23.本物と偽物②
だが、ほっと一息ついたのもつかの間。
イリスの父、ローゼンミュラー伯爵が護衛の隙を突いて逃げだした。
彼は古い短剣の柄を握り、なんと、まっしぐらに鳥の魔物へ突撃した。
その場にいる全員が呆気にとられてそれを見ている。
「邪悪な魔物め、このローゼンミュラー伯爵が成敗してくれるわ!」
毒で麻痺した魔物を前に、大声でそんな口上を述べる。
イリスはハラハラしていた。
(私とイザベラの入れ替わりがうまくいかなそうだから、自分が魔物にとどめを刺して「イザベラ」を騙った罪をうやむやにしようという魂胆ね……)
事実として、伯爵よりも辺境伯の方がずっと重要なポジションであり、位も高い。
その辺境伯の手紙を偽造して辺境伯夫人を呼び出し、辺境伯夫人を脅して夫人になりすまそうとしたのであれば、投獄され重い刑罰を受けてもおかしくない。
さらにここは辺境伯領。
レオン・シュヴァルツ辺境伯が裁判権を持つ場所である。
伯爵といえども、その裁きから逃れることはできないのだ。
(だけど、あの鳥の魔物はとても大きいし、麻痺の効果がいつまで続くか……)
伯爵はものすごい形相で魔物にとどめを刺そうとした。
しかし。
「む……むむっ?」
短剣は錆びついてでもいるのか、伯爵がどんなに引っ張っても、鞘から抜けなかった。
そのあいだに魔物の麻痺が解けたようだ。
巨大な翼を広げ、体勢を立て直す。
そして伯爵を怒り狂った目でギロリとにらみつけた。
「ヒッ……!」
伯爵はへなへなとその場にへたり込んでしまった。
魔物が脚を上げた。
鋭い鉤爪が伯爵に襲いかかる。
だが、その脚にナイフが次々と突き刺さった。
魔物の動きが一瞬止まる。
オリヴィアが部下に投擲を命じたのだ。
「お父様、今のうちに!」
イリスが叫んだ。
「む、無理だ……足をくじいてしまって……」
「そんな……!」
魔物はさらに怒り狂った雄叫びをあげた。
イリスはヘルマンにがっちりと腕をつかまれていた。
だが、行ったとしても何もできなかっただろう。
あのスプレーは護身用の切り札であり、一度きりしか使用できないものなのだから。
大きく開いた魔物の嘴が、伯爵に迫る。
イザベラと継母が悲鳴を上げる。
イリスは思わずぎゅっと目を閉じた。
そのとき、聞き覚えのある音が聞こえてきた。
複数の馬の蹄の音だ。
警戒した魔物が首をそちらへ向ける。
イリスたちも、音のする方を吸い寄せられるように見つめた。
すぐに騎馬隊が姿を現した。
先頭にいるのは見事な白馬だった。
それを操るのは、銀髪の美しい男性。
「……レオン様っ!」
イリスは愛しい夫の名を呼んだ。
レオンは一目で状況を見てとると、長剣をすらりと抜き放った。
白馬を巧みに繰り跳躍させる。
魔物は羽ばたいて逃げようとしたが、毒のせいで一拍遅れた。
鮮烈な一撃が決まった。
斬り落とされた魔物の首がイザベラの目の前へ転がっていく。
「ひっ……!」
イザベラは気絶してしまった。
「レオン様!」
イリスはレオンのもとへ駆け寄った。
レオンも軽やかに馬から降り、妻へ腕を伸ばす。
「イザベラ、怪我はないか?」
「はい」
初めて辺境伯領へ来た日と同じように、レオンの頬には血しぶきが飛んでいた。
だが、イリスはそれが誇らしかった。
その血は彼が勇敢に魔物と戦った証だ。
レオンは愛おしそうに妻の顔を撫でた。
「遅くなってすまない。飛行型の魔物が大量に出現して手間取った。城壁外に誘導して倒していたんだが、最後の魔物が市街地の方へ飛んでいったので追いかけてきたら、きみが弱らせてくれていたのだな。お手柄だ」
「レオン様のおかげです。ありがとうございます」
あの毒がなければ、そして彼の到着がもう少し遅ければ、死人が出ていただろう。
イリスが笑顔で礼を言うと、レオンにぎゅっと抱きしめられた。
「レ、レオン様……!」
「きみに会いたくてたまらなかった」
耳元で囁かれ、イリスは全身が火のように熱くなった。
馬上から眺めていた辺境騎士団の騎士たちが楽しげに指笛を鳴らし、ヤジを飛ばす。
直属の部下たちは、冷血と恐れられている騎士団長にも気安いようだ。
だがそんな和やかな空気を、イリスの継母の金切り声が切り裂いた。
「辺境伯閣下、その娘はニセモノです! 姉のイリスがイザベラになりすましているのです! ここにいるこの子が本物のイザベラですわ!!」
さっと、イリスの全身の血の気が引いた。
心臓がどくどくと強く脈打つ。
(どうしよう、よりによってこんなところで暴露されてしまうなんて────)
だが、レオンは血も凍るようなまなざしを継母へと向けた。
「……は? くだらん世迷い言を。おまえたち、そこの愚か者どもを捕らえて地下牢へ放り込め」
即座に騎士たちが馬から飛び降り、鮮やかな手並みで伯爵と継母とイザベラを縛り上げ、騎士団の詰所へ連行していった。
伯爵夫妻はずっと「お聞きください、辺境伯閣下!」とか「こちらの娘が本物のイザベラです!」などと喚いていたが、レオンはまったく聞く耳を持たなかった。
イリスは呆気にとられてその光景を見ていた。
まさかレオンが自分を疑いもしないとは。
連行されていく家族を見ると少しだけ胸が痛んだが、もう自分には関係のない人たちだ。
父と継母とイザベラは、長いあいだイリスをいないものとして扱い、三人だけで楽しく暮らしてきた。
これからもそうしてもらって全然構わない。
そのあとは、残った騎士たちがきびきびと魔物の死体を焼却処分にした。
放置しておくと瘴気が溜まり、またそこから魔物が現れるのだそうだ。
イリスが城の窓から見た森の煙は、魔物を燃やしていたものだったようだ。
いつの間にか宵闇に覆われていた空に明るい炎が燃え上がる。
炎から少し離れた場所で、イリスはレオンにここへ来た理由を説明していた。
するとオリヴィアが近づいてきた。
「イザベラさん、レオン、わたくしはそろそろ帰りますわ」
「オリヴィアさん、一緒に来てくださって本当にありがとうございました」
「オリヴィア、俺からも礼を言う」
夫婦が口々に礼を言うと、彼女はあでやかにほほえんだ。
「お気になさらないで。ところで、リースフェルト商会の秋冬物のラインナップもよろしくお願いしますわね」
オリヴィアは部下とともに馬車に乗り込み、帰っていった。
なかなか高くつきそうだ。
けれどもリースフェルト商会のドレスや小物はどれも素敵なので、彼女の置いていったカタログを眺めるのが楽しみでもあった。
レオンがイリスをふりかえる。
「それでは俺たちも帰ろうか、イザベラ」
「はい、レオン様」
答えるや否やレオンにひょいと抱きかかえられ、そのまま一緒に白馬に乗せられる。
「レオン様!?」
馬に乗るのが初めてのイリスは、あまりの高さに驚いてレオンにしがみついた。
彼は片手で前に乗せたイリスを抱き、もう片方の手で手綱を握って器用に白馬を歩かせた。
ヘルマンや護衛たちから笑顔で見送られる。
騎士団の部下が二騎、少し離れてあとをついてくる。
「こちらの方が手っ取り早いだろう? 不在中の報告も聞きたいし」
「は……はい……」
「……本当のことを言うと、きみのそばにいたいだけなんだが」
優しい緑の瞳に見つめられ、胸がとくんと高鳴る。
イリスはそっとレオンの背に腕を回した。
「私も、あなたのそばにいたいです」
自分を抱くレオンの腕に力がこもった。
苦しいほど彼への恋心でいっぱいになる。
城に帰ったら、自分は継母の言った通り、イザベラのニセモノなのだと打ち明けなければならない。
けれど今だけは、これが最後になるかもしれないレオンの温もりに包まれていたかった。




