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ひとつめライトニング

作者: 藍植りん太

 雷鳴を待っていた。

 秋晴れの空のように平穏なこの町の暮らしに、及びも付かない天空から俄然轟き、瞬く間に全てを一変させてしまう青天の霹靂を。

 石和美織(いさわみおり)だって普通の女子高生であり、スマホ越しに都会のトレンドを追いかけることは趣味を通り越して若者の義務。もはや当たり前にある日常の一部だ。

 それでも彼女がこの玄海(げんかい)町に腰を落ち着けているのは、自分がその穏やかさにフィットしている自覚と、手放しがたい居心地の良さを感じていることの証拠である。

 しかしこの平坦な生活が、一転どころかトリプルアクセルしてしまうほどの一撃にいつか見舞われるのではないかと期待していないと言えば嘘になる。

(だからって……こういうのは勘弁だって……)

 濡れた地面に這いつくばる彼女に、他力本願が成就したことへの喜びなど微塵もなかった。



 女石(おないし)の化け狸の伝説――現在の玄海町平尾地区にて、夜道を歩いていた侍が、女に化けて出たタヌキを斬り殺し、傍にあった巨石に大きな刀傷が残った。その巨石にちなんで女石という地名が残り、それからも巨石の傍を独りで通りかかるとタヌキに化かされるという――そんなよくある昔話。

 彼女は別に本気でタヌキに化かされに来たわけではない。

 小雨が降りしきる静かな夏の夜、期限間近な宿題と格闘するのがイヤになり、ふと昔おばあちゃんが話していたことを思い出して、気分転換ついでに肝試しに来たのだ。

 傘をさして、懐中電灯で足元を照らしながら石のところまで歩いてきたが、何のことは無い。刀で斬ったような割れ目のある、ただの大きい石である。

「……石だ」

 見たまま呟いてみても何も変わらない。軽く突いてみても単なる濡れた石。

「――うん、帰ろ」

 見るものは見たのでさっさと来た道を戻ろうとした瞬間、脚の力が抜けてその場にかくりとへたり込んでしまった。

「へ? あ、あれ……」

 立ち上がろうとしても足腰が鉛のように重くなって動けない。

「なんだろ……貧血……?」

 健康優良児だった美織はこんなことは初めてでどうしていいのか分からない。

 美織は、最近この近辺で急な体調不良で倒れている人が多発しているという話を思い出す。熱中症と思われるので注意するように、と防災放送が何度も流れていた。

 水分が足りてなかったのかな――と美織が考えていた時だった。

「驚いたな――」

 不意に雨音に混じって小さな声が聞こえた。

「この精気の感覚。間違いない。お前は奴の……なんつー巡り合わせだ――」

「だ、誰……っ?」

 美織は身体を捻じって背後の暗闇を見た。懐中電灯をそちらに向ける。

 巨石のとなり、先ほどまで夜の闇しかなかった場所に、手ぬぐいを被った着物の女が立っていた。

 その雰囲気は、明らかに普通の人間ではない。

「ひっ……!?」

 美織は後ずさる。

 女は美織が服を汚しながら這いつくばる姿を見下ろしながら、どこか楽し気に呟く。

「お前だけは、精気を吸うだけじゃ済まさねぇ。この手で必ず、一太刀の下に切り伏せてやんねぇと――オレがここにいる意味がない」

 着物の女がスッと腕を下ろすと、その手には刀身煌めく日本刀が握られていた。

「嘘でしょ……なになになにどういうこと……!?」

 事態に狼狽しながらも、危害を加えられそうになっていることは分かる。

 美織は傘にもたれかかるように無理やり体を起こし、女に背を向けて逃げ出した。

「逃がすと思うかよ!」

 女が、和服を着ているとは思えない速度で追ってくるのが聞こえる。

 美織はどこへ向かうのかも考えず懸命に脚を動かすが、5キロくらい走らされた後のように体が重い。

 躓き、転んだ拍子に藪の中へ入り込んでしまったが、このまま道路を進んだところで追いつかれるのは目に見えていたので、思い切って木立の中へ入った。

 手足にかすり傷を作りながら、なるべく藪や低木が茂った場所を突っ切っていく。

 数メートル後ろからは刀で藪を切り払う音が響いてくる。

 体力はもう限界だった。これ以上逃げ続けることはできない。

 笹が地面を覆うほど生えた一角を見つけ、一か八かその中に体を伏せて息を顰める。

 刀で笹を切りつけながら、女がすぐそばまで迫ってくる。

(助けて……誰か……!)

 もう駄目だと、諦めかけたその時だった。

 雷鳴は訪れた。

 真っ白になる視界。大気を爆裂させる轟音に耳が潰れる。空転する世界の中で「もう奴のテリトリーか!? クソッ!」と悪態をつく着物の女の声がした。

 感覚が戻ってくると、傍にあった大木が黒々と炭化しており、雨の中で立ち上る煙と焦げた臭いが鼻を突いた。

 周囲に女の姿は無い。

「――た、すかった……」

 力が抜けて意識が遠くなる美織の目の前に、闇の中に立つ巨大な影が見えた気がした。




 鼻腔をくすぐるコーヒーの芳香で美織は目を覚ました。

「――天国……?」

 彼女が横たわっていたのは茶色い皮のソファーだった。心地よく体を包み込んでくれる温かな感触に安心感を覚える。

 そこは美織にとって、テレビやインターネットといった画面越しでしか見たことのない空間。

「……白金? 南青山? それとも表参道?」

 口に出すのもおこがましい気分になる東京のオシャレスポット。そんなキラキラした場所にでも堂々と店を構えていそうなカフェの店内のようだった。

 落ち着いた群青色の壁には瑞々しい観葉植物が喧しくない程度に飾られ、天井からは様々な形の鉄製の傘に覆われた間接照明が暖かみのある光で空間を満たしている。

 年季の入っていそうな磨き上げられたフローリングの床に据えられたテーブルとイスは木材と鉄を組み合わせて作られたもので、どれ一つとして同じ形は無く、いずれもチョイスした人間のこだわりとセンスが垣間見える。

 奥の方にカウンターのような場所があるが、今は誰もいない。

 窓が無いので場所や時間がよく分からず、現実感が無い不思議な場所だった。

「全部夢だったとか……実はあたしは生まれも育ちも代官山の都会女子だったのでは――」

 そんなことを口走りながら体を起こすと、体に掛けられていた毛布がずり落ち、泥と雨で汚れた自分の服が露わになった。

「――夢であってほしかった」

「おや、お目覚めになられましたか」

「ひゃい!?」

 カウンターの奥から、コーヒーの香りと共に男性の声が近づいてきて美織は声を上げた。

 その声は遠雷のように低く太く、しかしチェロのように艶やかで、美織は不思議と安心感を抱いた。

「あ、あのっ、あなたが助けてくれたんですか……?」

 姿の見えない相手に尋ねると、扉の開く音と共に柔らかな声色が美織の耳を撫でる。

「驚きましたよ。あのような雨の夜に女性がお一人で倒れていらして。今、温かいコーヒーをお持ちいたします。お口に合えば僥倖なのですが」

 コツ、コツ、とゆっくりとした大股で近づいてくる足音。

 カウンター越しに姿を現した彼を見て、美織はソファーから転げ落ちた。

 身の丈は2メートルを優に超えている。

 オーダーメイドであろうカフェのマスターらしい黒い服とエプロンを見事に着こなした、毛むくじゃらで巨大な体躯のゴリラがいた。

 しかもその顔には両目が無く、鼻の真上に巨大な一つ目がギョロリと開いている。

 明らかにオシャレなカフェに存在していい生物ではなかった。

 美織は半狂乱になりつつも、未だ体が重く床から起き上がれない。

「バッ……!? バ、バ、バ、バケッ、バケモ――」

 美織には心当たりがあった。女石の化け狸と同じく、おばあちゃんが昔していた話。

 山道で、背丈が7~8尺もある一つ目玉で4本足の化け物と出会った人がいる。

 そいつの目に睨まれると、金縛りにあって動けなくなる――という話。

 なるほど、ゴリラならナックルウォークしてれば4本足と言えなくもない。

「驚かれるのも無理のないことでございます。ですがまだお体は万全ではないのですから、どうか落ち着かれますよう。さ、こちらをどうぞ」

 美織の動揺をよそに、一つ目ゴリラは流麗な動作で、銀のプレートに載ったコーヒーカップを傍らのテーブルに置く。

 そして美織を床から楽々と抱え上げ、ソファーの上にそっと戻した。

「本来であれば汚れたお召し物も換えて差し上げた方がよろしかったのでしょうが、異性である(わたくし)に着替えさせられるのは不快でしょうと、そのままお休みになっていただきました。貴女に合うような服もここにはございませんし……」

(紳士的だ……というかオスなんだ……)

 外見のインパクトよりも内面とのギャップの衝撃が勝り、美織は抵抗する気が失せてしまった。

「申し遅れました。私、ブロンテース・アイアントロプスと申す者にございます」

 一つ目ゴリラは丁寧に頭を下げてそう名乗った。

「あ、い、石和美織……です」

「石和様、お名前を頂戴いたしましたこと光栄でございます」

「そ、そんな大した対応されるようなもんじゃないですってあたし……」

 終始どこぞのお姫様かというような接待を受け、ゴリラ相手といえどさすがに気恥ずかしくなってきた美織。

 しかしブロンテースは態度を崩そうとはしない。

「では美織様と。美織様も私のことはお気軽にブロンテースとお呼びくだされば。さあ、淹れたてのうちにどうぞ。見ず知らずの者が用意した飲み物など迂闊に口に出来ないとお考えなのは承知しておりますが――」

「あ……! あの、いえ……いただきます……」

 美織がそそくさとカップを手に取ると、ブロンテースは安心したような笑顔を見せた。

 コーヒーなど普段ほとんど飲まない美織だが、喉が渇いていたのもあって躊躇なく口に含む。

「――! おいしい……!」

 美織はぱぁっと顔を輝かせた。

「お口に合いましたか」

「はい! あの、あたしコーヒーってあんまり好きじゃなかったんですけど、これは――なんていうか、苦いけど、そんな嫌な感じしなくて、むしろ甘さとか酸味とか、なんかうまく言えないんですけど……こんなコーヒーってあったんだ……」

「この夏新作。私のオリジナルブレンドNo.7442です。嬉しいものですね、自分の淹れたコーヒーを他人に褒めていただくというのは――」

 ブロンテースは感慨深げに言った。

「こんな経験は初めてですよ。私は幸運だ。もちろん、災難に遭われた貴女にとってはそうではないのかもしれませんが――」

「コーヒーを他人に出すのが初めてって……ここ、カフェとかじゃないんですか?」

「カフェ風の設えはしておりますが、全て私の趣味ですよ。ここはただの自宅です。貴女が倒れていたのと程近い、平尾の山の中です」

「山の中にこんなオシャレな場所があるなんて――」

 美織は周囲を見渡し、ブロンテースのバレーボールほどもある目を見て吼えた。

「――もったいない!」

「もったいない?」

 ブロンテースは瞼をぱちくりさせる。

「それはどういう……?」

「こんなに素敵な空間なのに、誰も呼ばずにこんな山の中で腐らせておくなんてもったいないですよ! SNSに上げたらバエバエのバエでバズりまくること間違いなしです!」

「別に腐らせているというわけでは……ばえばえ? ばず? はて――」

「このまま西麻布に移築しても大人気になれるポテンシャルあるのに、平尾の山の中に置いとくなんて宝の持ち腐れですよ!」

「はあ……詳しいのですか? 西麻布」

「インスタではよく見てます」

「いんすた……」

「とにかくこれだけ揃ってるなら今すぐカフェとして開きましょうよ! 友達に宣伝しますから! あたしのインスタに上げてもいいですか?」

 言うが早いかスマホを取り出し写真を撮ろうとする美織。

 しかしシャッターを押そうとしたその指は凍り付いたように動かなくなった。

(――あれ? 体が……全然動かない……瞬きも出来ない……!)

「せっかくのご厚意ですが、申し訳ありません美織様。それはご遠慮願います」

 美織を真っ直ぐ見つめるブロンテースの巨大な瞳。

(これが、噂の金縛り……!)

「この内装も、コーヒーの味の追求も全て個人的な趣味だからこそ良いのです。これ以上裾野を広げるつもりはございません。ご理解いただけますと幸いです」

 穏やかに語りかけるようにそう言うと、ブロンテースは瞼を閉じた。

 美織の体が操作性を取り戻す。

「ッ……! ご、ごめんなさい……! あたし、失礼なこと――」

「いえいえ、こちらこそ野蛮な真似を……失礼いたしました。コーヒーを淹れ直しましょう」

 ブロンテースはプレートにコーヒーカップを戻し、カウンターの裏へ下がっていった。

 気まずさから何も言えなくなってしまった美織が黙って待っていると、少しして戻ってきたブロンテースは「お待たせしました」と新しく湯気の立つコーヒーカップと、皿に載ったチョコレートシフォンケーキをテーブルに置いた。

「こちら失礼を働いたお詫びです」

「ふぉおおおお……! い、いただきます!」

 美織は目を輝かせ、フォークを持った。

 綿雲のようにふわふわなケーキをホイップクリームと一緒に頬張ると、美織の口に芳醇なチョコレートの風味が広がる。ほろ苦いケーキと、爽やかな甘さのクリームが混ざり合い、さらにコーヒーを口に含むことでパズルのピースがぴったりと重なるように幸福が舌を震わせる。

「このブレンドコーヒーに、例えば一滴でもタバスコを垂らせば、この調和は崩壊してしまう」

 美織がケーキに舌鼓を打つのを眺めながら、ブロンテースは語り始めた。

「私はこの玄海の地に人々がやってくるずっと以前から、この地を見守って参りました。古来より残る自然と、人々の穏やかな営みが調和したこの町を、私は愛しているのです。今やこのような場所は、この国にそう多くは無い――」

 美織はカップに口を付けながら、遠くを見つめる巨大な瞳に魅入っていた。

「ですから私という人ならざるものが、人の作り出した調和を崩してはならないと、こうしてひっそりと喫茶を追求している次第なのです」

「そうだったんですか……でも良かったんですか、あたしを助けちゃって――」

「良いのです。あれは例外でしょう」

「例外――」

 美織の記憶は朧気だったが、得体の知れないものに襲われたことは何となく覚えていた。

「さあ、間もなく夜が明けます。そちらを食べ終えたら、そろそろお帰りになられた方が良いでしょう。途中まではお送りいたします」

「あ、もうそんな時間なんだ――」

 外が見えないので時間の感覚を忘れていた。

 ケーキと共に楽しむことを計算されているのであろう、1杯目より苦みの強いコーヒーの名残を惜しむように舌で転がし、美織は尋ねた。

「――また、明日来てもいいですか?」

 ブロンテースは瞬きをし、軽く息を吐いて言った。

「コーヒーくらいしかお出しできるものがございませんが、それでよろしければ」




『この家には、この家の存在を知る者か、その者の案内を受けた者しか辿り着くことが出来ないようになっております。美織様でしたら、いつでもここへいらっしゃることが出来るでしょう』

 そう教えてもらいブロンテースと別れた日の午後、美織は再び彼の家へ続く木立の前に立っていた。

 これまで彼女は決して自分の人生が特別退屈だと思ったことは無いが、昨夜の衝撃的な体験と出会いを経てしまうと、最早彼女の頭の中はブロンテースと彼の家、そして彼の淹れるコーヒーのことでいっぱいになり、それ以外のあらゆることが手に着かなくなっていた。

(でも改めて来てみると……とてもこんなところにあの家があるなんて思えないよね)

 その木立は森などと形容するほどのものではない小さな林で、ものの10分もあれば突っ切ってしまえるほどの広さしかない。

 しかし家の存在を知る者であれば、木立に入って20分ほど歩き続けると、目の前に山小屋のようなブロンテースの隠れ家が姿を現すのだ。

「――よし、行くか!」

「あの」

 美織が気合いを入れて木立に足を踏み入れようとしたとき、後ろから声をかけられた。

 振り返ってみると、そこにはデニムを穿いた中性的な印象の大人の女性が立っていた。

「な、なにか御用ですか?」

「あなたもブロンテースさんの家へ行くの?」

 女性の口からブロンテースの名が出たことに美織は驚いた。

「知ってるんですか? あの人――人? ゴリラ? うーん……まあ、あの人のこと」

「ええ。数年前、この近くで倒れていたところを助けてもらったの」

「あ! あたしも同じかんじです!」

「そうなんだ。じゃあ一緒に行く?」

「そうですね、行きましょう!」

 二人は連れ立って木立へ踏み入った。

 女性は山歩きに慣れていないようで、やや足元がおぼつかない様子で美織の後ろをついてくる。

「お姉さんのお名前はなんていうんですか?」

「――小馬場(こばば)

「小馬場さん――この辺にお住まいなんですか?」

「いいえ、浜野浦(はまのうら)の方よ」

「へー。……ブロンテースさんのおうちにはよく行ってるんですか?」

「それが……助けてもらった時以来行ったことないの。もちろん恩義は感じてるけど、やっぱりちょっと怖くて。でも今度、玄海町を出ていくことになったから、最後にお礼しておいた方がいいのかなって思って」

「そうなんですか……。じゃあ最後にブロンテースさんの淹れるコーヒー、しっかり味わっておかなきゃですね。美味しすぎて他所のコーヒー飲めなくなっちゃうかもですけど」

「ふふっ、そうね。懐かしいな、あの味――」

 美織ははたと足を止めた。続く小馬場も立ち止まる。

「……どうしたの? 早く行きましょう?」

「すいません、忘れ物を思い出したので、小馬場さん先に行っててください」

「……それなら私も一緒に戻るわ。せっかくだからお茶菓子でも買っていきたいし」

「コーヒーを他人に出すのは初めてだって言ってた」

 美織の言葉に、小馬場は何も言わない。

「家の場所知らないんでしょ? だから私に先導させようとしてる」

 美織は振り返り小馬場を睨みつけた。小馬場は黙って彼女を見ている。

「小馬場――なんとなく聞き覚えがあったけど、思い出した。おばあちゃんに聞いたんだ」

 女石の化け狸と同じく玄海に伝わる、小馬場の古狸の伝説。

 浜野浦の海岸にある小馬場という入り江に住み着いた流れ者のところに、毎晩美しい女がやってきた。最初は喜んで迎え入れた流れ者だったが、やがてその正体を疑うようになり、帰りを遅くして様子を伺うと、焚き火の傍で寝ていたのは巨大な金玉を持つ古狸。

 流れ者は焚き火に仕込んでいた石を古狸の金玉の上に落とすと、驚いて逃げだした古狸は崖から落ちて死んだという。

「あたしは昨日、たぶん女石の化け狸に襲われた。あなたもタヌキなんでしょ?」

 美織は昨夜自分を襲った着物姿の女に向けられた強烈な殺意を思い返し、震える足を意識しないよう拳を握った。

「……あなたも、あたしを殺しに来たの?」

「そんなつもりはなかったさ。別に僕は君自身に恨みはないし。あいつとは違って」

 小馬場と名乗った女の口から出た声は、明らかに男のものだった。

「でも正体がバレた以上、手荒な真似に出させてもらうよ。身から出た錆だったね」

 そう告げた小馬場の手には、いつの間にか無骨なナイフが握られていた。



 ブロンテースの家の玄関が開き、ドアベルが控えめに来客を知らせる。

 その姿を巨大な一つ目で捉えたブロンテースは、穏やかな笑みを浮かべた。

「――おや、美織様。いらっしゃいませ」

「こんにちは、ブロンテースさん。昨日の今日で来ちゃいました」

 美織は照れくさそうに頭を掻いた。

「いらっしゃっても構わないと申し上げたのは私ですから。早速コーヒーをお召し上がりになりますか?」

「お願いします」

 ブロンテースはどこか浮かれているような自分に不思議な感慨を抱きながら、カウンターの奥へ向かおうと美織に背を向けた。

 その時、彼の体の中心を冷たいものが貫き、燃えるような痛みが襲った。

「カッ……!?」

 見下ろすと、ブロンテースの鳩尾から日本刀の刀身が突き出ていた。

「土着の神格と聞いてたが、こんなもんか」

 その声は美織ではない女の声。

「貴女は――」

 肩越しに美織の姿をした者を見る。その相貌は悪辣とした笑みに歪んでいた。

「どうやって……ここを――」

「稲妻で脅されたくれぇで逃げ帰ったとでも思ったか? 随分とぬりぃんだな」

「――つけていたのですか……美織様を助けた私を……」

「そのでけぇ一つ目は節穴か? 今度から背後もよく見た方がいいな」

 突き刺されたままの刀が捻じられ、ブロンテースは痛みに苦悶の声を漏らす。

「ま、もうその機会はねーだろうけどな」



「僕らは玄海の人間に復讐すると決めたんだ」

 なぜこんなことをしているのか、美織に問われた小馬場はすんなりと目的を話した。

「僕も女石の彼女も、生前は普通の狸だった。――ああ、昔はどの狸も化けられるのが普通だったんだよ。最近の狸事情はよく知らないけど」

 小馬場は美織の背にナイフを突きつけ、ブロンテースの家へ先導させながら饒舌に喋る。

「そして僕らは人間に理不尽に殺された。女石のはただ道端に立ってただけで侍に斬り殺され、僕は惚れた男のため、彼の好みの女の姿に化けたのに、焼けた石を落とされて崖から落ちた。その恨みを忘れられず、こうして化けて出たのも何かの導き。僕らは人間の精気を集めて力を蓄え、僕らを殺した玄海の人間に、やられたことをやり返してやろうと思ったんだ。理不尽な死には、理不尽な死をってね」

「……じゃあ、女石のタヌキがあたしに抱いてる個人的な恨みって何?」

「彼女を斬り殺した侍、君の先祖なんだって」

「……あたしへの恨みじゃないじゃん」

「文句は彼女に直接言って。先に行ってるからさ」

 木々の向こうに、ブロンテースの山小屋が見えてきた。

「おお、本当にあった。道案内ありがとう」

「ブロンテースさんをどうする気なの?」

「人間たちは知らないだろうけど、彼は玄海の守り神みたいなものなんだよ。つまり、僕らの計画には邪魔だってこと。きっと今頃、彼はもう――」

 小馬場の言葉は山小屋のドアが吹っ飛ぶ轟音で遮られた。

 小屋の中から大砲で撃ち出されたかのように人影が飛び出し、地面に転がる。

「――女石の」

 小馬場が呟いた。

 美織は、そのボロボロの人影が昨夜彼女を襲った女の姿なのを確認した。

「おせーよ小馬場の……ゲホッ」

「なに、負けてるの?」

「仕方ねぇだろ! なんだよあいつ、思ってたのよりずっと――」

 ズン、と地が震えるほどの大股で、ブロンテースが家から姿を現した。

 その両手には鉄製のテーブルが1つずつ握られ、胸に穴の開いた服は人間と同じ赤黒い血に塗れている。

「ブロンテースさん!」

「美織様、ご無事でしたか」

 駆け寄ってきた美織を庇うように背後に隠す。

「ブロンテースさん、血がいっぱい……」

「ご安心を。人間ほど軟ではございません。少々下がっていていいただけますか」

「は、はい」

 美織が数歩下がるのを確認し、ブロンテースは敵へ視線を戻す。

「私は傍観者であることに誇りをもっております。それはつまり、人間が彼ら彼女ら自身でよく生きていることの証なのですから。しかし、同じ人ならざるものがそれを害し、調和を崩そうとするのであれば――目を逸らすわけにはいかない」

 瞬間、大気が爆裂する轟音と共に雷電が迸り、美織たちの視界を白く飛ばす。

 視界が戻ると、ブロンテースの手に握られていたイスの木製部分が炎を上げて燃え尽き、煙を上げるテーブル2つ分の鉄が合わさり形を変え、一振りのハンマーが出現していた。

 電気炉製鋼法という製鉄法がある。

 アーク放電による超高温で鉄スクラップを融解させ鋳造し直す、云わば『雷による製鉄』。

 一つ目という特徴を持つ神々の伝説は世界の神話にいくつも語られるが、概ね共通するのは『製鉄、および鍛冶を司る神』であることだ。

 ギリシア神話の一つ目の巨人キュクロープスは天空神ウラノスと大地母神ガイアの息子であり、ゼウスに雷を与えた存在で、卓越した製鉄と鍛冶の技術を持つとされた。

 日本神話に登場する鍛冶神である天目一箇神(あめのまひとつのかみ)は、天照大御神が天の岩戸に閉じこもった際、祭祀用の道具や、天照大御神を誘い出す為の八咫鏡を製作したと伝わる。

「我が名はブロンテース・アイアントロプス。(いかずち)を司り、(くろがね)を支配し、調和を守護する者。我が雷鳴を恐れぬ者よ、盾突き足掻いてみせるがいい」

 堂々とした神威を前にして、人数的には有利であるはずのタヌキ2人は全身を汗が伝うのを感じていた。

「……想定していた以上の神格だったようだ。どうする、女石の」

「……どうせ、一度死んだ身だ。わざわざ化けて出てきたほどのオレらの矜持、みせてやろーや、小馬場の」

 2人は目を見合わせて首肯すると、気炎を上げて獲物を構え、同時にブロンテースへ突っ込んだ。

 1対2、しかもブロンテースは手負いである。

 しかしそんな要素など存在しないかのように、戦闘は一方的だった。

 むしろブロンテースには戦闘というほどの意識もないのかもしれない。

 子供のじゃれあいに付き合う大人のように、ブロンテースはタヌキらを圧倒していた。

 タヌキが2人で同時に攻撃を仕掛けようと、ブロンテースの視線により片方は金縛りを受け動きが止まり、その間にもう片方がハンマーで迎撃を受け跳ね飛ばされる。

 そもそもの膂力、リーチ、速度、頑丈さ――そして何より人ならざるものとしての格。

 どれをとってもタヌキではブロンテースに歯が立たなかった。

「グァッ……!」

 何度目か分からない攻防の末、同じようにハンマーで打ち倒され地面に転がる女石のタヌキ。

「いいかげんに諦めなさい。どれほど挑みかかろうと貴女たちでは私と渡り合うことすらできないのですから。降伏するのであればそれ以上攻撃は致しません」

「あー……そうだなー……」

 ブロンテースの言葉が真意であることは女石のタヌキには分かっていた。彼が本気で攻撃しているのなら、あのハンマーの一撃で自分など容易くバラバラに出来るだろうことも。

 しかしタヌキたちも並の覚悟でここに立っているわけではない。

「そうしてぇのは山々だけどよ、それじゃオレらが化けて出てきた意味がねー。引っ込みなんかつかねぇんだよ。人間に復讐するためなら何でもやってやるって、行きつくとこまで行っちまってんだよオレたちは――後ろを見てみな」

「ブロンテースさん……っ」

 美織のか細い声がして、ブロンテースは即座に振り返った。

「ごめんなさい……」

 美織は小馬場のタヌキに捕らえられ、首筋にはナイフが突きつけられていた。

「汚い真似なのは承知してるけど、余計な真似をすれば彼女を殺――」

 言葉の途中で小馬場のタヌキは口も含めて硬直した。

 しかしその直後、ブロンテースの口から「グヌッ……!」と苦悶の声が漏れた。

 再び女石のタヌキの刀が背後から彼の身体を刺し貫いていた。

「ブロンテースさん……!」

「お前ならその人間を守るために金縛りを使うと思ってたぜ。その金縛り、視線に捉えた奴しか対象にできねぇんだろ? そのくらいここまでの戦いで分かったさ」

 美織を人質にとった小馬場のタヌキと、女石のタヌキはブロンテースを挟んで正反対の位置に立っており、小馬場のタヌキを視線に捉え続ける限り、女石のタヌキの動きを止めることはできない。

「――美織様……ご安心を。この程度、わけの無いことでございますから――」

 ブロンテースは口から血液を吐き出しながら、眼前の美織に笑顔を見せた。

「当然分かってんだろうが、金縛りを解いた瞬間、小馬場のが人間を殺す。お前はそのまま、大人しく穴だらけにされていろ。2回刺しても死なないとは頑丈だが、さて……神って奴は何回刺せば死ぬのかな」

 噴き出す血と共に女石のタヌキが刀を引き抜き、もう一度ブロンテースの体に突き立てようとする。

 その時、またしても雷鳴が轟いた。

「うおぉぉ……ッ!?」

 一瞬たじろいだ女石のタヌキ。それでもすぐさま体勢を立て直し、目の前のブロンテースの大きな背中に刀を刺そうとするが――彼女の体は完全に動かなくなっていた。

(金縛り!? どういうことだ……人間を見捨てた……?)

 当然、ブロンテースは美織を見捨ててなどいない。

 今この瞬間、女石と小馬場のタヌキ、双方ともが金縛りによって静止させられていた。

 雷の権能により、ブロンテースはハンマーを再び溶かしてから鋳造。作り上げたものは、小馬場のタヌキの斜め後ろに鎮座していた。

 限界まで薄く、限界まで大きく。

 傷一つ無く磨き上げられたような表面が外界のあらゆる姿を映す――巨大な鉄鏡。

 そこにはもちろん小馬場のタヌキも、ブロンテースの背後にいる女石のタヌキまで、はっきりと映し出されていた。

 ブロンテースは鏡の中を凝視したまま小馬場のタヌキの前へ歩み寄り、美織に突きつけられていたナイフを掴むと爆音と光、高熱と共にただの鉄塊にした。

「ブロンテースさん……!」

「怖がらせてしまいましたね。申し訳ございません」

 涙を流す美織の頭を優しく撫で、鏡越しに女石のタヌキを見つめるブロンテース。

「今度から背後もよく見た方がいいと、先ほど助言をくださいましたね」

 ブロンテースは、いたずらっ子を諭す親のような顔でほほ笑んだ。

「ありがとうございました。これからは絶対に、あなたから目を離さないように注意いたします」

 そのまま後ろ向きに元ナイフの鉄塊をポイっと放り上げた。

 鉄塊はゆっくりと放物線を描き、重力で加速しながら落下して、女石のタヌキの脳天に命中した。

 女石のタヌキは、金縛りで動けぬまま気を失った。




 ブロンテースの隠れ家には、今日もコーヒーの芳香が漂っている。

 しかし淹れているのは彼ではない。

「――どうぞ」

 黒い液体の入ったカップを、美織はそっとカウンターに置いた。

 ブロンテースは「いただきます」と呟き、ゆっくりと香りを吸い込んでから一口目を味わった。

「ど、どうでしょうか」

「ふむ……まだまだ修行が必要なようですね」

「はううう……」

 がくりと肩を落とす美織に、ブロンテースは優しく微笑む。

「しかし筋はいいですよ。どんどんいい味が出るようになってまいりました」

「まだまだですよ! こんなんじゃブロンテースさんみたいなコーヒーを淹れられるようになるまで何年かかるか!」

「そこは修業あるのみですよ」

 楽しそうに笑うブロンテース。美織は口を尖らせる。

「ブロンテースさん、本当に自分でお店出す気ないんですか? 店舗じゃなくても、ネットで通販始めるとかすれば絶対バズると思うんですけど。オリジナルブレンドのコーヒーセットとか、ケーキのお取り寄せとか、いっそブロンテースさんをゆるキャラにしてグッズ販売してもいいですし!」

「やる気はありませんね。ゆるキャラになるのは……たまねぎじいやさんに申し訳ないですから。それに、美織様が私の代わりになってくれるのでしょう?」

「確かにそう言いましたけど!」

 絶対に趣味の範囲を逸脱したがらないブロンテースに業を煮やし、美織は「じゃああたしがブロンテースさんのコーヒーを淹れられるようになって、将来自分で玄海町にオシャレなカフェを開く!」と宣言したのである。

「道は果てしないなぁ……」

 頭を抱える美織。

 その時ドアベルが鳴り、2人の足音が隠れ家に加わった。

「あ、いらっしゃいタヌキさんたち」

「こんにちはー」

 ハイウエストのパンツを着こなした小馬場のタヌキと、ロングスカートにスカジャンの女石のタヌキが姿を現した。

 小馬場の方は柔和な表情で会釈をしたが、女石の方は顔を顰めたまま顔を逸らした。



 タヌキたちによる襲撃事件の後、ブロンテースは2人を拘束したが、その沙汰は美織に任せることにした。

 これに対し美織は、「ブロンテースさんがいいのなら」と前置きして――

「いいんじゃないですか、許してあげましょうよ」

 あっさりそう言った。

「そもそもあたし、おばあちゃんにタヌキの話聞いた頃から思ってたんですけど、明らかに悪いのって人間の方ですよね? 別に人間に危害加えたわけでもないのに、なにも殺すことないじゃんってタヌキ派だったんですよあたし」

「……君は優しいね」

 呟いた小馬場のタヌキに、美織は「普通だと思うけど……」と首を傾げた。

「あ、でもまた人を襲ったりなんかしたら容赦なくブロンテースさんにボコってもらうから。復讐なんてもうやめなよ。今時流行らないってそういうの」

「ははは、流行らないか。そうかもね」

 小馬場のタヌキは自嘲気味に笑った。

「いいよ、僕は。所詮八つ当たりだし。種族の壁、性別の壁を超えるだけの魅力が僕には無かったってだけだ。君はどうするんだい、女石の」

「…………お前がそんなアッサリなのにオレだけ執着し続けたら、まるでオレが執念深くて陰湿でねちっこくて見苦しい女みてぇじゃねぇか」

「違うのかい?」

 女石のタヌキは舌打ちをして、ブロンテースの瞳を睨みつけた。

「正面からやっても敵わねぇからな。選択肢はねぇだろ。大人しくしといてやる。だが忘れんな。お前気が緩んだと見りゃいつでもオレは動く。その女も殺す。せいぜいオレから目離すな」

「畏まりました」

 ブロンテースは穏やかな微笑で顎を引いた。



「今やすっかりブロンテースさんのコーヒーの虜ですよ」

 小馬場のタヌキはリラックスした口調でブレンドをブラックで楽しみ、女石のタヌキはミルクと砂糖をボチャボチャ突っ込んでかき混ぜている。

「美織さんは、この味に追いつくのにあと何百年かかりますかね」

「人ならざるもの単位の年月……」

「いえいえ、美織様でしたら精々50年ほどといったところでしょう」

「うう……人生即ち修行と思って頑張ります……」

「頑張りましょう。ところで美織様」

 ブロンテースが美織の淹れたコーヒーを飲み干して言った。

「将来開かれるご予定のカフェの店名などは既にお考えなのですか?」

「え? あ、ああ、はい……い、一応」

 美織は気恥ずかしそうに頬を掻いた。

「色々調べたんですけど、フランス語で『クゥ・ドゥ・フードル』って、つけようかなって」

「どういう意味なの?」

 小馬場のタヌキが問う。

「『落雷』とか、『青天の霹靂』って意味なんだって。ブロンテースさんっぽいかなって思ったから」

「分不相応に洒落てやがんな。『喫茶大目玉』とかでいいだろ」

「場末の居酒屋かな」

 甘いコーヒーを音を立ててすする女石のタヌキ、小馬場のタヌキ、顔を赤くして文句を言う美織が賑やかにあーだこーだと話しているのを眺めながら、ブロンテースは穏やかにほほ笑む。

「――素晴らしいですね、『クゥ・ドゥ・フードル』。私などではなく、美織様にこそふさわしいお名前です」

 Coup de foudre――『落雷』や『青天の霹靂』以外にも、よく使われる意味合いがある。

 それはまさしく天から嘶く雷撃のように、目に見える世界全てを変貌させてしまう魔法の瞬間。

 ――『一目惚れ』。


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