悪役令嬢、アツモリまう
ーー倭刀は優れた剣。ひのもとにある火縄銃の数は世界一。
秀吉公、明を滅ぼしこの世の海全てを平定せんとし、されど志半ばに没す。
世を動かすは何ぞ。
そは剣に非ず。
火縄でも足らず。
国破れて山河あり。
浜の真砂尽きるとも。
彼は商人である。
金子と耳聡さ一つ。
これぞ世を動かすもの。
我が本懐とさとるもの。
剣も銃も情報も国すらも売る。
必要ならば買い取りもする。
彼の最大の仕事は国盗みに加担した事。
それは彼には不本意極まりなく、かれを運ぶ流刑の舟が海賊に襲われて巻き込まれたまま今に至る。
彼を攫った海賊はムラカミを名乗ったがここは瀬戸の海ではない。
その人種構成もさまざま。
やまとのもの、朝鮮のもの、明のもの。
さらに南の島々や亜麻色の髪と青い目のもの黒い肌の男女まで。
彼らは海を駆けるものたち。
世は徳川さまの御代になり。
戦しか知らぬものども南、南へ。
彼は囚われびとのままこの仙郷にきた。
そして、恋に落ちた。
金子も耳聡さも無くした。
利に聡いはずの自らがそうでなくなる時を知り、また泥棒の真似にも加担した。
乙女よ。我を信じよ。
今宵の吾は商人に在らず。
一介の卑き泥棒なり。
傲慢なるものどもより宝を奪い。
卑劣なる英雄どもから栄光も奪い。
きゃつらから民草へ輝く宝を取り戻さん。
宝とは乙女なんじなり。
未来を閉ざす邪悪なる術師を恐れるか。
それは術師を我より信じると言うこと。
この一夜だけでもわたくしを信じてください。
あなたが信じてくれるならわたくし国をも盗みましょう。
枯れた山河に花を咲かして見せましょう。
海をも平らげて見せましょう。
空だって渡って見せましょう。
乙女よ。この一介の泥棒に今夜だけでも盗まれてくれい。ーー
「綺麗な声」
「吟遊詩人になれますよ奥方様」
歓喜の声を上げる女鍛治師チェルシー。紋章官バーナード。
感嘆する吟遊詩人アラン。
「ねぇねぇポール」
「黙って聴いてろ」
二人の兵士は相変わらずサボタージュをしているようで城壁の上から声が届きます。
「私が子爵令嬢だったら助けにきてくれる? ねね」
「ライム。おまえの実家は魔剣と杖作りの家だろ。怪しい貴族どもよりよっぽど格式あって立派じゃないか」
「えっ。ポールの家って確か」
「あれはお伽話。いうなばか」
ふふ。
されどこの場にひとり、皆のよき反応にも小声でろくでもなきことを吹き込む元王太子婚約者女官見習いがいます。
「作詩はそりゃへっぽこですけど、お嬢様は歌と楽器の方は得意なんですよ」
すなわちミカに苦笑いでかえすのはリュゼ様です。
今夜こそ彼女と枕投げの雌雄を決する必要があるようです。
あれ。わたくし重要なおつとめが夜にございましたような。
「マリカ。素敵な歌だった」
「リュゼ様。お褒めの言葉嬉しゅうございます」
わたくしは幼き頃に聞いた歌を中庭で披露する機会に恵まれ、アランの楽器を借りて歌を歌うことになりました。
弦に触れてみるとさすがによく手入れしています。
わたくしは慎重に調弦のための笛を鳴らし、此度の歌に合わせてから楽器を爪弾いて歌います。
大丈夫ですアラン。
ちゃんと戻せますから。
アンコールに応えて二曲ほど披露して調弦を直し彼に返します。
会心の出来と言いつつも最近練習しておりませんでしたので不安でしたが調弦直し含め概ねうまくいったようで、ポチとタマは立ち上がって前足を叩き合わせつつ二つの尻尾につけた鈴を揺らしております。
スライムさんは謎のビートを揺らしておりました。
メイはまた怠業して洗濯物を風に晒したまま、大型コカトリスのシロとコマとパイと共にいい場所をとっております。
彼女は文字通り遠慮を存じません。
つつつとミカが近寄り、おそらくお尻をつねったのでしょう。メイは少しことばをあらためて話しかけてきました。ことばをあらためても遠慮はしないのですね。
「お嬢様。そのお歌についてもう少しお教えください」
メイ。やまとびとが作ったものとしかわたくし存じませんがロマンチックでしょう。
とある没落子爵家が買い取られ、望まずして娶られるむすめと商人の恋物語と存じます。
「いいなー。かっこいい」
手癖の悪いこの城つきメイドは語彙が足りない分、意外に素直なところがあります。
「えっ。でもでもほらミカ。子爵家を買い取った人はアレだね。奥さんにはすでに子供がいてその子を自分の子供と思って育てる訳でしょ」
「寝取られ展開は一部では人気なジャンルですね。ショウさんの新作は良かったです」
「うんうん。あの人私用に絵本書いてくれたよ」
だからミカ。幼気なこどもに怪しいふみを読ませるなと先から……あら。
わたくし、こともあろうに可愛いミカを少し疑っておりました。
「でもミカちゃん。やまとびと……。この歌の商人って、デンベーのおっちゃんのことかな」
「ないない。詩ですよ。創作です。『いづこともしれぬ仙郷か〜』とか『いまかむかしかみらいかしれぬ〜』は定型文で……て、確かに教えていませんね」
「なーんだ。つまんない」
その子爵令嬢が仮にわたくしの知人の母として計算するならデンベエは当然当時五〇歳になると思われます。
彼がこの物語に登場するならば子爵家を買い取る側の悪役ですわ。
「以前王都で上演された時の商人役は紅顔の美少年でしたよ」
「えっー。ミカちゃん劇場なんて見たことあるの!」
もっとも後半は大きく改変され、突然現れた神が二人を幸せにする脚本になっていました。
お父様に『大道具で予算を圧迫するわ、機械じかけの神様が解決するくだらない結末ばかりで、もうスジが観客に見抜かれており、悲劇が悉く喜劇になる』と漏らしていた劇場主が遂に脚本家に対して舞台の上で激怒する醜聞に加えて。
教会が検閲と称して良席を占拠することは珍しいと言えませんが、この日は不幸にも頑固者と有名な異端審問官が座っており。
異端審問官が脚本家を機械教徒ではないかと訴えてから始まった劇場の上での大捕物はまこと劇の演出にしては迫真と皆が喜んでおりましたね。
「あれでしょ。みんなきれいなドレスきて、歌って踊ってお話するのでしょ。
でもでも、わたし前にデンベーさんに『ドレス着てみないか』て言われたから。
いーでしょミカちゃん」
え。
「ほう」
リュゼ様は明らかにご立腹ですね。
「それ、私にも昔言ったわね」
ミカは呟くと少女に駆け寄り「何かされなかった」と伺いました。
デンベエ……彼の方は本当に懲りることを知らないようです。
付け加えますとミカはデンベエになにかされる前にミカの父に見つかり、これまでの悪業もあり猿轡を噛まされ弁明も許されず問答無用で海に流されたと聞きます。
リュゼ様は真っ先に『辛いことなら無理に言わなくていい』とおっしゃいますと普段メイの躾に厳しい執事頭のジャンまで『坊の言う通りです。しかし普段厳しい分のことはしますぞ。メイ。私にできることが有れば』と続けます。
他の皆もそれぞれ自分の意見を話し出しますが、気遣いを受けたことが人生でほぼないらしいメイは「話してほしいの? 話したらダメなの!?」と錯乱しており。
お庭の植え込みから園庭クムの子供たちまでが次々と頭を出してきました。
そして『めーちゃー』と、よちよち近づいてきます。
「えっと」
皆から気遣われているという体験に戸惑いつつメイは言いました。
以前に犯した横領そのものは稚拙でも、彼女は決して愚鈍な娘ではなく、多少の冗句を言っても許される環境に戸惑いつつも順応しつつあり。
「じゃ、ジャン。お願い。毎日お菓子いっぱい。お給料いっぱいちょうだい。それを働かずに一生」
『却下』
みなさんの声は完璧に揃っていました。
皆様こそコーラス隊が務まりましてよ。
「メイ。お菓子が欲しければわたくしの部屋……もといわたくしたち夫婦の寝室にある『世間広し』と書き付けのついた籠からどうぞ」
「えっ! あれ食べていいの? ミカちゃんに怒られ……叱られたよ!?」
「一人で食べ尽くすからです」
ミカは少し肩を落としました。
「だからおみやげもらった!」
あら。先日町の子供たちになぜか御礼を言われたのはメイのおかげなのですね。
ミカは本来この城つきメイドのメイを教育する義務などないわたくし直属なのですが、懐かれたとのことで頻繁にメイの世話を焼いたり、彼女と共に本当ならやらずとも良い洗濯にまで手を痛めております。
ミカとは違いリュゼ様配下の同僚たる城のものたちはメイを各々の言葉で心配するのですが、皆さま少々人が良すぎる気配がします。
それともわたくしの心構えがよこしまなのでしょうか。
しかしメイはわたくしどもの心配と反対のことを申しました。
「ううん。あの人、なんか泣いてた」
そは、晴天の霹靂。
城のものたちも驚くのはデンベエの普段の言動や行動にあまりにもそぐわないからです。
「まだ幼い少女を無理矢理手籠にしようとした方が納得できる」
ピグリム先生。それはわたくしも少し。
しかしデンベエ。悪い意味で相変わらずですね。
「パイがコッコって慰めてた」
「コッ!」
パイの保証なら間違いはないでしょう。
少なくともデンベエよりは信頼できます。
げにおぞましきは魔物である石化鶏よりも信頼できないあきんどの二枚舌。
「うーん。デンベーのめだか波だね」
ミリオン。それを申すなら目に涙では。
「あのおっちゃん、私にも色目使うしきもい」
チェルシーはドワーフの血筋もあり若く、いえやや幼く見えますからね。胸元はさておき。
「あの方、なんとかしていい称号を得ようとなさるのですが」
苦笑いするのはバーナード。ですが。
あのデンベエが貴族位や称号ですか。
わたくしの知る彼ではございませんね。
彼はお金にはうるさいですが身分を憎んでいたはずです。
また、どこぞの粉屋のように専売をいいことに砂を混ぜて水増しも致しません。
大戦の英傑、塩屋伝兵衛。遂に老いたりゃ。
いえ、軽率な判断は避けこころに留めて検討すべきですね。今まであえて触れなかったこと、お父様のお手紙にはなき話題も。
「フェイロン」
「なぁにぃ。マリカ」
クムの子供たちと共にわたくしの足元でちょろちょろ動いて遊んでいた嬰児が小さな顔をこちらに向けました。
「先日王都の雪を踏みましたよね」
「うん。ミマリやナレヰテの手紙もらった」
『友情だなんて』『里も知らない蛮族だか海賊のくせに』
わたくしを嘲笑う彼女たちを思い出します。
それでも。親友と誓い合った娘たちに生きていてほしいと微かに思うのは未練でしょうか。
振り返れば笑い合った思い出ばかり。
聴きたくない耳を塞ぎたいと思うのは弱さでしょうか。
「子爵家について何か存じませんか」
「”下天の内をくらぶれば”」
そう、ですか。すでにケイブルは。
「伯爵家は」
「『薔薇のさだめ』」
太陽王国の正統であるマーリックは古代魔導帝国期より続き伯爵領が乱立した西部諸国連合時代を生き抜いた伝説の家です。
わたくしの知人一族は『星を追うもの』を支援した分家を名乗るだけの古い家に過ぎず、彼らと関係ありません。
彼女らは家族共々太陽王国から亡命して。
フェイロンの瞳を見ます。
この子は一切の媚びもなく、まるで子供を諭す老人のような目でわたくしを見上げております。
だって。初めて出会ったとき。
彼女は。彼女たちは。
「マリカ。マリカ」
リュゼ様に後ろから優しく肩を掴まれていたことに気づいたのは。
フェイロンを抱きしめていたことに気づいたのは。
少し錯乱しておりました。
城の皆は惚けたようにわたくしを見ております。
わたくしは彼らに微笑み返します。
幸いにもコック長のミリオンが酒を入れたようですね。皆さんお気付きではないようです。
リュゼ様は後ろで軽くわたくしめを支えてくださっていますが。
「少しのぼせてしまいました。
メイ。変なことをたずねてしまいましたね」
「えっ。いえ。あのお嬢様。お顔の色が優れませんが。あれ、ミカちゃん。ミカちゃんもへんだよ」
ミカは赤と青が混じるほどに白い指先を握り込んでいました。
「いえ。わたくしお嬢様のお声に聞き惚れていましたので」
「えっ。左耳が動いているよ。どうせぼーっとしてたんでしょミカちゃん。だめだよちゃんとおうた聞かないと」
メイ。
本当ですことよ。
わたくしの学友二人、それぞれがミカを気に入っておりました。そして彼女たちは自分のおつきにもミカと仲良くしてほしいと。
ミカたちはわたくし達の前では礼節を保っておりましたがそうでないときはきっと。
「そうですね。あはは。
メイにはなんでもわかっちゃいますね」
「そうだよー。ミカちゃん礼儀正しくしなさいっていつもいうのにお嬢様にはいいかげんだもの。
あれ。手が震えてるよ。あたたかくなーれあたたかくなーれ」
ミカの手を温めようとメイが握る中、クムの子供たちまで寄ってきてお尻を彼女にぶつけだしました。
メジロオシとかいうやまとびとから当地へ伝わりし耐寒運動らしいですがわたくしやミカの代では知識でしか。
やまとの隣国ミンでは肉をマントウという蒸しパンに入れますが、やまとでは肉食を控えることからあんこというマッシュビーンズを甘みで味付けしたものをマントウに入れます。
ゆえにやまとでは「”押し比べ饅頭押されて泣くな、あんまり押すとあんこが出るぞ、あんこが出たら、つまんでなめろ”」とはやしながら子供達がお互いを温め合うそうです。
見た目以上に激しい運動なのですぐ身体が温まるとのことで。
「ちょっと。クム。辞めさせて」
「ほらほら。あんた達ミカお姉ちゃんが困ってる」
クムの妻サフランまで参加しておりますが急に彼女は動きを止めました。
「おかーちゃーん!」
子供たちやメイのお尻で突き上げられミカもサフラン様ももみくちゃです。
「ちょ、ちょっとおまえたち。母さんは……あんた、助けておくれ!」
遂に悲鳴をあげるサフラン様ですが、はて。
なにかサフラン様は園庭クムに呟きました。
「えっマジか!」
「肯定ぞ……。まじだよ」
クムは『うぉっしゃあああああ!!!』と叫ぶと彼女の巨大な身体を易々抱き上げ振り回しだしました。なにごと。
「八人目です! リュゼ坊……いや旦那様!!」
あ、はい、おめでとうございます。クム。サフラン様。
わたくしは思わずリュゼ様の脇腹を肘で小突いてしまいました。
ここに反省を記しておきます。
「まったくうちの子たちったらみんなして無茶苦茶なんだから。ミカ大丈夫かい。後で叱っておくから」
「い、いえ、わたくしは大丈夫ですわ姫さま。……ッ!」
ミカの失言に一瞬おもてを変えたクム夫妻は、即座に豪快な大笑いで場を収めました。
サフラン姫は太陽王が遺した遺児と同じ名前。後から姫として迎えられた子。
彼女であると疑われた多くのむすめがかの国では虐殺されたと耳にしております。
「そうですね。姫君の身体は大事にしないと。
クム。春の花の準備は一人で頑張ってください」
医師のピグリムはしたり顔です。冗談のおつもりでしょうね。
「ちょ、ちょっとやめてよピグリム様?! こんな太ったおばさんなんだよわたしゃ。これまでだって7人全部働きながら産んできたんだ。今度だってやれるさ!」
太っているか否かはあまり関係ないと存じますが、わたくしたちも。
彼の視線からプイと背を向けて差し上げます。
わたくし、若くて健康で人並み以上に美しいのですよ。
つれないことばかりなさるのなら考えがございますから。えっと、えっと……今度は如何に致しましょう。
ミカと二人でシーツをかぶってお化けに扮したときは、リュゼ様の幽霊鎧武者姿に返り討ちに遭った挙句、三人共々本物のお化け夫婦と遭遇して、『お化け怖い』とお化けたちから……いえ、たわ言です。
それより、幸いにもわたくしやミカの動揺はクム夫妻の第八子のお話によって有耶無耶にすることができました。
わたくしの知人のマーリック家は絶えましたが、本家の末裔はこの辺境に生き残ることになりそうです。
それをミカがいかに思うか、おそらくわたくし同様複雑な思いでしょうが推し量ることしかできません。
伯爵家のロゼリア様はおつきの者どもに時折むごいことをなさいました。
鉄面とロゼリア様が皮肉っていらっしゃった……確かカリナと申すものも消息がわかりません。
同じムラカミに迎えたはずのカナエの行方すらわからないのです。
そもそもわたくしには平民の行く末を調べるのが難しく。
げにこの世は諸行無常ですね。
この庭の木々は今は雪を頂いておりますが、やがて芽吹き花を咲かせることでしょう。
夏になれば実をつけるやもしれません。秋になれば子供たちが遊ぶかもしれません。
学園から離れた小高い丘の上にわたくしども三人で花冠を抱き合ったころ。
あの日は幻なりか。
「マリカ、他に歌はないか」
え。
どうもわたくしがこころここにあらずやの間に奇妙なことになっていたようです。
「奥様、次に何かありませんか」
「期待しています」
「できればやまとのうたがいいです」
皆様はめいめい勝手なことを宣っています。
わたくしの胸にあった曲は間違っても8人目の子供を授かって喜ぶ夫婦に捧げるようなものではございません。
ここには仮面もなければ、そもそもこの曲はわたくしが存ずる限り女性が踊るものではないのです。
クマガイという男が以前失った息子の面影がある敵将の少年を討ち取ること相成らず、二心ありやと疑われるのを避けるため、敵将自らの勧めで泣く泣くその首を取るものがたりの歌なのですから。
「あとは不吉な歌しか御座いません」
わたくしは皆様に謝ったのですが、サフラン様は何かを感じたのか逆に興味を示されました。
「いいよ! やってほしいね!」
むごいことをおっしゃいます。
この歌はヒールでは難しいですね。
わたくしがヒールを淑女のたしなみを忘れて脱ぎ捨てるとすっかり酒の入った皆様から歓声がわきました。
不意に肩を優しく掴まれ、リュゼ様と目が合いました。
「下がって休め」
わたくしは返事をせずおもてを少しふってから歩みだします。
すり足で、冷たい庭の中を。
扇を取り出し、王宮で行われるダンスとは明らかに異なるゆったりとした動きで、所作を決めてゆきます。
「ミカ。鼓を」
わたくしが申し付けるより早く、彼女はそれを持ってきたようです。
冬の陽で彼女の目端が赤う見えました。
風を胸に吹き込み、胎に悲しみ据えてすり足で。
扇を運び、視線ははるか遠い思い出に。
「"思へばこの世は常の住み家にあらず
草場に置く白露、水に宿る月よりなほあやし……"」
サフラン様がクムに支えられたまま、古びた絹のハンカチで目元を拭うのが見えました。
ミカが鼓を叩き、フェイロンが何処で覚えたのか笛を添えてくれます。
わたくしは確かに、この瞬間はなにかを忘れていることができたのです。
「きれい……」「どのような意味なんでしょう」
どなたかの声がきこえましたが、それすらわたくしのこころから消えてゆきます。
「"……人生五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享け、滅せぬものあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ……"」
――「お綺麗です。マリカ様」「なんと幻想的な」
「ねね、すごいでしょムラカミのお嬢様とミカは息ぴったりなんだから。ねね。カリナあなたも何か言いなさいよ」――
わたくしのこころはいつぞやの花畑のころを彷徨っておりました。
参考資料
『女官 明治宮中出仕の記』(※『世間広し』=どなたさまでもどうぞ)