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「よーし、大地くん。今度はリラックスしてリズムの音を聞きながら、できるだけ鋭く、強い〈Sブレス〉を吐いてみよう!身体が勝手に動いちゃうくらいの勢いで行こう!」
「じゃあ、次はそこに強弱をつけてみよう!」
「いい感じだよ!次は口の奥をしっかりと拡げて〈Hブレス〉でスタッカートしよう!」
大地は集中した表情で、サトルが次々に指示するブレストレーニングを懸命にこなしていく。その様子を見ながらサトルは心の中で、
『うん、ブレス音を聞く限りは、充分な呼気流速になってるし、奥歯やアゴ、身体の前面にも特に過緊張は無いんだよなぁ…』
サロンでの沢田とのやり取りから更に1ヶ月が経っていた。大地は順調に音を合わせる事ができるようになっていて、今では〈耳当て〉をしていれば、ほとんど音を外さないレベルにまで到達していたが、声量にはあまり変化が顕れていなかった。
「じゃあ、大地くん、そのHブレスにそのまま母音を足してHa!Ha!Haって発声してみよう!最初は低い音からね」
サトルの目的がわかっている大地は、やや緊張した表情になったが、迷いを振り切るように発声する。
「Ha、Ha、Ha、」
それでも最初の頃に比べれば、低い音の声量と響きは高まってきている。
「よし、上げていくよー口の形は変えずに行こう!」
サトルの伴奏がキーを上げていき、地声だと音量を引き上げないと出せない中音域を超えた瞬間、
「…haっ!?、ha……あ…、、」
突然、声量が無くなり、か細い声となってしまった。大地はサトルの気持ちに応えられない自分に苛立つような表情で、
「…ごめんなさい…」
と、サトルに謝った。
「大地くん!なんにも謝ることなんてないよ〜、少しづつトライしていけば大丈夫!さぁ、次は全く外さなくなった音階練習だよ!」
サトルは大地の意識をそこに残さないよう、すぐに新たな課題へと移る。大地もまた、それに喰らいつくように集中力を取り戻し、笑顔になって取り組んでいく。大地は得意な練習になると笑顔になる。こういう素直さと切り替えの速さが大地の良いところであり、急激な成長の源である。
「よーし、今日はここまで。クールダウンにしよう〜」
サトルは大地がすっかり歌えるようになったチューリップを繰り返して、段々とキーを下げていく歌唱をクールダウンとしている。最後のキーが終わって挨拶の後、サトルは大地に声をかけた。
「大地くん、本当によく頑張ってるね。この調子ならあと少しで〈耳当て〉しなくても、合唱曲の音を外す事なく歌えるようになれるよ!」
「…うん。」
サトルの称賛と労いの言葉とは裏腹に大地の表情が曇り、それを咄嗟にフォローできないサトルが居た。大地の表情の原因は間違いなく、サトルが強いてしまったものだからである。
「なかなか…大きい声が出せなくて、ごめんなさい…」
サトルは胸の奥がチクリと痛むのを隠しながら、
「大地くん、さっきも言ったけど、君はとても頑張ってるし、当初の目的である音を外さない事もしっかりと出来てきてる。謝ることなんて何一つ無いんだよ」
と、精一杯の笑顔で伝える。
「…出さなきゃとは思ってるんだけど…、大きい声を出そうとすると、力が入らなくなるんだ…」
大地はもどかしい表情で、思ってる事、感じてる事を懸命に言葉にした。
「大地くん。本当にごめん。次回からは一旦、声の大きさについては横に置いて、中学校の合唱曲をしっかり歌えるようにしていこう。どのパートでも安定して音が取れるようになれたら和声感も身につくし、さらに上手くなること間違いなしだよ!」
今のサトルに言える精一杯の励ましと提案だったが、大地はその途中からゆっくりと帰り支度を始め、
「うん…先生、ありがとう」
と、表情の晴れぬまま、静かにレッスン室を出て行った。
一人残されたサトルは、なんともやりきれない気持ちのまま、大地が出て行ったレッスン室の扉を内側から閉め、クラビノーバの前でしゃがみ込んだ。大地への申し訳なさと後悔が一気に押し寄せ、両手で顔を覆う。
『…本当に、僕は馬鹿だ!何が〈伝説の体験レッスン〉だ!何が〈凄い講師〉だ!充分に頑張ってるあの子に、余計な事をして苦しませてるだけじゃないか!何をやってるんだ、僕は!』
と、心の中で己の不明を恥じ、自身の驕慢を強く詰った。
講師は常に、生徒のためと思う提案が、いつの間にか自分のための探究へとすり替わってしまう危険性がある事に、自覚的でなくてはならない。
その意味でサトルはとても大きなミスを犯したのである。原因はやはり、体験レッスンだろう。あの時、大地の心や目線をわかった気になってしまった事が後々《のちのち》、独善的な欲となって大地を苦しめたのである。
『本当に、別の先生に大地くんをお願いした方が良いかもしれない。こんな愚かな事をしてしまった僕に、講師としての資格があるとは思えない』
いよいよ、サトルの心の闇が最大に深まりそうになったその時、
…コンコン、コンコン…
と、レッスン室をノックする音が聞こえた。