20.秘密の庭園
翌朝になってもレオンは帰ってこなかった。
窓の外を覗くと、遠くに高くそびえる街の城壁が見える。
城下町は穏やかで魔物と交戦している様子はないので、あの城壁の向こうにレオンがいるのかもしれない。
彼と、彼が率いる辺境騎士団の無事を、イリスは心から祈った。
朝食のあとで庭園に行くと、すでにヘルマンが働いていた。
イリスを見つけて挨拶をする。
「おはようございます、お嬢様」
「おはよう、ヘルマンさん……言い忘れていたけれど、私、結婚したの」
澄まして言うと、ヘルマンも帽子を取って仰々しく一礼した。
「そうでしたね。失礼いたしました、奥様」
二人はくすりと笑い合った。
昨日はヘルマンと再会できた喜びで忘れていたが、自分はもうローゼンミュラー家の令嬢ではなく、シュヴァルツブルク城を預かる女主人なのだ。
自分が生まれたときからヘルマンが「奥様」と呼んでいたのは、イリスの母アザレアである。
だから彼にそう呼ばれるのは奇妙な感覚だったが、他の使用人の目もある手前、きちんとしなければならない。
ひとつ咳払いをしてから、イリスは鍵を取りだした。
「ヘルマンさん、これは昨日レオン様から預かったものなの。庭園の立入禁止区域の鍵なのですって。あなたに管理をしてほしいそうよ」
「ああ、あそこのことですね」
すでにヘルマンにも話が行っているようで、彼は訳知り顔で鍵を受け取った。
「お嬢……奥様もご一緒に行きませんか」
「私も入っていいの?」
「はい。こちらの旦那様は、あなたにもシュヴァルツ家の女主人として知っておいてほしいとのことでした」
女主人ならば、たしかにすみずみまで城のことを把握しておいた方がいいだろう。
イリス自身も中に何があるのか気になっていたので、二つ返事で行くことにした。
「これは……すごいな」
鍵を開けて中に入ると、ヘルマンが感心したようにつぶやいた。
そこには多くの種類の草木が植えられていた。
長らく誰も手入れをしていなかったために雑草がはびこり、枯れているものも多かったが、雨で生き延び元気に葉を茂らせているものもある。
イチイやキョウチクトウの木の下には、スイセン、ヒヨス、ジギタリス、ルピナス……季節が来れば花を咲かせるものが、まだ他にもありそうだ。
ここに植えられている植物には、ある共通点があった。
圧倒されながら目の前の光景に見入っていたイリスは、静かに言った。
「『立入禁止区域』なのは、そういう理由だったのね……ここの植物、すべてが毒草だわ……」
実家の母の本棚には数多くの植物図鑑があった。
イリスはその図鑑を読むことが好きだった。
幼い頃は母と一緒に。
成長して継母と異母妹から虐げられるようになると、心の慰めとして。
そしてどの図鑑にも、最後の方のページには「注意するべき植物」として毒草が載っていた。
少しドキドキしながら、イリスは毒草のページも食い入るように眺めたのでよく覚えている。
「奥様、花にお手を触れないようになさってください」
「ごめんなさい」
知らず知らず美しい紫色の花に触れそうになっていて、ヘルマンに注意される。
触れるだけで危険な草もあるのだ。
歩くだけで中毒になりそうな庭園だった。
これはレオンの言う通り、高齢のマックスや経験の浅いヤンには荷が重すぎるだろう。
紫の花の蜜をミツバチが吸っていた。
ここで作られた蜂蜜にも、間違いなく毒が含まれているはずだ。
毒の庭園。
イリスは段々と背筋が寒くなってきた。
「……ヘルマンさん、レオン様はこの庭園をどうするつもりなのかしら……?」
ヘルマンはイリスをふりかえり、少し考えてから答えた。
「廃園にせず管理を続けるというのですから、当然、利用するつもりなのでしょうね」
「利用……」
毒は薬に、薬は毒に、容易に転じることができる。
ここにある植物の毒は、薬としても利用することができるのだ。
だが、さすがにこれだけの量の毒性のある植物を集め、栽培しているとあっては、薬としての利用が主目的ではないだろう。
青ざめるイリスに、ヘルマンが尋ねた。
「旦那様が怖くなりましたか?」
「……いいえ」
イリスは首を横に振った。
今このときも、レオンは辺境伯領の人々を守るために魔物と戦っている。
噂と違って冷血でも残酷でもなく、彼が優しく思慮深い人だということは、嫁いできてからの二か月間でよくわかった。
それに彼はイリスを信用してこの立入禁止区域に入れてくれたのだし、イリスが信頼している庭師にここの管理を任せてくれた。
うしろめたいことに毒を使うつもりなら、そんなことはしないはずだ。
レオンが毒を必要とするなら、それはきっと、誰かを守るための毒だという気がする。
イリスはにっこり笑った。
「私はレオン様を信じるわ」
しばらくのあいだ、ヘルマンはじっとイリスを見つめていた。
それから小さく口角を上げた。
「……実は旦那様から、奥様が怖がらないようなら渡してほしいと頼まれたものがあるのです」
「え?」
どういうことだろう?
なんだか自分の度胸を試されていたような気がして、今さら冷や汗が出る。
「どうやら大丈夫そうなので、これから作るとしましょう」
「何を?」
ヘルマンはそれには答えず、穏やかな微笑を浮かべた。
「奥様は本当に旦那様から愛されていらっしゃるようで、安心いたしました」
「なっ……」
たちまち頬に血が昇る。
それを見たヘルマンは満足そうに口元を布で覆い、分厚い手袋を嵌めて、作業を始めた。
イリスは赤面したまま、どこか釈然としない気持ちでそれを見ていた。
おかしい。
彼は楽しそうにあんなことを言う性格だっただろうか……。
ローゼンミュラー家から来た寡黙な庭師は、シュヴァルツブルク城の水が合うのか、実家では見たこともないほど生き生きと仕事をするのだった。




