6.荊央の城
買い付けのお役目を終えた楽子山は、荊央城に戻った。
早々にお役目は終わり、今日の仕事はもうない。
いつもなら、然でも誘って飲みに行くような日柄だ。だが、そんな気分にもならなかった。
(あんなうまい朝飯の後に、安酒なんて飲めねえよ)
見回る同僚に軽く礼をして、城門をくぐる。
楽子山が寝起きするのは宮殿の外。景色も農村と変わらない。
積まれた飼い葉を、厩に向かって運ぶ小父さん。
井戸の脇では、せっせと洗濯物を干す小母さんもいる。
この光景は平和の証左だろう。
でなければ、もっと兵がいても不思議ではない。
ここには、一帯を治める丁泉の宮殿があるのだから。
(ま、いざとなったら南から援軍が来るさ)
楽子山はくたびれた訓練用の人形をぽんぽんと叩く。
荊央城はのどかな有様だが、大河を隔てた南の砦は違う。あそこは国境に接しているので兵士も多い。
戦争は起こっていない。しかし、大陸は分断されている。
詳しい話は知らないが、条約やら商売やらを考えれば、争うより共存する方がいいのだと耳にした。
(本当に戦いなんて起こったら、みんな困るしな)
楽子山は自分のお役目を思い返す。
『お役目』それは買い付けだけではないのだ。『買い付け』は表向きの目的で、本当のところは別にある。
『民に喧嘩を売り、兵士に仲裁させる』それが真の役目だ。
民は危機感がないと、兵を疎ましく思うものらしい。
実際いまも、税金泥棒くらいに見ていることだろう。
たとえ水害や火事のとき兵に助けられても、喉元を過ぎれば人々は忘れてしまう。
『できるだけ小さな面倒事の種を蒔いて、兵士の仕事を作ってやらねばいかん』そう楽子山は仰せつかっていた。
(見た目で向いてるとか言われちゃ、堪んねえよ)
そんなことを思いながら、荷物を置く。
すると、さっき食宿で買った『先行投資』が目に入った。
この絵は『お役目』の成果でもある。
「魚って聞いたが、火砲にも見えんだよなあ、こりゃ」
見れば見るほど珍妙な絵だ。
大きさは横長に一尺五寸ほど。墨で筒状の物が描かれている。
一体、何を描いているのやら、楽子山は絵を壁に掛ける。
黄華と言った、あの娘……
あれだけの料理を作る人間の絵だ。何か食い物が題材だろう。
「まったく。絵のことなんてわかりゃあしねえ」
うーん、と頭をひねる。
やはり、火砲ではないだろうか。
釣り人を装ってこいつを担いだら、敵を欺ける気がした。
なるほど、不意打ちはできるかもしれない。しかし、
(ねえな。それなら、岸に兵はいないって虚報で事足りる)
それに、どこの誰が攻めてくるというのか。
となれば、装飾品を描いたのかもしれない。
黄華は飾り気のない娘だった。
日ごろから料理をするなら、化粧はご法度だろう。
ゆえに、普段できない着飾りを、絵に込めたのかもしれない。
(だが、魚の髪飾りなんて、聞いたことねえな)
うーん、と首を傾げていたところで、戸を叩く音。
はて、来客の予定はなかったはずだが……
「へいへい。中におりますよ」
「既に休んでいたところにすまないな」
「これはこれは桓範さま。何かご用ですか?」
思わぬ来客に慌てて湯呑を探す。
ふらっと訊ねてきた桓範さまだが、長史の大任を受けている。
武官の楽子山と違って文官なものの、その席次は先端と末端くらいの差がある。
正直、何の用かの想像すらつかなかった。
「丁泉さまから頼み事でな。街に出ることが多い貴殿に相談しに来たのだ」
「丞相様からの? それこそ私のような者ではなく、別に適任者がいるのではと思いますが……」
「まあそう言わないで、話くらいは聞いてくれないか」
話を聞くも何も、断れるはずがない。
丁泉さまは丞相。文官の頂点だ。つまり、頂上からの言葉。
そんなものを、丁泉さまに次ぐ立場の桓範さまが、わざわざ、直々に、『相談』しに来たのだ。
言ってみれば、これは雷が落とされたか、隕石が降ってきたかに等しい。
いわゆる『頂上の人々からのお達し』だ。
(そりゃ、俺は武官だから、従う筋合いはないけどよ)
しかし、ここは荊央城。文官の城だ。
南の公安砦と違って、都尉がいるわけでもない。
つまり、だ。
「は、はあ……。私でお手伝いできることであれば」
ただただ、従うしかなかった。