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「あの…、こんな事を、始める前に伺って良いのか、わからないんですけど…」
おずおずと何かを話し始めようとする芳子の横で、大地は少し下を向いて黙っている。おそらく、これから芳子が話す内容を知っているのだろう。サトルは極力さりげなく、明るいテンションのまま答えた。
「はい、なんでもご遠慮なくお聞きください!少しでも迷いなく、体験レッスンを受けていただくのが一番ですから」
「ありがとうございます。では遠慮なく…、その、たとえば、〈音痴〉って治りますでしょうか?」
芳子がそのワードを言った瞬間、大地はなんとも言えない表情になって、さらに下を向いたのをサトルは目の端で捉えていた。
「実は、この子は小さい頃から歌を歌ったりすることにあまり触れてこなかったもので、音痴が原因で小学校の時に随分嫌な思いをしたみたいでして…」
『なるほど…緊張の理由はそれか…』
と、サトルは心の中で呟いた。
地域性にもよるが、小学校でも高学年の合唱になると、なかなか難しいハーモニーが入ってきたり、クラス対抗の合唱祭を催すような学校があったりするのが一般的である。
基礎歌唱力の個人差は、幼少時の家庭環境や教育環境によるものが多く、入学時の得意不得意の差が特に是正される事なく、そのまま高学年を迎える事も少なくない。
もしも、その中に歌は上手いけど、できない子に心無い言葉を言ってしまうような子が居れば、クラス内には微妙な上下関係が生まれ、言われた子は更に歌う事が嫌いになってしまうだろう。
「主人が家で音楽をかけるのを嫌がる人なもので、そういう影響もあるのかなと…、でも、地元の中学もそういうのが盛んらしくて歌会とか合唱祭があるみたいなんです。それで本人もなんとかしたいと申しましてこちらに…。でも、そういうのはやっぱり病院に行くべきなのかなと、申し込んだ後に悩んでしまいまして…」
悲痛とも言える表情で息子の事を話す芳子に、サトルは努めて明るく、そして、穏やかな声で、
「なるほど。そういうお悩みだったんですね」
サトルは笑顔を崩さずにゆっくりとクラビノーバの奥から、芳子の隣に座る大地の近くへと歩いていき、
「大地くん、音を合わせて歌えるようになりたいんだね?」
と、すがるように見つめてくる大地の顔を、近くでしっかりと見つめて尋ねた。
「…僕、頑張って歌ったんだけど、みんなにいっぱい迷惑かけちゃってさ、残念な顔で見られるのが、すごく…辛くて…、だから、あんな思いはもうしたくない…です」
「そうか。うん。自分にやられた事以上に、自分がやってしまった事を、申し訳なかったって話せる君ならきっと大丈夫!変われるさ!」
サトルの力強い言葉によって、大地の目にほのかな高揚の光が宿り始めた。
「……本当?」
「あぁ、本当だよ。さぁ、大地くん、もう一度聞くよ?歌えるように、なりたいんだね?」
決して大きくはないが、確かな声音で、大地は答えた。
「なりたい…。なりたいです!」
その様子をじっと見ていた芳子は、思わず泣き出さんばかりの表情になっていた。よほど小学校の時の事が大変だったのだろう。
「し、白髪先生…ありがとうございます…」
拒否されるのではないかという懸念が無くなり、サトルの大地への言葉に感激している芳子に、今一度冷静になってもらうため、サトルは諭すように伝えた。
「お母様、私は医師ではありませんので、今この場で確実に治せるとは立場上言えません。しかし、それが治せるレベルのものであるかどうかの判別くらいならする事ができます。それを、今から行う体験レッスンの時間とさせていただいても宜しいですか?」
サトルの確認に、落ち着きを取り戻し始めた芳子が、静かな声音で答える。
「はい。是非、よろしくお願いします」