4.飯勝負(前)
「暑い。寝てられない」
黄華は臥床でうなりながら、手を広げる。
肩と首のあたりが汗で気持ち悪い。臥床から転げ降りる。
部屋には、夏の陽が窓から差し込んで来る。
ジンジンジンジン、キーと叫ぶ声が鼓膜を叩く。
声の主は、暗い地中で長い年月を過ごす。
気の遠くなる夜を越え、ようやく見る陽の目。
そう思えば、仕方ないのかもしれない。
束の間の地上は、彼らにとって宴会場なのだ。
羽目を外して騒ぎ散らすくらいは、許さなければいけない。
与えるべきは、寛容な心だろう。
(でも蝉はなあ。あまり身も多くないし……)
毛氈の上で転がったまま、黄華はため息を吐く。
ここは、旧知の人間が主をする宿だ。
田舎宿とは言え、清掃も十分。調度類の趣味も良い。
それに、料理が評判になっているとも聞いた。
黄華の実家で修業したのが、その一助になっているのであれば、複雑な気持ちになる反面で、嬉しくもある。
「こっちの生活に、はやく慣れよう」
ひとり呟いて、黄華は実家のことを思い返す。
羽扇で仰いでくれる下女。
家鴨や羊の羽毛を使った上等な寝床に、胡弓の調。
朝起きれば、湯浴み桶が準備されているのが、当然だった。
汗ばむ夜を過ごした後、不快感を覚えたことなどない。
いま思えば、誰が用意してくれていたことやら。
呆れて、ため息が出てしまう。
(文無しを居候させてくれてんだもんな……)
ほんとうに、感謝するしかない。
黄華は、置かれた籠から衣を取って着替え始める。
だいたい、寝起きしているこの部屋も上客用のものだ。
庶民なら一宿一飯で一月ほどの稼ぎが飛ぶらしい。
(とくに金銭感覚、なおしていかないと……)
黄華はまだ、だいぶ世間とずれている。
ずれている、と自分を疑う程度には矯正されてきた。
それでも、まだ買い物はひとりで行かせてもらえない。
文字や計算が不得意だからではない。理由はもっと簡単だ。
いや、だからこそ厄介なのだが。
『あんた、高く買わされすぎよ!』
以来、銭包は持たせてもらえなくなった。
おかげで、長く出かける時は、弁当持参だ。
「こんなもんかな」
相変わらず、髪はひっつめただけ。
麻の服もよく風を通すけれど、この暑さでは気休めだろう。
「黄華姐さま、お目覚めですか?」
「おはよう。小明。鈴猫は?」
「えぇ、猫姐さまは市に出ています」
鈴猫と鈴明の二人は義姉妹だ。
この、舌足らずだが、どこか大人びた声の主が鈴明。
朝早くから買い付けに行く働き者が鈴猫。
二人とも黄華の実家で雇われ働いていた。
鈴明はまだ幼く見習い給仕だった。
けれど、鈴猫は違う。
鈴猫は店家代理として最前線で店を切り盛りし、黄華にとっても頼れる姉御と言える存在だった。
『私の婿となる殿方は、鈴猫以上の人物でなければ、店を任せられるはずもないでしょう』
周囲には常々そう言いつけていたが、鈴猫は店を辞めた。
いや、辞めさせられたのだろうと、確信をしている。
『あんたが気に病む必要ないの。遅かれ早かれ、どうせあたしは、独立するつもりだったし』
鈴猫と鈴明はそう言って、黄華の元を去った。
『婿を店家に据えるための厄介払い』
そんな計略に抗いきれなかった自分が、情けなかった。
(あれからもう、二年経つのか……)
黄華は黄華であれこれ手を尽くして、跡継ぎ婿を取ることから逃げ回るも、万策尽きた。
そうして都から落ち延びたところで、二人と偶然再会した。
ほとんど、奇跡と言っていい。
「朝市?」
「えぇ。まだ私は計算が苦手ですから」
買い物ができる小間使いが雇えれば楽だろう。黄華の実家では、当たり前に読み書き計算のできる者がいた。しかし、この辺りでは計算ができる人間がほとんどいない。それどころか、識字すら怪しい者が多い。
「勉強することね、小明。それより、冷えた水はある?」
「申し訳ありません。黄華姐さま。朝方沸かしていたのですが、まだ、あの通り」
まだ小さい手が指す先には、湯気立ち上る薬缶がある。忘れてはいけない。夏の冷たい水は高級品だ。金を払えば、ほいほい手に入る物でもない。
黄華は前髪を軽く除け、ひっつめた髪を揺すって息をついた。
「そうでした。生水は飲めないものね」
ここは、都とは何もかも違う。
始めて味わう荊央州の夏は、ひどく熱く感じた。
◇◆◇
「邪魔するぜ!」
「っかー、腹減った!」
『食宿明猫』の扉ががらがらと開けられ、二人の男が入ってくる。
一人は腰には剣を佩き、軽装ながらも胸当てをした不良武人といった体だ。眉間に皺を寄せ、不機嫌を発している。もう一人は小柄の猫背で、どこか鼠を思わせる。
(兵卒か? 朝早くから、ご苦労さまだね)
黄華は渋い顔で、通路の傾いた椅子に腰かけ、様子を眺める。
まだ鈴猫は朝市に出ているので、もう少し待ってもらわなければいけない。小明は盆を抱えて、無人の店内ど真ん中の卓子に陣取った二人組に事情を話し出した。
「すいません。大士さまがた、申し訳ありません。まだ、お店の準備ができていないのです。姐さ……店主が朝市に出ていまして」
「あぁ? なんだって? 俺だってこれから朝市で買い物さ!! だから、それに備えて腹ごしらえを頼みてえんだよ」
「そうだ! そうだ! 朝からもう腹ぺこなんだよぉーっ。つべこべ言わないで、何でもいいから飯出してくれって話だよーっ!」
「そ、そう言われましても……」
困ったように小明はこちらを振り返る。仕方ないかと頭をかきながら、ずいっと黄華も前に出る。ここで働く身ではないが、子供の小明だけではこの手合いの相手は辛いだろう。
「そんなに大きな声出さないでくれよ。お役目の買い物を済ませて戻る頃には、ここの主人が腹いっぱい飯を出してくれるからさ」
「あぁん? 何寝ぼけたこと言ってやがる? 『腹が減っては戦もできぬ』だ! おめえらのせいで、大切なお勤めが真っ当できなかったら、どう責任取るってんだよ!」
怒鳴りながら、不良武人の男はどん、と銭包を卓子に置く。じゃらじゃらと中身が擦れるのと、重たい音がした。
(なんつー言いがかりだよ)
黄華はぴくぴくするこめかみを何とか抑えた。
こいつらはこうやって、恫喝しては金をちらつかせて、無理な要求を通してきたに違いない。
卓子に置かれた銭包は、束にした青梗菜か搨菜を思わせる。普通の飯炊き人なら、この金に怯むだろうし、加えてお役目だと騒がれてはひとたまりもないだろう。
しかしそれは、『普通の飯炊き人』なら、の話だ。この男共は、目の前の相手を見誤っている。たんまりの銭包に良いことを思いついた黄華は、にやりと微笑む。
(その金、根こそぎもらってやろうじゃん)
こういう、権力や力を笠に着るやり方は気に喰わない。痛い目に合わせてやらないと気が済まなかった。ふんと鼻息をついて、黄華は居住まいを正す。
「わかりました。大事とあれば、私が代理で食事を作りましょう」
「なんだ。できるじゃねぇか。さっさとしろ」
相変わらず不機嫌そうな不良武人に向かって、黄華は馬鹿丁寧に頭を下げる。わざとらしく頬と唇で弧を作ることも忘れずに。
「ですが、先ほども言った通り、まだ店は開店前で満足な食材もありません。なので、お願いをしたいのです」
「お願いだぁーっ? どういうことだよ!」
鼠男は、変に甲高い声を上げる。
「至極簡単な物です。ここで出された食事のことは内密にして頂きたいのです。それから、もしも、あなたたちが『味わったこと』のない料理を出せたら、その銭包を私たちにください」
黄華は頭を下げたまま、すっと細い指で銭包を指す。ゆったりとした袖口が、動作に合わせてふんわりと揺れる。
「何莫迦なこと言ってんだよぉーっ! この金は朝市で買い物する金だ! 簡単に出せるかぁーっ!」
鼠男が叫ぶ。
「まあ、待てよ。然」
鼠男は『然』と言う名前らしい。それはさておき、不良武人は先ほどまでの激しさを抑えた調子で顔をこちらに寄せてきた。
黄華は顔を上げる。
不良武人の顔が目の前にある。そのまま、黄華を上から下まで眺めて、値踏みするように、じっくり火を通すように睨まれる。
「嬢ちゃん。俺たちが金持ってると思ってふっかけて来やがったな。面白え話だよ。ただな……」
一瞬緩んだ男の目に険が差す。
「そんだけふんだくろうってなら、相当なもんが出てくんだよな? 俺はこう見えて飯にゃあうるせぇぞ。そもそもこの金は、食料買う金だからなぁ。大したもんじゃなかったら、」
男が剣を見せびらかして凄む。
「この店ぶっ壊して、代金はタダにしてもらうからな! いいな!」
(挑発に乗ってきた)
内心でせせら笑いながら、黄華は男の怒号を涼しく受け流す。
その時、黄華の後ろにいる鈴明が動くのを感じた。黄華は慌てて鈴明の手を掴んで『やろうとしていること』を止める。
(どっからこんな物を……)
小明が持っていた小刀を、男たちに見えないように衣の中に隠す。
「姐さん……」
「大丈夫。鈴明は、何も、しないでくれ」
鈴明にゆっくりと言い含めると、黄華は男たちへ向き直る。
何事も無かった様に目を細め、ふっと微笑むと、頭を下げた。
「仰せのままに」