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「えっ…?」
芳子は一瞬、サトルが何を言ってるのか、わからなかった。大地もまた、何か信じられないものを見るような目でサトルへ顔を向けている。その二人の様子を見てサトルも気づいたらしく、
「あ、そうか…、なんか誤解させちゃったんですね、ごめんなさい!そういう意味の〈ここまで〉じゃないですから…はは」
と、取り繕うように謝った。
「いや、そんな…、そ、それより先生、どういうことなんでしょうか?その、ちゃんと…歌えるようになるって…」
大地のチューリップの音がずっと合わないままだった事を、後ろで聞いてわかっている芳子は、少し混乱しながらサトルに問いかけた。大地もまた、よくわからない表情で大人達の顔を伺うように立っている。
「はい。大地くんの音のズレは、レッスンすればちゃんと改善できるって意味、ですね」
サトルはにこやかに、ハッキリと、確信を持った声音で二人に伝えた。
「えっ…でも、大地はずっと音が合ってなかったと思うんですけど…」
「まあまあ、お母さん、落ち着いてください。ゆっくりご説明しますから、まずはお座りください。あ、大地くんも座っていいよ」
なんだか狐に化かされたような、納得のいかない表情で二人は椅子に腰を降ろした。
「では、もう一度、結論から言いますね。大地くんはいわゆる先天的な音痴ではありません。ですので、病院に行かれる必要もありません。これは、はじめに行った2音の高さを聞き分けるゲームでハッキリしました。大地くん、最初の音当ては適当に答えたわけじゃないよね?」
少し茶目っけを出しながら、笑顔で尋ねるサトルの質問に大地は、うん、とうなづいた。
「うん、良かった。そして次に、自分の出した声に対して、高い声と低い声を出してもらいましたが、どちらもちゃんと高低を捉えていました。ということは、声帯筋の伸縮操作はできているので、運動性の機能障害という可能性も無い、という事になります」
ゆっくりと説明しているサトルの言葉だが、未だに何を言ってるのかわからない表情の芳子はさらに困惑しながら、
「で、でも、先生…、だったらなんで…?」
「はい、そうですよね。では何故、歌唱になった時に大地くんの音はズレるのか?」
「そ…そうです!」
芳子は自身が目撃したものとの整合が付かないサトルの説明に、少し感情的な声音になっていた。その母親の声に焦れたような表情になっている大地に、サトルが尋ねた。
「大地くん、ドラえもんに出てくるジャイアンって知ってる?」
突然の意外な質問に大地は少し驚いたが、すぐに暗い表情になって答えた。
「……うん。僕…そう呼ばれてた…」
芳子が悲痛な顔で大地を見つめる。その様子を見ながら、無神経を承知でサトルは続けた。
「ははは、どうやらその子達は大した知識も無く、よくわからないまま君を非難したんだね。大地くんは、ジャイアンとは全く違うよ?」
サトルは大地の嫌な記憶を一蹴するように続けた。
「大地くんは自分の声は好き?嫌い?」
「……好きじゃない、です」
「うん、そうだよね。でもね、ジャイアンは自分の歌声が大好きなんだ。そして、歌っている時の自分の声を聞きながら酔いしれてる。でも…君はそうじゃない」
「……?」
大地も芳子も、ますます、わけがわからないといった表情になった。
「君は歌っている時に酔いしれてもいないし、音が大きくズレる時には辛そうな顔をする。ここからわかる事は一つだよ。お母さん、ちょっと〈三角おむすび〉を作る時の手の形をしていただけますか?」
「三角おむすび…?、こ、こうですか?」
戸惑いながらも芳子は、掌をカップ状にして、サトルに確認した。
「はい、そうです。大地くん、お母さんと同じ手をしてみて」
「……こう?」
「その両手を耳の後ろ側に密着させて、耳を軽く覆うようにしてみて。こんな風に」
大地は、笑顔で促すサトルの姿を真似した。
「よーし、じゃあ、そのままもう一度、声を出してみてくれる?出しやすい高さの『あ〜』でいいよ」
大地はおそるおそる声を出す。
「あ、あ〜…」
「もっと高く出せる?」
「あ〜〜」
「いいね!もっと思いきって出してみて」
大地がもう一度勇気を出して、振り切るように声を挙げたその時、
「あ〜〜〜……ん?…あれっ!?あ〜〜〜、あ〜〜〜〜」
大地は突然、何かに気づき、それを確認するように何度も声を出し始めた。その様子を横で見ていた芳子は、大地に何が起きたのかわからず、思わず遮るように声をかける。
「大地っ!ど、どうしたの?」
大地はそれには答えず、確かめるようにサトルを見た。サトルはその大地の目をしっかりと見返しながら、
「大地くん、聞こえたかい?」
大地がサトルを見たまま、静かにうなづく。
「それが、君自身の声だよ。君はいつからかはわからないけど、歌っている時に聞こえてくる自分の声を無意識に避けてきたんだ。音がズレる原因は〈自分の声を聞かないようにしていた〉という事さ」
目に光が宿った大地が、静かに立ち上がった。
「うん、そうだよね。確かめたいよね?よ〜し、じゃあ、もう一度、歌ってみようか!」
サトルは大地の光に応えるように、もう一度クラビノーバを開き、ゆっくりと前奏を弾いてからチューリップのメロディを歌い始めた。サトルの歌声に耳を覆った姿勢のままの大地が声を重ねる。
「っ……!!??」
その瞬間、芳子は身体をビクっと震わせ、咄嗟に声が出ないほど驚いた。声自体は大きくないが、大地の歌声は確かにサトルと同じ音を出している。
「す、すごい…、合ってる…大地!音、合ってるよ!」
大地は芳子の歓喜の言葉にも集中力を切らす事なく、サトルと自分の声を聞きながら何度も歌い続けた。やがて、サトルの伴奏が止んだ。
その途端、大地は大きな疲労感と共に椅子に座り込んだが、その顔には晴れやかな笑顔が浮かんでいた。
「ふふふ。疲れたかい?そうだよね、今までと違う脳の使い方をしたからね。でも、その笑顔なら、どうすれば音を合わせられるかを少し掴めたんじゃないかな?」
「先生っ!…あの、ほんとに、なんて御礼を言えば良いか…本当に、本当にありがとうございます!」
次々に起こる予想外の事に、情緒が大変な事になっている芳子が深々と何度も頭を下げる。
「いえいえ、お母さん。大地くんもわかってるとは思いますが、今日はあくまで感覚のキッカケに触れただけです。ここから毎日少しずつの反復トレーニングをしていく事で、より確かな力へと進歩していくと思います」
「はい!すぐに入会させてください!今なら主人も長期出張で家に居ませんし…、大地、いいわよね?」
自分の新たな可能性を実感した大地は、ここに来た時とは全く違う、快活な笑顔を見せたまま元気よく答えた。
「うん!僕、歌、もっと上手くなりたい!」