5.飯勝負(後)
小明にも毒味をさせること、四半時以内に出すこと、だとか、細かな決め事をして黄華は料理に取り掛かる。毒味役の小明は黄華の飯が食べられると、表情乏しいなりに喜びを浮かべ、黄華としては複雑な気持ちになった。
(私が絵を描いた時にも、これくらい喜んでくれたらいいのに)
食材は少ない。唐辛子にお酢と言った調味料か、せいぜい干し梅と粥くらいしかない。もちろん、朝市に走って買い足すのは無理だ。時間が足りない。
黄華は食堂の外に出ると、背後に生えている竹藪に入る。
(朝早くて良かった。筍が生で食べれる時間はごく短い)
筍の皮をむいて、中央の柔らかい部分を軽く酢で洗う。そして、焙った唐辛子を糸状に。
粥はちょうど良く暖まっていた。鈴猫が作った粥なら、そのままでも十分美味い。小葱と塩で軽く香りと彩りを添える。
(最後の、仕上げは……っと)
黄華は自室から、玻璃の水瓶と竹管を用意する。
「黄華姐さま。それは何に使うの?」
「名店の秘伝さ」
にいっと笑う黄華。鈴明は不思議そうに黄華の作業を眺める。
「こんなもんかな」
黄華は盆に乗せて小皿を男の前に置いていく。
用意されたのは、筍の唐辛子と甘酢合えと塩粥。
さっぱりとした辛さと対照的に、とろとろとして熱い触感。
「ふん。生の筍たあ、なかなか美味そうじゃねえか」
「うめうめ。だけどよ、この粥、熱いぜ」
男どもは額に汗をかきながら、粥を啜り筍に齧り付く。
鈴明も粥に息を吹きながら、匙で掬う。
「っかぁ。悪くはねえ。筍も若くて柔らかい中心部だけを良く見極めているし、酢と唐辛子の分量もちょうどいい。塩粥も米の輪郭が適度に残っていて、塩加減も申し分ねぇ」
おぉ、と黄華は内心で喝采を送る。食材の買付を任されるだけあって、なかなか良い舌をしている。
「だがな、おめぇの料理は、まだ足りねぇ」
ぎろり、と意外と料理にうるさい男の目が光る。最後に残った粥を器ごと啜って、どん、と卓子に置く。
「見ろ! 俺たちは仕事の前だ! それも、これからあの熱い外に行こうってのに、汗だくじゃねえか! これじゃあ、味以前に、客への気配りってやつが足りねぇなぁ!」
(まんざら素人でもない。ってわけか)
味覚はしっかりしているし、料理に対する分析も的確だ。こんな場面で会わなければ、きっと話が合ったに違いない。
黄華は、残念そうに無言で杯を差し出した。
「悪いがこの金はやれねぇな。まぁ、お前の料理に免じて、店壊すのはよしといてやるよ」
男は目を伏せる黄華へ勝ち誇った顔を向けて、杯を掴む。
だがその瞬間、がたがたと、何かに驚愕したように、震え出した。
「ま、まさか……なんで……。も、もしかして、これは」
「どうぞ、それが、最後の品です」
黄華の声色は平坦で気概も感慨もない。その目は千里先を見つめるが如く透き通っていた。まるで最初から詰み筋を読み切っていたように。
男は手を振わせながら、杯を口につけ……叫ぶ。
「うめえ!!」
さっぱりとした辛さと対照的な触感。味の組み立ては、この男が語った通りだ。もちろん、唐辛子と粥の熱で汗をかくのもわかっている。
(簡単な話だ)
この地で、いや、この季節に『味わえるはず』がない物。それは、汗が滲むような時に喉を潤す、『冷たい水』だ。
この男が気付いたかは分からないが、ただ冷やしただけの水ではない。仄かに梅も加えてある。
『梅林止渇』
とは、よく言ったものだ。魏北の始祖が遺した有名な句である。尤も今回は、本当に水を飲ませているので、少し異なるが。
「ひゃーっ! 冷たくて、うめぇ! こんなもん、飲んだことねえよ! しかも、夏なんだぜ、夏!」
黄華が出した料理の中で最も高価な物は、この『冷水』だ。夏場の氷や冷水は、目が飛び出るほど高い。
専用の穴倉に貯蔵した氷を、塩を浸して濡らした藁で包み、早船か早馬を走らせること、幾千里。
(よほどの貴人か金持ちでもなきゃ、味わえるはずもない)
庶民では、一生口にするなどできない。冷たい物など、せいぜい素焼きの瓶で冷やしたくらいだろう。そんな貴重な物を、黄華はこの短時間に出してやった。
「あんた……何者なんだよ。妖の類か?」
「さぁてね。それに最初に約束しただろう。ここで何を出されたかは、内密に、とな」
冷えた水を出す食宿なんて噂が立ったら目立つことこの上ない。
それに、これは実家で伝えられる『秘伝』の一つだ。鈴猫も製法は知っているだろうが、その道具がどんなものかまでは知らないだろう。
「なんでだよーっ! もっと皆んなして食いにきて飲ませてやろうぜーっ。すげえ繁盛すんだろ」
「莫迦野郎! ここで食ったもんは忘れろ。然、おめえにはおめぇの飯ってもんがあるんだ!」
料理にうるさい男は席を立ち、片膝をついて拝礼してくる。つられた然も、慌てて不恰好な礼をする。
「仙女様方、重ねての無礼を詫びましょう。ここで何があったか、いや、何を飲んだのかは、この楽子山はもちろん、然も口外致しませぬ」
いけすかない乱暴者かと思ったが、なかなかどうして、ちゃんとした奴だったらしい。ここまでされては、黄華の方こそばつが悪い。
「いや、私も少し謀りすぎたようで」
黄華は苦笑いしながら頬を軽くかき、ぺこりと頭を下げた。
もしかしたら楽子山たちは、腹が減り過ぎて不機嫌だっただけかもしれない。だとして、互いの態度が良かったとは言うまい。それでも、こんな態度を取られて矛を構える程、黄華とて凶暴ではないのだ。
楽子山は椅子から立ち上がると、両手を広げて大きく打ち鳴らす。
「実に美味かった! まるで、明日への気力が湧いてくるような! ほら、然、いつまでそうしている。さっさとお役目すんぞ!」
「で、でも、その銭包は……」
然が首をすぼめながら銭包をちろと指す。
黄華は思い出した。そういえば、この銭包は賭けの対象になっている。勝敗はと言えば、黄華が勝ちを主張したら通ることだろう。
しかしまあ、今になってみれば、もうどうでもいいことだった。
「あぁ、もう良いです。そもそも私は、店の者じゃありませんし。お代も結構ですから」
「ん、むむむむむ……」
黄華の言葉に、楽子山は眉間へ皺を寄せ、何やら唸り始める。
ばん、と大きな手で卓子に銭が置かれる。けっこうな量の銀だ。これだけあればひと月は暮らせよう。
「これでは足りないと思うが……、もらってくれ! あんなに美味い飯を食ったことは、一生の語り草になる!」
いやいやいや、もらえるはずがない。しかし、楽子山の表情は大真面目で、頭からは湯気が立ち上るようだ。これを断るのも、恐らく尋常ではないだろう。
黄華は顎に手をやってしばらく考えて、両の手をぽんと打った。
「それじゃあ、これは絵のお代として、ということにしてもらえますか? 実は、私は絵描きでして」
黄華は壁に貼っていた掛け軸を外す。
「え、絵描き……? これを、あなたが?」
「えぇ。まだ駆け出しですが。私、黄華と申します。そのうち売れると思いますので、先行投資……ということにしてください」
楽子山は目をぱちぱちさせながら、首を傾げる。味覚は確かな様子だったが、絵は詳しくないのだろう。楽子山は何かを考えるように、然に絵を見せては何かを話している。
「……わかりました。この絵を頂きます。それがしは楽子山。丁泉さまに仕えている身ゆえ、もし何かあれば使いを出してくだされ。すぐに、この食宿へ馳せ参じましょう」
はいはい、と手を振って二人を見送る。絵が売れたことはありがたいが、なんだか、どっと疲れた気がする。
「黄華姐さま……」
「あぁ、小明。大丈夫だっただろう? もう小明は普通の給仕なんだから、護衛なんて考えなくていいんだよ」
鈴明は『元・貴人専用の給仕』見習いとして雇われていた。
貴人や、本当の金持ちをもてなす時は、秘密を握らないことを示すのに、幼い子供を給仕とすることもある。もちろん、ただ給仕すればいいだけでなく、何かあった時には高貴な方の護身もしなくてはならない。
つまり、幼いとはいえ、鈴明の刃捌きは尋常ではないのだ。
当然、牛や豚相手の物ではない。ゆえに、あの男二人相手に大立ち回りをしても、小明は大丈夫だったろうが、店や彼らがどうなったかはわからない。
「はい、黄華姐さま。お気遣いありがとうございます。朝餉も、とてもおいしゅうございました。それより……」
不安そうな表情を見せる鈴明はめずらしい。何かあったのかと思い、黄華も顔を曇らせる。
「どうした? 何かあったか?」
「いえ……黄華姐さま。あんな絵を銭の代にしてしまいましたけど……後で大きな苦情が来るのではありませんか?」
「い、いや、さすがにそれは、ないんじゃないかな……」
鈴明の容赦ない言葉に黄華はがっくりと項垂れるのだった。
◇◆◇
「あっきれた。それでそいつらは、小華の『へったくそな絵』を買って、帰っちゃったってわけ?」
隣で大根をごしごし洗う鈴猫は、天を仰いで心底呆れていた。
「いやいや、『へったくそな絵』はないでしょう。楽子山さんも、然さんも、すごく喜んで小躍りしてましたから」
黄華は好評だったことを強調、もとい誇張する。鈴猫はいなかったのだから、どうせ分かるはずがない。それなら、『絵描き・黄華』を売り込む機会に活かすのが賢い道に決まっている。
「ふーん」
そんな意図を知ってか知らずか、鈴猫は大して興味もなさそうに相槌を打って大根を洗う。
「それよりもさ、あんた。あの秘伝の奴だっけ? なんか棒を抜き差しすると冷えるやつ」
「うん。『抜空冷』」
『抜空冷』とは、冷水を作った秘伝の道具だ。
構造自体は単純で、竹で作られた水鉄砲の放水部から竹管が伸びており、その先には蓋で密閉された水瓶がくっ付いているだけだ。
少量の水を入れた水瓶と竹筒が繋がった状態で差し棒を抜き差しすると、竹筒側面の特別な風穴から空気が逃げていくと聞いた。抜き差しを続けて空気が消えると、どういう訳か水が蒸発してしまい、水瓶の中は極寒の様に冷たくなっている。そんな秘術だった。
今回は、先日、覆面の男にもらった銀の匙を水瓶の中に入れていた。銀の匙は毒避けにも使える他、熱を良く通す。そこで試してみたところ、狙い通り、銀の匙は氷の様に冷えていた。
(お陰で、普段より楽に水を冷やせたよね)
「そうそれ。そんなのまで使って、奉仕するんじゃないよ」
「……んー。わかってるよ」
黄華の返事に、鈴猫は手を止めた。桶の水面が揺れて、雫がぽつぽつと袖に撥ねた。しっかり拭かないと、後に残るかもしれない。
「本当に? 分不相応に舌が肥えたら、その後どうなるか、あんたは知っているでしょ?」
『満たされないのは、地獄よ』そう、鈴猫は呟いた。
「多分、その楽子山ってのは、分かってくれたんだろうけどさ」
鈴猫の言葉がずっしりと黄華の心に伸し掛かる。
『仙女様方』
『然、おめえにはおめぇの飯ってもんがあるんだ』
『一生の語り草になる』
同時に、あれほどまでに楽子山が態度を変えた理由も。
「……わかってるよ」
黄華はぼんやりと、揺れる桶の水面を眺める。
(それでも、味の探究をせずにはいられないのが私、か)
大根を見れば、夕餉をどうするのかを考えてしまう。黄華は下唇を噛むと、大根に向かってじゃぶじゃぶと雑布を擦り付けた。