9
9
…コンコン、コンコン…
その音に気づいたサトルが扉の欄間に目を向けると、向こう側に女性が立っており、サトルへ挨拶するように頭を下げながらこちらを見ていた。大地の母親、中里芳子である。
サトルは咄嗟に沈んだ表情を隠すように笑顔を返して、ゆっくり扉を開けた。
「中里さん、どうも〜」
「あ、先生、いつも大地がお世話になっております」
「いえいえ、私は何…も…??」
と、サトルが話そうとするより前に、芳子はレッスン室を探るように見回して、
「あの…大地はもう帰りましたでしょうか?」
「えっ?あ、はい、もう15〜20分くらい前にレッスン室を出ていかれましたよ」
「今日は終わり頃に迎えに行くから一緒に帰ろうって言ったんですけど…、あの…白髪先生、最近、大地の様子、変じゃありませんでしたでしょうか?いえ、こんな事を白髪先生に聞くものではないとわかってはいるんですが…」
サトルは胸の奥が先ほどより遥かに強く痛むのを感じた。大地は母親が違和感を抱くほどに、家庭でも声の事で悩んでしまっていた、という事実に、サトルの心はこれ以上無いほど打ちのめされそうになっている。
『これはもう、潮時だな。お母さんにちゃんとお話しして、自分の間違いと責任を明らかにしなきゃいけない』
「お母さん、実は…」
サトルは観念し、ここまでの流れをすべて話そうとした、その時、
「実は…、2週間ほど前に長期出張に行っていた主人が戻ってきまして…」
と、芳子が心底疲れたという表情で話し始めた。突然の話にサトルも声を止めて驚き、芳子をまじまじと見た。
よく見ると、体験レッスンに来た時は、おとなしめながらも最低限のメイクや身なりをしていた芳子が、今は髪も顔も構っていられないという様子で疲弊した雰囲気が全身から出ている。
「主人は、家で歌や音楽をかける事を極端に嫌がる人なので、大地はこの2週間くらい、それまで毎日やっていた歌の練習ができなくなってしまいまして…。でも、2〜3日前、やっぱり我慢できなくなって家で歌っていたところを主人に見つかり、こっぴどく叱られてしまったんです。それで一気に元気が無くなってしまって…」
まったく思いもよらないところからの話に、サトルは内心混乱しながらも、芳子の話に耳を傾ける。
「主人は…その…昔から少し亭主関白なところがありまして、自分の思い通りにならない事があるとすぐに感情的になって家族にあたる人なんです…。でも、もう中学生にもなった息子がやりたい事くらい、気持ちよくやらせてあげて欲しいと昨日も伝えたのですが…なかなか…」
「…そんな事が…あったんですね」
サトルは芳子の話を聞きながら、先ほどまでの大地の様子を思い起こしていた。
もどかしい表情で自分を叱咤しながらも、事情があって練習ができていなかった事を一切言い訳にせず、ひたむきに頑張ろうとしていた大地の姿が浮かんだ時、サトルはその気丈な健気さに熱いものが込み上げてきた。
「それもあって、今日は一緒に帰るって事にして、大地の様子によってはカラオケに連れて行って、好きなだけ歌わせてあげようと思いまして、こちらに来たのですけど…どこ行ったんでしょ、あの子」
息子を想う母親の精一杯の思いやりに、さらにサトルの心は熱くなる。
「お母さん、ご自宅は近いのでしたっけ?」
「あ、はい、そうですね。でも、歩いて帰るには少し距離がありますので、大地は自転車で来てるかと…でも、今日も主人が家に居ますので、一人で先に帰るかなぁ…」
「わかりました、もしかしたらこのビルの近くにまだいるかもしれませんので、私、探してみます!あ、お母さんは一旦、お家の方へお戻りください!彼が帰ってたらそれはそれで安心ですし、では!」
「えっ…?!、い、いや、先生、そんな…申し訳ないです!」
芳子の言葉が言い終わる前に、サトルは韋駄天の如くレッスン室を出ていた。ロビーを見渡し、トイレを回ってからエレベーターへと向かう。池袋教室は飲食店も入った雑居ビルの6階半分を借りて営業しているためである。果たしてエレベーターがやってきてサトルは一階へと降り、通常の出口ではない裏口へ回った。
『たしか…ビル利用者用の駐輪場が一階の裏手にあったような…』
「……いた」
ズラリと並んだ自転車の奥の方、その一つに腰を掛け、沈んだ表情のまま考え事をしている大地が、そこに居た。
「大地くん!」
日暮れ前の専用駐輪場には他に人も居ない。サトルは少し大きめの声で名前を呼び、ゆっくりと大地に近づいていく。大地もまた、サトルの声に反応してゆっくりとこちらを見た。
「…先生…」