婚約者が相思相愛と言われる幼馴染とキスをしていた
氷のような冷たい青の瞳と銀の髪。他者を寄せ付けない怜悧な威圧を放ち、何を考えているか分からない無表情を十年以上見続けてきたハリエットだからこそ分かることがある。視線の先で口付けを交わす男女。男は自身の婚約者シルビアン。女性の方はシルビアンの幼馴染イーヴァ。
帝国で最も美しいと評されるイーヴァと氷の皇太子と呼ばれるシルビアンが幼馴染で幼少の頃から相思相愛だと有名な話。
――殿下……。
今日は十日に一度婚約者としてシルビアンに会う日。いつものようにハリエットが登城する日に使用する部屋に来れば、扉が微かに開いていた。先にシルビアンが待っている時があろうと扉が開いているのは妙だと思い、他の誰かが使っていないか確認の為隙間から室内を窺って――二人の口付けを目撃してしまった。
「……」
激情型の人なら婚約者の浮気現場を目撃後、すぐに部屋に突撃して女性もろとも糾弾するのだろうがハリエットには出来ない。
静かに扉を閉めたハリエットは踵を返すと城内を去り、外に待機させていた馬車に戻った。随分と早い戻りに御者が驚き、シルビアンは急用で不在だったと嘘の理由で屋敷へと戻ってもらった。
邸内へ入れば少し前に城へ向かったハリエットが戻って来たことに驚いた父が階段を下りて来ていた。
「ハリエット? 随分と早く戻ったね」
「ええ。殿下は急な用が入ってしまい不在とのことでした」
「そうだったのか。しかし、我が家には何も報せはないが」
「かなり急だったということで我が家への連絡が遅くなってしまったとか」
何とか父を納得させたハリエットは部屋に戻った。暫く一人にしてほしいと侍女に頼み、ベッドに腰掛けたハリエットは仰向けに倒れた。
「殿下……」
シーツに乱れた自身の髪が視界に入り一房手に取った。父譲りの栗色の髪は決して嫌いじゃない。母と同じプラチナブロンドに憧れを持った回数は数知れず。三歳下の妹は母と同じ髪色だ。ただ、瞳の色だけは母と同じ紫色。地味ではないが派手でもない色合いであるが容姿はそこそこ整っている。筈。
対してイーヴァは黄金の髪に濃い緑色の瞳を持った絶世の美女。イーヴァの母ウィルソン公爵夫人が嘗て社交界の男性達を虜にした女性だったと聞いている。母譲りの美貌を持つイーヴァと氷のような怜悧な冷たさを持ちながら類稀なる美貌を持つシルビアンはお似合いの男女だ。
ウィルソン公爵と現皇帝は兄弟のように育った間柄。二人が幼馴染なのも必然。ハリエットがシルビアンの婚約者になれたのはどうしてなのだろう。ウォーカー家も公爵位を賜る由緒正しきお家柄であるものの。
ハリエット自身の評価も悪くない。ただ、イーヴァという相手がいながらハリエットが婚約者になれた理由は知らない。
「お嬢様」
シルビアンとの関係はどうかと訊ねられれば――答えは良好と言い難く。かと言って険悪でもない。
会えば会話をする。とても短いだけ。
婚約者と決まった当初から、十日に一度お茶をしている。ハリエットが話を振れば一言二言返事をするがシルビアンから話を振られた回数はあまりない。
無言の空間に居続けるくらいなら回数を減らした方がお互いの為と考えたハリエットが父に回数を減らしてもらえるよう皇帝に頼んだ際、翌日シルビアンが訪ねて来た。先触れもなく突然だった為屋敷中騒ぎになったのを今でも覚えている。
『で、殿下? 今日は殿下が来るという知らせは聞いておりませんが……』
『……城に来る日を減らしてほしいと頼まれたと父上に聞いた。何が不満なんだ』
不満なんてない。不満なのはシルビアンの方ではないだろうか。ハリエットと会ってもどこか不機嫌で無表情は変わらず、同じテーブルに着いても会話は殆どない。皇太子として多忙を極めるシルビアンに余計な時間を取らせたくなくて月に一度にしてほしいと頼んだのだと言えば、不機嫌の度合いが強くなった表情で拒否をされた。
『必要ない。回数は減らさない。十日後、ちゃんと来るように』
『え、でも、あの』
戸惑うハリエットを置いて言いたいことを言って満足したシルビアンは帰って行った。その十日後、城から使者が寄越された。念の為準備をしていて良かったものの、シルビアンが嫌がる理由がハリエットには分からなかった。ただ、その日からテーブルに置かれているスイーツがどれもハリエットの好みに合わされ、会話も少しだけ増えた。
戸惑いが強くても内心嬉しかった。シルビアンなりに歩み寄ってくれているのだと思えて。
「お嬢様!」
「わっ」
イーヴァとシルビアン。二人の為に、自ら身を引くべきだとぼんやり考えていれば、侍女のマヤが少々怒った顔で覗き込んだ。驚いたハリエットが条件反射で上体を起こすと腰を両手に当てたマヤが横に立っており、今シルビアンが来ていると知らされた。
「え、ど、どうして!?」
「急用が終わって城に戻ったらお嬢様が帰ったと聞いたのではないですか?」
急用とはハリエットの吐いた嘘。実際はいつもの部屋にいた。イーヴァとキスをして……。
「……マヤ。殿下には帰っていただいて」
「え? ですが」
「ごめんなさい。気分が優れないの。風邪ではないと思うけれど、もしも殿下に移ってしまうと大変だから」
「分かりました。殿下にはそうお伝えしますね」
深く聞いてこなかったマヤに感謝をし、再び一人になるとハリエットはベッドを降りて鏡台に近付いた。長細い引き出しを開けて小さな宝石箱を取り出し蓋を開けた。十八歳になったお祝いでシルビアンに贈られたサファイアのブローチ。シルビアンの瞳と同じ色のブローチをそっと手に取り、表面を撫でた。
「……殿下に会う心の準備が出来たら、ちゃんと受け入れますから。今は待っててください」
「何を準備する」
「え」
一人の筈なのに、自分ではない誰かの声が。
驚いて振り向くと扉付近にシルビアンが立っていた。慌ただしい足音と共にマヤが慌てて部屋に戻った。
「皇太子殿下、お嬢様は気分が優れないとっ」
「いいのマヤ。ありがとう」
普段のシルビアンなら決してしない無礼な強行突破。不安げな面持ちをするマヤを説得して部屋を出てもらうとシルビアンと向かい合う。
氷のように冷たい青の瞳に変わりはなく、相変わらずの無表情。ただ、少し不機嫌だ。眉間に微かな皺が寄っているのが証拠。唯一の違いは口の周りが薄く赤くなっている気がしてならない。
「ハリエット」
冷たいシルビアンの声に呼ばれ背筋が伸びた。
シルビアンの手が自身の手に触れかける寸前距離を取ってしまった。声を呑む音がした。やってしまったと内心焦りながらハリエットは俯いたまま此処へ来た理由を訊ねた。
「で、殿下。今日はどうして」
「……今日は十日に一度、お前が城に来る日なのにお前が来なかったからだ」
「申し訳ありません……気分が優れなくて……報せを届けるのが遅くなってしまい申し訳ありません……」
上から降り注ぐ無言の圧力が痛くて堪らない。シルビアンとまともに目が合わせられない。イーヴァとキスをしていた場面がどうしても蘇ってしまう。
何とかしてシルビアンに帰ってもらいたいハリエットはこの場をどう切り抜けるか思考を回転させ、良案が思い付かなくて焦りばかりが先走ってしまう。無言のままではいられない。取り敢えず、帰ってもらう方向で話をしようと口を開きかけた時。
「見たのか?」
「え」
一瞬、何を問われたか分からなくてハリエットが顔を上げれば、変わらない表情のままシルビアンに「イーヴァとキスをしているところを見たのか?」とハッキリと言われ、あの時の光景を見たショックが再びハリエットに襲い掛かった。胸を強く締め付ける痛みと実際に本人に言われてしまったショックが強く息が苦しい。シルビアンが怒っているのは、と思い掛けた直後。腰を抱かれ、無理矢理寝台に運ばれるとシルビアンに抱き締められながら柔らかなクッションに倒れ込んだ。突然の行動に理解が追い付かなくてシルビアンを拒むことも声を上げることもハリエットには叶わなかった。
「で……んか……?」
辛うじて出せた声は掠れてちゃんと発声されているか分からない程小さい。シルビアンが抱き締めてくる手に力を込めたのなら声は届いたのだ。
「……悪かった」
「え……?」
「今日はお前が来ると分かっていたが連日の公務で眠る時間が少なくなっていて、お前が来るまで仮眠を取っていた」
誰かが部屋に入ればすぐに起きれるよう感知タイプの結界を室内に張っていたがシルビアン自身が考えていた以上に疲れていたらしく、結界が報せてもすぐには起きれなかった。誰かが側に来て自分に何かをしていると意識が覚醒すれば、呼んでもいないイーヴァが何故かいて、挙句シルビアンが寝ているのを良いことにキスをされていた。
「で、では、イーヴァ様が勝手に殿下にキスを……?」
「そうだ」
「殿下からしたのではないのですね……?」
「する訳がないだろう」
溜め息交じりに言われた台詞はハリエットを大いに安心させた。
目が覚めたシルビアンはすぐにイーヴァを突き飛ばし、人を呼んで追い払った。ハリエットが来ているか確認をすれば、登城してすぐに帰ったと聞かされ、イーヴァとのキスを見られたせいだと確信しこうやってウォーカー家にやって来たのだ。
「お前に勘違いをさせて悪かった」
シルビアンとイーヴァは社交界で相思相愛と評されるお似合いの男女だと有名。そんな二人の仲を引き裂くようにシルビアンの婚約者の座に納まったハリエットは身の程知らずの女だと一部の令嬢達に陰口を叩かれている。両親やシルビアンに心配を掛けさせたくなくて何も聞いていない振りをし続けていた。二人が一緒にいるところを見ると自分が場違いな気がしてならなかった。本当に自分でいいのか? どうしてイーヴァが婚約者ではないのかと何度も自問自答した。
謝罪の言葉を口にするシルビアンにまた強く抱き締められる。
「……殿下は……イーヴァ様が好きではないのですか」
「……は?」
途端に低くなったシルビアンの声。思わずビクリとするもハリエットは意を決して訊ねた。
「殿下とイーヴァ様は幼馴染で相思相愛だとずっと言われてきて私もそうだと思っていました。殿下の婚約者に私が選ばれたのはどうしてと」
「おれがお前を選んだ。大体、幼馴染だから相思相愛だと限らないだろう」
「殿下が私を……?」
そっと顔を上げれば今までで一番距離が近いと知り、赤面して再び俯いてしまい、両手に抱くサファイアのブローチを握る力を強めた。
婚約者になるまでシルビアンとの接点はそう多くない。どこで自分を選ぶ理由があっただろうかと考えていると上からシルビアンの溜め息が降った。またビクリとしたら、頭の上に柔らかい何かが乗った。
「元々、おれの婚約者はお前に決まっていたんだ」
「イーヴァ様ではなく……?」
「ああ。ハリエットがいいとおれが父に言ったんだ」
シルビアン曰く。
初め、皇帝皇后共にシルビアンの婚約者はイーヴァとしていた。ウィルソン公爵は皇帝にとって最も信頼する右腕で地位も教養も備わったイーヴァが次期皇太子妃として相応しい。イーヴァ本人も自身が皇太子妃になると信じ、且つ、シルビアンに好かれていると思い込みずっとそのように振る舞ってきた。
ただ。
「イーヴァの性格がどんなものか知っているか?」
「少しだけなら……」
見目だけは絶世の美女と謳われる母譲りの美貌を持つイーヴァだが、中身だけは違った。
公爵夫妻やシルビアンといった、目上の人間がいない場では傲慢な振る舞いが目立った。取り巻きを使って下位貴族の令嬢を虐め、見目麗しい男性には見境なく色目を使う。更に使用人いびりも凄まじい。表立って問題にならないのはウィルソン公爵家という名前と皇帝皇后が目に掛ける令嬢という、二つの強大な後ろ盾があるせい。
ハリエット自身もシルビアンの婚約者から辞退しろと何度も取り巻きを使ったイーヴァに嫌がらせを受けていた。
家族に心配をさせない為、ひっそりと仕返しをしていたと言えば、意外だとシルビアンは青の瞳を丸くした。
「お前が?」
「私だけなら何を言われようと構いません。ですが、私が何もしないままであれば、もうすぐ社交界デビューを果たす妹にまで迷惑を掛けてしまいます。それだけは嫌でした」
嫌がらせの種類は多岐に渡る。主な手段としては、取り巻きを使って自分は遠くから眺めるだけ。イーヴァ自身が手を下したことはない。あくまで他人を使って自分の手は汚さずを貫いていた。
二度目の溜め息を吐いたシルビアンに上体を起こされるとまた抱き締められる。ハリエットはサファイアのブローチをシーツの上に置いてシルビアンの背に手を回した。
「おれが選んだのはお前だハリエット。決してイーヴァじゃない」
「殿下……」
「好きでもない女のことを知りたくもなければ、こうやって触れることもない」
そう言われて思い出すのは、シルビアンと会うといつも抱擁をされ、移動をする時は手を繋がれた。そのどれもシルビアンは表情を崩さなかった。婚約者になった相手に対する義務のようなものだとずっと思っていた。
「ハリエット、お前は? こうやって、おれに触れられるのは嫌か?」
「嫌じゃありません」
首を振り、言葉をより実感してもらいたくて強く抱き付いた。
幼馴染で身分も申し分ないイーヴァと二人でいるところをよく目撃し、社交界で囁かれる相思相愛だという噂を鵜呑みにしてシルビアンがイーヴァを望んでいるとずっと思っていたこと、先程見たキスで事実なんだと思い込んだことを正直に白状した。
三度目の溜め息をシルビアンは吐いた。
「近寄るなと言ったところで人の話を聞くような女じゃない。お前にさえ、手を出していなければいいと放っておいた」
実際は取り巻きを使ってハリエットに嫌がらせをしていた。知らなかったことを謝罪されたハリエットは「いいえ」と頭を振った。
「殿下が謝るようなことではありません。殿下や両親に知られたくなくて私も隠していました」
何より。
「イーヴァ様がそんなことをしていると殿下が知れば、きっと悲しむと思いました」
誰だって好きな人に裏の顔があると知れば悲しむ。シルビアンに悲しんでほしくない、傷付いてほしくない一心であった。
「ハリエット」
名前を呼ばれ、顔を上げたハリエットは今も薄く赤くなっているシルビアンの唇の端を目にし、遠慮がちに聞いてみた。「これか」と零したシルビアンは、イーヴァにキスをされた場所が汚らわしいと何度も袖で口を拭ったのが原因だと話した。
ハリエットじゃない相手にキスをされた感触の不快感が消えるように、事実を消すように何度も拭い、こうなったのだとか。
「……」
恐る恐るハリエットは唇に手を伸ばし、赤くなっている部分に触れた。
「痛く、ないですか」
「ああ」
赤くなった箇所を速く指の腹でなぞる。早く消えるようにと願って。
シルビアンに手を掴まれ、掌にキスをされた。
「触れられるなら、お前がいい」
氷のように冷たい青の瞳も表情も変化はない。
言葉を発した声色には、今まで聞いたことのない甘さがあった。
自分の顔全体に熱が集中していると自覚しつつ、ハリエットはシルビアンの手を引き寄せ頬に当てた。
「私も……殿下に触れるのは、私だけでいたい……です」
「ハリエット」
「イーヴァ様とのこと……ずっと勘違いをして……ごめんなさい」
「いい。面倒だからと放置していたおれも悪い。ハリエット、今から城に戻らないか?」
それはつまり、十日に一度のお茶をやり直そうという提案。
ハリエットは照れくさそうに笑いながら「はい!」と受け入れた。
先に寝台を降りたシルビアンが差し出した手を取り、ハリエットも寝台を降りた。二人手を繋いで部屋を出て、そのまま屋敷の外へ向かった。
――シルビアンが来ていると聞き、心配になった父ウォーカー公爵がハリエットの様子を見に行くと二人が手を繋いで屋敷を出て行くのを目撃した。
「よく分からないけど仲直りをして良かった」
ハリエットの言ったシルビアンの急用が嘘だとはすぐに分かった。
当時確定していないとはいえ、既に皇太子妃候補はイーヴァ一人となっていたのに、シルビアン本人がハリエットを指名してきた。当初ハリエットを皇室に嫁がせる気は更々無かった。穏やかで心優しいハリエットでは、皇子の――それも皇太子の――妃になるのは荷が重いだろうと。何度辞退してもシルビアンがハリエットを選び続け、挙句皇太子の地位が邪魔をしているならウォーカー家に婿入りをしてもいいと言い出す始末。皇女が一人いると言えど、既に皇太子の地位に就いているシルビアンを余程の理由もなく婿入りさせる訳にはいかず、皇帝皇后両名と何度も話し合った結果――ハリエットが婚約者に決定した。
何がシルビアンを動かしたかよく分からない。ハリエットを選んだ理由を訊ねても教えてもらえなかった。それは皇帝皇后両名とも同じ。
ただ。
「皇后陛下は何となく知ってそうな雰囲気だったな」
実際口にはしていなかったが皇后は何かを知っていそうな気がした。ハリエットと会っているシルビアンを微笑ましい眼差しで見つめているのを何度か目撃した。試しに訊ねたら「ハリエットはシルビアンの周りに群がる娘達と違って純粋そのものでしたもの」と答えになっているようでなっていない返答を貰った。
シルビアンの婚約者になってしまえば、ずっとその座が確実だとされていたイーヴァやウィルソン公爵が手を出してくるという懸念があった。表立っては何もないように見えるものの、イーヴァが人を使ってハリエットに嫌がらせをしているのは知っている。皇族に嫁ぐのであれば、嫌がらせの一つや二つ自身の力で跳ね返す力を持たないとやっていけない。敢えて父はハリエットがどう対処するのか見るべく気付かない振りをした。心配する妻を宥めつつ、様子を見ていた父は意外にもハリエットはやられたらきちんと仕返しをする性質と知り安堵した。周りが守ろうとやられてばかりでは何れ本人の心が疲弊し、最悪壊れてしまう。
「そろそろウィルソン公爵本人に注意をしてもらおう」
気付いていない筈がないのに娘可愛さのあまりウィルソン公爵は目を瞑っている。イーヴァの未来にも関わるのだ、もう口を出しても好い頃合いであると父は通り掛った使用人に家令を執務室に来るよう言い付けた後、この場を後にしたのだった。
●○●○
一度目は一人で登城し、二度目はシルビアンと手を繋いで登城した。周囲の目が恥ずかしいものの、不思議と嫌じゃない。
「今日はお前に渡したい物があるんだ」
「渡したい物、ですか?」
「ああ」
何だろうと考える。成人のお祝いは既に頂いており、誕生日でもない。贈り物を貰う行事もない。
「あの、殿下」
シルビアンが向かう先は、いつも使用する部屋ではなく、庭園だった。
「いつもの部屋はイーヴァのせいで台無しにされたからな。今日は外にした」
シルビアンなりに気を遣っているのだと知り嬉しくなった。握られている手をそっと強く握れば、応えるように握り返された。
多種類の花に囲われたお茶の席に着くと次々にスイーツが運ばれる。
どれもシルビアンがハリエットの為に用意させたものばかり。
華やかな見た目から素材の色だけを見せたものまで。ハリエットが最初に手を伸ばしたのはラッタイオーロと呼ばれる牛乳と卵の焼きプリン。香りのトッピングとしてシナモンが使われている。材料も作り方もとてもシンプルでウォーカー家が治める地では定番のお菓子だ。通常のプリンと違い、ラッタイオーロにはキャラメルがない。昔、とある夫婦が貧しい時代、砂糖がなくても美味しく食べられるプリンを開発したのがきっかけで生まれたと聞く。現在のように料理に魔法を用いる技術がなかった当時では特別な日にしか食べられなかったらしい。
一口食べたハリエットは時折屋敷でも食べるラッタイオーロと遜色のない味に頬を綻ばせた。
「美味しい」
「ウォーカー家の領地では、よく食べられると聞いた」
「はい。私も時折、家族で食べています」
妹が特に大好きで、家族で食べる際は妹の分だけいつも多くスイーツ皿に盛られている。
他にも祝祭や特別な日にしか作られないスイーツも用意され、本で知っていても実際に食べるのは初めてなものばかりでハリエットは次はどれにしようか悩み、ふとシルビアンを見上げた。
「殿下のお勧めはありませんか?」
「おれの?」
「殿下が選んで下さったのなら、殿下のお勧めが知りたいです」
紅茶を飲んでばかりでスイーツに手を付けていないシルビアン。突然の問いに目を丸くしながらも、テーブルに並べられたスイーツを見下ろした。そして、イチゴタルトが載ったスイーツ皿を渡された。
「お前が一番好きなスイーツはこれだろう」
シルビアンにとってのお勧めはハリエットの好物。子供っぽいですか? と恥ずかし気に訊ねれば、逆に何故、と問われた。
「小さな子が好きなスイーツだと思われがちですから……」
「好きなんだろう? なら、それでいいだろう」
シルビアンにイチゴタルトを渡されたハリエットは恥ずかしさが抜けないまま食べた。シルビアンの言葉に他意はない。思ったことを口にしているだけ。
美味しいものは皆美味しい。食べている内に恥ずかしさは消え、途中笑顔を浮かべた。イチゴタルトに夢中でシルビアンが微笑を浮かべて自分を眺めていると気付かないハリエットだった。
――程々にスイーツを食べ終え、のんびりとお茶を飲み、終わりの時間が迫る中。一人の騎士がシルビアンの許へ駆け付けた。
「皇太子殿下。お取込み中申し訳ありません。ウィルソン公爵令嬢が殿下にお会いしたいと」
「必要ない。追い返せ」
「それが……何度もお引き取りをと頼んではいますが……」
言い難そうに伝える騎士の口振りからするにイーヴァは頑としてシルビアンに会うまで帰らない心算なのだろう。抑えたくても相手は皇帝の信頼が篤いウィルソン公爵の娘。勤め人では無理矢理追い返せず、シルビアンに助けを求めに来た。仕方ないと言わんばかりに溜め息を吐いたシルビアンは此処の居場所を伝えろと騎士に命じた。すぐに引き返して行った騎士を見送るとハリエットが不安げにシルビアンを呼ぶ。
「殿下よろしいのですか……?」
「そろそろお茶の時間も終わりだ。その前に、いい加減現実を見せ付ける」
ティーカップをソーサーの上に置いたシルビアンは忌々し気に息を吐き、今までイーヴァを放置してきたツケを今日払うだけだと続けた。
「ハリエット。お前はどうする。帰ってもいい」
「……いいえ。私もいます。イーヴァ様にどうしても言いたい事があります」
イーヴァと面と向かい合うのは怖い。
それでも残りたいと思えたのはシルビアンの気持ちを知れたからこそ。
ハリエットの意思を否定せず、一言発したシルビアンは遠くの方から聞こえるイーヴァの声に意識を移した。
指示を受けた騎士に連れて来られたイーヴァはシルビアンとハリエットを見るなり大きな瞳に涙を潤ませ、悲し気な表情を浮かべた。
「シルビアン……! ひ、酷いわ……! わたくしにあんなことをしておいて」
「何の話だ」
「惚けないで! わたくしがシルビアンに会いに行ったら、いきなりキスをしてきたじゃない! ハリエット様という婚約者がいながら……!」
両手で顔を覆い泣き出したイーヴァはひたすらシルビアンを責めた。騎士は泣き出したイーヴァと涼しい面持ちでイーヴァを睨むシルビアンを困ったように視線をやり、この場をどうにかしてほしいとハリエットに視線で助けを求めた。事実を知らなければイーヴァの言葉を信じていたかもしれないが、誤解を解くために会いに来たシルビアンのお陰でハリエットは冷静さを保てている。
「責任を取ってよ……! 初めてだったのに……!」
「おれは初めてじゃない」
「え!?」
え、とハリエットも出したがイーヴァの声が大きくて誰にも聞かれなかった。
涼しい面持ちでとんでもない発言をしたシルビアンは席を立つとハリエットの側に寄り、彼女を立たせ抱き締めた。口をわなわなと震わせるイーヴァに目をやらず、赤面してあたふたとするハリエットを落ち着かせる。
「あ、あの、殿下」
「ジッとしていろ」
「は、はい」
「イーヴァ」とシルビアンが呼んだ。
「お前がどういうつもりでおれに纏わりついていたかは知らない。皇太子妃の地位目当てでおれに纏わりついていたなら無駄だ。おれの婚約者はハリエット一人だけだ」
「本当ならわたくしがシルビアンの婚約者候補の筆頭だったのよ!? それをぽっと出のハリエット様に奪われて、わたくしがどれだけ惨めな思いをしたか!」
「お前や父達が勝手に騒いでいただけだ。おれは一言もお前を婚約者にと選んだ覚えはない」
あくまで皇帝とウィルソン公爵が兄弟のように育ち、お互いの子供が男女であったから婚約者にしてはどうかと勝手に話が進んだだけ。イーヴァは非常に前向きだったにしろ、シルビアンはお断りだった。
イーヴァが今まで隠していた内面を次々に指摘していき、反論されれば倍の言葉で黙らせた。更にハリエットに対する嫌がらせについても触れれば、怒りの形相がハリエットに向いた。涙は何処へ行ったのか、もう一滴も緑の瞳から零れていない。
「告げ口なんて卑怯な真似をして、情けないと思わないの?」
卑怯と言われ、黙っていられなくなったハリエットは心配するシルビアンの側を離れ、今にも襲い掛かって来そうなイーヴァの前に立った。
「私はイーヴァ様と違って、自分の手を汚さず周りを使って他人を貶める行為はしません。イーヴァ様達にされた嫌がらせを両親や殿下に話したことは一度だってありません」
「ならシルビアンが知っているのはどうしてよ」
「話の流れで殿下に話したまでです。私への嫌がらせは知らなくても、イーヴァ様の本性を殿下はご存知でした。それの方がイーヴァ様にとっては痛手ではないですか」
「っ!」
ウィルソン公爵家内での使用人いびりは揉み消せる。城勤めの者達へのいびりもウィルソン公爵家の力を使って揉み消して来た。他家の令嬢達への嫌がらせも然り。皆、ウィルソンの名を恐れ泣き寝入るしかなかった。見目麗しい令息に色目を使っている件も指摘すればイーヴァは大きな声を出してハリエットの言葉を遮るが、冷たい眼差しを放つシルビアンを見て知られていると知り呆然とする。
「社交界ではお二人が幼馴染で相思相愛の仲だと有名で、私はそんな二人の関係を壊す邪魔者だと囁かれてきました。私自身殿下はイーヴァ様が好きなのだと思っていました」
あの時のキスを見て疑問は確信に変わった。
けれど。
「私の勘違いだと、誤解だと殿下は話してくれました。殿下の同意なくキスをしたイーヴァ様に、殿下を責める権利はないかと」
「いいえ! わたくしはシルビアンにキスをされた。わたくしが勝手にキスをした証拠でもあるのかしら?」
「おれが証拠だ」
シルビアンはハリエットの前に立ち、イーヴァと向かい合う。シルビアンを覗き見たハリエットは、普段の無表情に明らかな怒気が込められていると気付く。見る者を凍てつかせる瞳は本物の氷の如く冷たい。それを向けられているイーヴァは青褪めた面で身体を震わせていた。
「今日はハリエットと十日に一度のお茶の日だった」
ハリエットが来るまで仮眠を取ることにしたシルビアンは、ハリエットが来たら起きるよう感知タイプの結界を室内に張っていたことを話した。結界が作動して目を覚ませば、呼んでもいないイーヴァがいて。意識が覚醒すればキスをされていると気付いた。
「ところで呼んでもいないのに、今日に限って城に来たのは何故だ」
「そ、それはっ……ハリエット様がシルビアンに会いに来る日だと、知ったからよ」
家の力を使ってハリエットがシルビアンに会いに来る日を知ったイーヴァ。ハリエットを婚約者の地位から引き摺り落としたかった彼女は、ハリエットを嵌めるよりハリエットに現実を見させる方が効果的だと考え、シルビアンと既成事実を作るべくやって来たのだ。お茶で使用する部屋も当然聞き出し、ハリエットが来る前にと赴けばシルビアンは眠っていて、絶好の機会を得たと有頂天になったイーヴァは結界に気付かずシルビアンに近付きキスをした。仮に起きていてもシルビアンに迫り、最中にハリエットに見られれば良かった。
呆れが多分に交ざった息を吐き、首を振ったシルビアンは騎士にイーヴァを帰せと命じ、ハリエットを連れて庭園を出て行った。
「殿下、あのままイーヴァ様を帰してよろしかったのですか?」
「ああ。後日、尋問官が使う魔法道具を借りる」
嘘を言えば攻撃をされる尋問官十八番の魔法道具の前で嘘を述べる度胸がイーヴァにあると思えない。公平性を保つ為にウィルソン公爵夫妻と皇帝皇后同席の下で行う。
庭園を出て向かったのはシルビアンの部屋。初めて入るとあって繋ぐ手に力を込めてしまう。
部屋に入ったハリエットはソファーに座るよう言われ、ちょこんと腰を下ろした。隣室に行ったシルビアンが戻ると手には、サファイアと青薔薇をメインにした髪飾りが。
それをハリエットの栗色の髪に挿した。
「ああ。お前によく似合う」
「私に渡したい物とは、髪飾りのことですか? 今日は特別な日ではなかった筈ですが」
「成人の記念にお前に贈ったブローチは、日常的に使うには不便だろう? この髪飾りなら毎日使える」
「……」
自分の贈ったプレゼントを毎日身に着けてほしい。それだけだと言ったシルビアンは微かに笑って見せた。長く婚約してきたがシルビアンが笑っているところを一度も見たことのないハリエットは、あまりの衝撃に気絶しかけた。類稀なる美貌を持ったシルビアンの微笑は、まだまだ自分にとって眩し過ぎて直視が難しい。
「ありがとう、ございます」
お礼の言葉を言うだけで精一杯なハリエットだが、目を合わせないと不安に感じさせると思い、情けない赤面のままシルビアンを見上げた。
「ああ」と短く発したシルビアンに抱き締められ、額にキスをされた。益々恥ずかしさが増し、これ以上体温が上がらないというくらい顔が熱い。このままではシルビアンのペースに飲まれてしまうとハリエットは先程のキスの経験について問うた。
「で、殿下はイーヴァ様とのキスが初めてじゃないとお、仰っていましたが初めてはどこで……」
イーヴァでもハリエットでもない別の誰かなら、それはそれでショックを受ける。恐る恐る訊ねた問いにシルビアンは「嘘に決まってるだろ」と溜め息交じりに紡いだ。
「あそこで初めてなんて言ってみろ、イーヴァがどう調子に乗るか分かったものじゃない」
「それは……」
否定できないだけに何も言えなくなってしまう。
「……」
イーヴァがシルビアンの初めてのキスを奪った。イーヴァが知らなくてもハリエットにとっては事実。
ハリエットは心臓がうるさいくらい鳴るのを感じながら顔を近付け――キスをした。キスといってもお互いの唇が触れるだけのキス。
「……」
呆けるシルビアン。
やってしまったとハリエットは内心後悔するが――すぐに考えを改めた。
「ハリエット」
片手を頬に添えられシルビアンにキスをされた。
至近距離で見つめ合う恥ずかしさと同時に嬉しさが込み上がる。
「もう一度……しても?」
「殿下の、シルビアン様が望むなら……」
瞳を閉じるとまたキスをされた。好きな人とのキスは甘いものなのだと初めて知った。誰にも邪魔をされたくない、時間が許す限りこうしていたい。
シルビアンの腕の中で何度も口付けをされるハリエットはぼんやりとした思考で思うのであった。
――後日。イーヴァが今回シルビアンにしでかしたやらかしや過去にハリエットや他家の令嬢、更に公爵家や城に勤める使用人達への嫌がらせやいびりを受け、流石のウィルソン公爵も庇い切れないとイーヴァを公爵夫人の遠い親類に嫁がせた。二度と社交界に出られないどころか、帝都にさえ戻って来るのは難しいと聞いたハリエットは何処の家に嫁がされたのかと逆に気になった。興味本位で父に訊ねても「さあね」と肩を竦められるだけで終わった。
父が何かしたのかウィルソン公爵家から今までイーヴァがハリエットに行ってきた嫌がらせに対する慰謝料が振り込まれた。イーヴァの取り巻きの実家からも同様に。イーヴァの指示とは言え、半分以上自分の意思で嫌がらせをしていた令嬢もいた為正式に抗議をしたのだとか。ハリエットとしてはこれ以上関わって来ないことと社交界デビューを控える妹に危害が及ばないのなら良いとした。更に今回の件を受けてウィルソン公爵夫妻は社交界に顔を出さなくなった。自主的に、と言われている。父が駄目なら母に、と聞いても駄目だった。
今日はシルビアンと植物園でデートをする日。迎えに来たシルビアンのエスコートで馬車に乗った。隣同士で座ればシルビアンの手が髪飾りに伸びた。
「着けてきてくれたのか」
「今日はシルビアン様に会う日ですから」
シルビアンに会わない日でも毎日身に着けている。とは、本人も知っている。
シルビアンの婚約者に選ばれた理由はまだ知らないが、いつか本人の口から聞ける日が来たらいいと思うハリエットであった。
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