14.初めてのデート③
心配なのはレオンも同じだったようで、支配人に無理なスケジュールを組んでいないかを確認しはじめた。
思ってもみなかった方面から労務体制のチェックが入り、支配人はしどろもどろに答えている。
ブリジットは悲しげなほほえみを浮かべた。
「ごめんなさい、領主様ご夫妻にせっかく来ていただいたのに、こんな声で……でも喉が潰れても、公演はきちんとこなしますから」
「ブリジットさん……でも、体を壊してしまったら……」
「故郷の村に小さな弟がいるんです。ここへ呼んで、学校にも行かせてあげたいから、あたしが頑張らないと」
決然とブリジットが言う。
その表情を見ると、イリスはバッグからそっと緑色の小瓶を取りだした。
人の多い場所へ行くときには、いつもお守り代わりに入れているミントポーションだ。
ブリジットはそれを見ると目を輝かせた。
「まあ、綺麗。何が入っているのですか?」
ずば抜けて美しいブリジットだが、やはり同じ女子である。
可愛いものには心を惹かれるのだろう。
イリスもにっこりして答えた。
「私が作ったミントシロップです。実は、ポーション効果も付与してあって……もしよかったら、お飲みになりますか?」
「いいのですか?」
ブリジットはすぐに興味を示した。
イリスはちらりとレオンを見た。
〈ミントポーション〉はシュヴァルツ家の専売特許として売り出す方針で、その前段階として辺境騎士団に卸しているのと同時に、サンプル品をこの辺りの貴族家に配っていると聞いた。
その一環として、歌姫であるブリジットに使ってもらうことは問題がないと思うのだけれど……。
レオンと支配人も二人のやり取りに気づいてこちらを見た。
支配人が困ったような愛想笑いをして、イリスとブリジットのあいだにぐいっと割り込む。
「奥様、大変申し訳ございませんが、差し入れはすべてお断りしているのですよ。ファンの中には怪しい惚れ薬なんかを贈り物に紛れ込ませる輩もおりますのでね……」
言葉は丁寧だが目が笑っておらず、すごい迫力だ。
イリスは思わずミントポーションを握っていた手を引っ込めた。
だが、すぐに肩に温かなものを感じた。
レオンがイリスの肩を抱き、さらなる迫力で支配人に告げた。
「毒の心配など不要だ。妻の作ったミントポーションは当家の自慢の逸品で、その効果は保証付きだからな。もし何かあれば、責任はすべて俺が取ろう」
イリスの心は羽が生えたように軽くなった。
全面的に自分を信頼し味方になってくれるレオンの言葉が、飛び跳ねたくなる位にうれしい。
「は、はい……おいブリジット、領主様の奥方様のお手製だぞ! ありがたく頂くんだ!」
ころりと態度を変えた支配人に呆れつつ、イリスはブリジットにミントポーションを手渡した。
「ありがとうございます、奥様」
ブリジットが蓋を外し、中身をひといきに飲み干す。
きらきらと繊細な魔力の光が彼女の体を包んだ。
「………………ル~……ラララ~……嘘みたい、喉がすっかり治ってるわ!」
喉に手を当てたブリジットは、頬を紅潮させて叫んだ。
その声には、さきほどのような掠れは少しもない。
「良かったです、ブリジットさん!」
笑顔でブリジットと喜び合うイリスを、レオンは目を細めて見守っていた。
○
歌劇は夢のように素敵だった。
声を取り戻したブリジットは悲しみや喜びを高らかに歌い上げ、満員の聴衆を魅了した。
二階のボックス席でレオンの隣に座り、夢中で舞台を観ていたイリスは何度も笑い、涙を拭い、終わると惜しみない拍手を捧げた。
まだ終演後の熱気に包まれた劇場のロビーは喧騒に包まれていた。
辺境伯であるレオンには、この辺りの上流階級の人たちがこぞって挨拶にやってくる。
レオンはそうした人々に対して、イリスを「妻のイザベラ」として紹介した。
最初はレオンに対して少し怯えたような顔つきだった人たちは、ごく普通の令嬢といった外見の領主夫人に警戒心をゆるめた。
さらにイリスが熱く歌劇を褒めると、笑顔で何度もうなずいた。
「そうでしょうそうでしょう。ここの劇場も王都の劇場には引けを取りませんからね。われらが歌姫ブリジットも、そのうち王都の方にも進出するんじゃないでしょうか。まあそうなったとしても、彼女のホームがこの辺境伯領なのは変わらないですがね」
王都出身のイリスを相手に、得意げに地元の歌姫を自慢する。
イリスは王都の劇場には行ったことがなく思い入れもなかったので、こんなに誇れるものがある人々が少しうらやましく、ほほえましかった。
それだけブリジットと辺境伯領が愛されているということだろう。
一通り挨拶が済み、ロビーが空いてくると、レオンはイリスに顔を近づけて言った。
「きみも歌劇を気に入ってくれたようでよかった」
「はい、とても気に入りました。本当に素敵で……今も夢の中にいるようです。誘ってくださってありがとうございます、レオン様」
イリスの言葉に、レオンはうれしそうにフッと頬をゆるめた。
至近距離でほほえまれ、緑の瞳に見つめられて、胸がきゅんとときめく。
さらに彼は、他の人にぶつかりそうになったイリスの肩を抱き寄せた。
「こちらこそ、歌姫を助けてくれてありがとう。それでは帰ろうか」
「は、はい」
今日は一日中ドキドキしっぱなしだ。
仮面夫婦なのだから、レオンをこんなに意識してしまってはよろしくないのだが。
(……あら? 結局レオン様は、なんのために私を歌劇に誘ったのかしら?)
喉を傷めていたブリジットにミントポーションをあげたのは偶然だし、その後、特にそれを支配人に売り込んでいた様子もない。
興業のペースについては見直しを迫っていたようだが、それも偶然だ。
……では、仕事上の必要から、上流階級の人たちに「イザベラ」を紹介したかったのかもしれない。
うん、きっとそうだろう。
『奥様と旦那様の初めてのデートですからね』という侍女ベスの言葉が頭によみがえってきて、必死にふりはらう。
イリスはイザベラを演じているのだし、レオンは自分と仮面夫婦でいることを望んでいる。
この結婚は二重の意味で舞台と同じ。
ほんとうのものではないのだ。
けれど、レオンが自分に向けてくれる笑顔は温かくて、そばにいると幸せな気持ちになれるということはほんとうだった。
そんな自分たちを物陰から不穏な表情で見つめる赤髪の女性がいたことに、イリスは気がつかなかった。




