が触れていいのか、少し迷っているような手だ。
囁くように彼が言った。
「名前を呼んでくれないか」
低い声も、緑の瞳も、熱を帯びる手の感触も。
彼のことがどうしようもなく愛おしい。
イリスはその手に自分の手を重ね、彼の真名を呼んだ。
「レナードさま」
次の瞬間には唇を塞がれた。
長いキスが終わると、レオンはイリスの体を宝物のように抱き寄せた。
これまで感じたことのないほどの幸せに包まれる。
やっぱり、少しも寂しくなんてない。
他には誰も呼ばなくても、レオンだけは、イリスの名前を呼んでくれる。
それに、イリスも彼の寂しさを埋めてあげられるから。
レオンを見上げると、いつもは凛々しい顔が、たまらなく幸せそうだ。
その緑の瞳にはイリスだけが映っている。
イリスは彼の顔を両手で包みこみ、今度は自分からキスをした。
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