3.小船の行き先(後)
おっちゃんが呼び止めるのを無視して、黄華は進む。
後悔するかもしれない。
それでも、食材に誘惑された贖罪は、しなければいけない。
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「どうした?」
「お役人さま、その船は下流から流れてきたのだと思います」
「下流? どういうことだ?」
黄華は描いていた絵を広げて、お役人に見せる。
「私はここでずっと絵を描いていました。でも、上流から『流れてくる』船はなかったんです」
「……この絵を見ても、どこが河かすらわからんのだが」
意外なお役人さまの返事に、出鼻がくじかれる。
膝から崩れそうになるのを、たたらを踏んで持ち直す。
この絵はどこからどう見ても、目の前の河そっくりだろうに。
良く見ろ、と絵をお役人の目の前に突き出して、指を差す。
「ここです! ここ!」
「わ、わかった。ま、まあ、絵はいい。……ともかく、見逃したのではないのか?」
「いいえ。上流には橋もあり、人が行き来していますから、もしそんな小船があればもっと早く騒ぎになっていたでしょう。ところが、そんなことはありませんでした」
黄華の言葉に、お役人の目が微かに細くなった。
お役人は顎で合図すると、端役の男が礼をして、下流の方へ駆け出していく。
「なるほど。では、どこから来たと?」
「下流から、でしょうね」
「下流? そんなことがあるわけなかろう? 船が河を遡るか?」
お役人は疑問の声を上げる。
疑問を持つのも当然だ。
けれど、黄華はもう、つじつまの合う話を練り上げている。
(問題は、推測が混じることだけど)
証拠もない。それでも、話す価値はあると思っていた。
「えぇ、普通に考えればありえません。しかし、船が下流から来た証拠はあります。その、大きくて美味しそうな鯔です」
黄華は細い指を伸ばし、小船の端で窒息している魚を示す。
「いや、あまり旨そうには見えないが……」
「いいえ。それだけ大きく育った鯔は味も良く、滅多に見かけません。それに身の固くなり方からして、死んでから八時くらいの状態でしょう。日差しが強かったので少し心配ですが、丁寧に焼けばまだ食えますよ!」
たしかに、夏よりも冬の方が旨いから、少し味は落ちるだろう。
それでも、焼いた身を涼麺に加えれば、香ばしさが食欲をそそるに違いない。後は、生姜や大蒜、それから……
教え込まれた調理方法と、唾液がまるで洪水の様に溢れてくる。
「ま、待て待て。魚の話はもういい。なんでそれが下流から来た証拠になるか? それを話してくれ」
熱弁しながら恍惚とする黄華を見て、役人は額に手を当てる。
「あ、すいません。つい……。ええと、そのくらいの大きさまで育った鯔は下流でしか採れません。海と河の交わるところにしか生息していませんから」
海と河の交わるところ、つまり『汽水域』だ。
たしかに、小さい鯔は淡水域にも遡及する。
けれど、育った鯔は淡水域には登れず、汽水域に留まる。
くわえて、鯔はよくよく水面を越えて飛び上がる。
たまたま小船に乗り上げることもあるだろう。今回のように。
「ふむ。上流で目撃されていないこと、それから下流でしか獲れない魚が小船に乗っていることから、船は河を遡った、と」
戻って来た端役が耳打ちしている。裏取りできたのだろう。
「えぇ。私は人間が死んでからどのように変化するかは、詳しくありません。しかし、魚が死んでからどのように変化するかは熟知しています」
ですから、と平らな胸を張ってとんと叩く。
「あの娘が亡くなった頃と鯔が死んだ頃を比べれば、裏付けも出来るかと。おそらく、鯔の方がけっこう遅いはずですから」
「……船が上流から流されていたのであれば、置かれたのは死んだ後の鯔、ということか。たしかに、死体と生きた魚をわざわざ同じ船に乗せる意味はない」
お役人さまは、顎に手をやって頷く。
「つじつまは合う。しかし肝心の、どうやって河を遡ったか、それがわからないと、にわかには信じられない」
河は上流から下流に流れる。その上に浮かぶ船も同じことだ。
その流れを遡るのには、人力で船を漕ぐしかない。
(と、思うだろうが、やり方はある)
「小船の川上り。それには、二つの物があれば可能です」
「……二つ?」
「えぇ。一つは縄。これは、小船に巻き付いていた縄があったのを覚えています。私の他にも見た者はいるでしょう」
「ふむ。いかに小船でも、縄があるのは不自然ではないな」
「えぇ。岸に止めるための『舫』にも使いますから」
「では、もうひとつは?」
役人さまの質問に、黄華はちらと視線を移す。
馴染みになったおやっさんの茶屋。
その隣にある、丸められた男物の道袍。そして、
「お役人さま。この辺りでは、良い包子を作ることができますね」
「たしかに、よく食べはするが……それがどうした?」
怪訝そうな顔をする、お役人さま。
「包子の材料は小麦粉です。小麦粉は……水車で挽くことがよくよくあります。その方が効率も良いですから」
「……何が言いたい?」
黄華のまどろっこしい言葉が、お役人さまの眉間に谷を作る。
意外と表情の読みやすいお人だ、黄華はそう思った。
「いえ、水車に紐を括りつけて、紐を巻き上げると船は下流からでも、遡るのではないか? と思いまして」
瞬間、お役人さまの目は大きく見開かれ、叫んだ。
「全員! 水車小屋を探してこい!」
「御意!」
ばらばらとお付きの男どもが、馬に乗ってかけていく。
風向きを考えて欲しい。舞う砂埃に、黄華は顔の前を仰いだ。
「ご協力に感謝します。えぇと……?」
「あ、いえ。私はしがない絵描きなものですから。名乗るほどの者ではなくてですね」
すこし長口上を決めすぎたかな、そんな軽い後悔を抑え込む。
まあ、素性を明かさなければ、大丈夫だろう。
(とはいえ、長居しても良いことはあるまい)
三十六計逃げるに如かず、だ。さっさと立ち去ろう。
「おい、黄華ちゃん! 昼飯! 置き忘れてるぞ!」
「あっ、そうか。おっちゃん、すまんね」
まさに、『急がば回れ』
慌てて時間をかけてしまっては、かえってうまくない。
目立たず確実に、そして、素早く、だ。
「へったくそな絵描きかと思ったが、妙に頭の回る奴だな」
ずっと静かに様子を見ていた覆面の男だ。
石でも転がすようなじっとりした声音。
その手には、黄華の忘れ物、包子がおさまっていた。
「お手を煩わしてしまい、申し訳ございません」
舌打ちを抑えて、なるべく俯きながら返事をする。
なぜだか分からないが、この男にはあまり関わりたくない。
(けっこうな役人だろ。こいつも)
それなら、目立たずに、下手に出ておくのが無難か。
差し出される包子に、黄華は両手を差し出す。
もう少しで手のひらに包子が返される。
そのぎりぎりで、覆面男の目が鈍く瞬いた。
「えっ?」
覆面男は悪戯そうに微笑むと、黄華の両手を軽やかに回避して、己の口に向かって包子を入れようとする。その瞬間、
「お止めください!!」
さっきの一喝とは比べ物にならない。
そんな大音量で、お役人さまの声が周囲に響き渡った。
「……分かっているよ。桓範」
覆面男は手を止め、舌打ち交じりに返事をした。
(桓範? あのお役人さまの名か?)
もう少し遅かったら、包子は覆面男に齧られていた。
何が起きているのかもわからず、呆気にとられる黄華を無視して、覆面男は匙を包子に突き刺した。
「大丈夫そうだぞ。って、これはあんたのだったな……。返すか?」
包子に差し込んで、油の光る匙を桓範、お役人さまに見せびらかしながら、覆面男はそう言った。
(毒を警戒……?)
よく見えなかったので、はっきりしない。
それでも、あの仕草には心当たりがある。
以前、貴人を料理でもてなした時に、似た仕草をされた。
(銀製の匙で、毒避けなんかするのは……)
普通の高級役人程度ではありえない。
ましてや、ここは料亭でもなく、ただの屋外なのだ。
屋外で、たまたま会った人間からの毒さえ警戒する身分。
(それに、あのご立派なお役人さまの態度は……)
覆面男はかなりの要人であるのは間違いない。
「いえ……。大したものではありませんので、差し上げます」
「そうか。では、これを取っておけ」
包子に刺された匙が差し出される。
(受け取るべきか、受け取らないでおくべきか……)
目の前の覆面男は、とても、高尚な人格をお持ちとは思えない。
桓範の立ち居振る舞いと比べても、豚と真珠か、月と鼈だ。
だとして、人格と地位は必ずしも並び立たない。
(それなら、お飾りか?)
縁故や賄賂。
地方の高級官吏の座など、都では商品のひとつだ。
密談の場を見て見ぬふりをしたことだって、黄華にはある。
なぜ、彼らは料亭をかように使うのだろうか。
ただ料理を楽しんでくれればよいのに。
(味わいが、曇るでしょうよ)
とはいえ、いまはそんなことに思いめぐらす場ではない。
(しゃーないか) 黄華は決断する。
桓範は、正統派で仕事の出来る役人。
短い時間しか接していないが、それくらいはわかる。
部下たちがよく従っていたのは、その証左だろう。
桓範のような部下がいれば、仕事は回る。
お飾りの上役は、何もしない方がかえっていい。
先ほどの強い制止が『何もするな』を意味するとなれば。
黄華はうやうやしく、頭を下げる。
実の伴わない権力なんてくだらない。
けれど、権力者に目を付けられることは避けたい。
それに、本当に銀製の匙なら、そこそこの価値はある。
「ありがとう、ございます」
料亭仕事で培った、非の打ちどころのないはずのお辞儀。
めちゃくちゃな客と対面しても、『なんだよ、この覆面野郎』と思っていても、そんな素振りは微塵も感じさせまい。
『揚げ足を取られない』
それが、厄介な人間から上手く距離を取る秘訣なのだ。
◇◆◇
離れていく黄華を見送ると、丁泉は覆面を少しずらした。
外出する時は顔を隠せだなんて、まったく、わずらわしい。
腹が減ったら食う。乾いたら潤す。
そんな当たり前のことを、なぜ妨げようと言うのか。
(ちょうど小腹が空いていたんだよ)
ぱかっと包子を二つに割ってかじりつく。
まるで殴られたような衝撃だった。
迸る肉汁。筍のさくさくとした触感。
ふんわりと鼻腔をくすぐるのは、八角だろうか。
繊細な香りと、水気を吸った包子との相性が素晴らしい。
(な、なんだこの味……! こんな旨いの、食べたことないぞ)
驚きのあまり、声も出ない。
一気に残りを頬張って、手につく油の一滴まで味わい尽くす。
とても、とても美味だった。
「……おい。桓範!」
「な、なにかありましたか? 丁泉様」
丁泉は肩を揺らし不気味に微笑む。
深衣を棚引かせるその仕草は、闇夜に羽ばたく梟のよう。
逃げられない不吉の兆候だった。
「さっきの娘……この包子を持っていたあいつだ。あいつを、何としても探し出せ。もっと旨い物が食えるかもしれん」
こうして黄華は、故郷から逃げ落ちた先で、追われる立場となるのだった。