2.小船の行き先(前)
大河に横断された大陸の中央。そこが黄華の逃げ延びた地。
北には故郷のある祖国。そして、東西にもまた国がある。
この国、この街は、周辺を他国に囲まれながらも平和だった。
それでも、昼下がりに騒動の一つや二つくらいはある。
「おい! あれ……!」
この地に来て、初めて聞く騒がしさだった。
「なんだあの小舟? まさか……おい、引き揚げるぞ!!」
(何かあったのか?) 黄華は顔を上げる。
濡れるも構わず、男たちが大河へ飛び込んでいく。
誰かの葛巾がほどけたのか、下流へ流れていった。
小船には、筵にくるまれた何かが横たわっている。
(あれって……)
男たちは小船を掴むと、必死に陸地まで引き揚げていく。
船底の隅には、半月に身体を曲げた魚が、窒息していた。
「気の毒にねえ……」
「最近、多いらしいわよ……」
ひそひそと、通りすがった小母さんの囁きが聞こえる。
訳知りそうなその言葉は、状況を察するのに十分だった。
くわえて、死者を水に帰す風習は聞いたことがない。
(田舎の方ではあるって聞いてたけど……)
おそらくは『口減らし』だろう。
働けなくなったか、病に倒れたか。とにかく、川に流したのだ。
それを理解した途端、ひどいにおいが鼻をついた気がする。
同時に、ぶんぶんと蠅がまとわるような心地も。
いくら平和でも、不幸な身の上は消えないのだ。
小船を引き揚げた男は、小船に絡んだ紐を投げ捨てる。
ゆっくり筵がめくられた。中にはどこにでもいそうな娘。
(私と齢も変わらなそうだってのに……)
黄華より少し年上の、二十とすこしくらいだろうか。
幸か不幸か、その顔が痛んでしまった様子はない。
まるで眠っているようだが、血色はくすみ、痩せている。
いたたまれない。
黄華は婿取りが嫌で、裕福な実家を飛び出した。
流れ者になったとは言え、帰る先もあるし、趣味に高じるくらいの余裕はある。もちろん、病気一つない健康体だ。
にも関わらず、この境遇の差は。
(けっきょく私は、まだ実家の名にすがっている)
船上の骸を悼む気持ちはもちろんある。
手を合わせて見送るくらいは、喜んでしよう。
だが、しかし……だ。黄華は思わず、ごくりと喉を鳴らす。
(ああ……私は、料理なんて、もう)
どうしても抑えきれない感情が沸き上がってくる。
同世代の娘の死。そんな悲劇に直面しても抑えられない。
抑え込もうとしても、至るところに、『それ』はあるのだ。
(なんて、立派な……)
続く言葉を、黄華は何とか飲み込んだ。
息苦しい。心も、苦しい。ゆっくり息を吸って、吐いた。
よく、覚えておかなければいけない。
この土地の住人なら、『口減らし』をありふれたことと割り切れる。先ほど訳知りに歩き去った小母さんのように。
それに、本物の『絵描き』なら、あの亡骸を描くべきだ。
絵で悲劇を伝えられなければ、心を動かすことができなければ、その手には何の意味もない。
では、黄華はどうだっただろうか。
あの小船の端にいる魚を見て、良い『鯔』だと思った。
素晴らしい自然の恵みにして、惜しむべき食材だとも。
つまり、この土地にも馴染めず、絵描きにも程遠い。
(ただ、逃げてきただけじゃないか)
故郷から逃げ、他の仕事を志そうとも。
何も変わっていない。
ただ料理に魅入られただけの、逃亡者だった。
「お集まりのところすまないが、少し確かめても宜しいか?」
声の主は齢四十ほど。低い声色だが、威圧感はない。
(何食べたらこんなに品良く育つんだろ……)
その男は、周囲の庶民とはまるで違う。
五尺五寸はあろうし、動き端々から品の良さが滲み出ている。
象徴されるのは、髪に刺さる立派な子午簪。
おそらくは、なかなかの位を持つ役人さまだろう。
役人さまの歩みに従って、野次馬の壁が割れた。
その歩みを妨げることが、大きな罪であるかのように。
(大豆を多く与えられた馬は、強く育つと聞くけれど)
すっかり小船のことも忘れ、『甘藷を与えた豚の肉は甘くなる』やら、『畑に鶏を放つと害虫も減る』やら。
そうやって、食い物のことへ考えを巡らせる。
すると、不意に役人さまが振り返った。
わずかな時間、役人さまと視線が交錯する。
(え? 私になにか?)
そのまま、お役人さまは黄華に向かって小さく目礼をする。
自分に何の用が、と質問を投げる間もなかった。
なにも悪いことはしていない。
けれど、馬やら豚やら鶏やら、食材のことばかり考えていたのを見透かされたようで、気まずい。
(こんなときは……)
迷っても仕方ない、素知らぬ振りで立ち去ろう。
黄華は平然を装いながら、荷物をまとめる。
「……私に何かご用がありましたか?」
「失礼。貴方にご用がある訳ではありません」
爽やかに役人さまは笑みを浮かべる。
『……じゃあ、何を?』 と、黄華の口は開かなかった。
役人さまが膝をついて拝礼したからだ。
当然、黄華に対してではない。黄華の背後に向かって、だ。
「……え?」
ぞわ、と背中の方から言い知れない気配を感じた。
この感覚、背後に誰か立っているらしい。
(いつの間に……)
黄華は恐る恐る肩越しを覗く。
目に入ってきたのは、地味で墨色の深衣。
(役人さまの……さらに上役?)
逆光で視にくい。でも、覆面で口元を隠した男だ。
整った目元と柳の様な眉。
その目は、妙なすごみを湛え、何かが蠢いて見える。
役人さまが育ちの良い馬なら、この黒衣の男は烏だろう。
とても、食材には成りえない毒々しさ。
どちらかと言えば……
(『捕食』する側の人間)
膝をついた役人さま覆面との密談を終え、周囲へ呼びかける。
「上流に住んでいて、小船を持っている者を知らないか?」
背の曲がった、骨の目立つ老人。
籠いっぱいに野菜を詰めた、まんるりとした姐さん。
そんな野次馬がざわつき、互いに顔を見合わせている。
この大河の畔だ。釣りや漁をする者はたくさんいるだろう。
もちろん、河に出るための船を持つ者も、恐らくは。
おずおずと、ひとりの青年が手を挙げて役人さまに告げる。
「お役人さま、ここいらの者は大体の奴が船を使います」
「そうなのか?」
「えぇ。そこの道を入れば、船置き場もあります。誰でも好きに使えますよ」
お役人は顎に手をやって思案しながら、船置き場を眺める。
たしかに、船がいくつも並んでいた。
黄華はもう一度、引き揚げられた小船を見る。
どこにでもあるような小船。ありふれた筵。
船置き場にも似たものはあるし、特徴らしいものはない。
(そういや、絵を描いていた時も、船釣りをする者がいたっけ)
そこで黄華は気が付いた。
普通なら『ありえない』出来事が起こっている事実に。
(なるほど。食材に目を惹かれただけじゃなかったか)
小船の端に打ち上げられていた鯔。
あれが気になったのは、自然の恵みに見惚れただけじゃない。
無意識の違和感。
気づいてしまえば、正体は造作もない。
(でも、どうしようかね)
本当なら、目立たないことが正解だ。
黄華は逃亡の身。もし、この地にいることがばれてしまい、故郷に連れ戻されてしまったら。
見知らぬ男を婿に取り、籠の鳥のように不自由。
そして馬車馬のように働かされるだけの日々。
そんな生活が待っている。それだけは、御免だった。
(それでも、私は……)
新しい生活の中で知った、都と田舎の違い。
そして、想像以上に深く刻まれている自分の習性。
このままでは、この土地の住人にもなれないし、絵描きを目指すこともできない。ただずっと、逃げ隠れるだけ。
(なにより……)
同世代の娘が『口減らされる』そんな現実に直面しても、魚へ目が移ってしまったその事実を、拭いたかった。
(しゃーない) 覚悟を決めて黄華は立ち上がる。
「お、おい黄華ちゃん……何を……」
おっちゃんが呼び止めるのを無視して、黄華は進む。
後悔するかもしれない。
それでも、食材に誘惑された贖罪は、しなければいけない。