1.黄華
『さっさと婿を取って、その者に後を継がせろ!』
突きつけられた言葉は、黄華にとっては逃げ出すに十分だった。
受け入れれば、どうなるか。
籠の中に閉じ込められた鳥のように自由はなくなる。
そして、馬車馬のように鞭打たれ働き続けることだろう。
(料亭の跡取りなんて、やなこったね)
やっていられるか、と逃亡したのはもう三か月ほど前。
荷馬車の往来激しい故郷の都から、南の国境を越え約1500里。
これだけ離れれば、さすがに追手も易々と見つけられまい。
そうして辿り着いたのが、この地方都市だった。
視界に入るのは、大陸を横断する大河。
対岸は遠く、陽炎がうっすらと、往来激しい橋を揺らしていた。
(私が婿取りなんて、この大河を堰き止めるような話ですよ)
なぜかと言われれば理由は両手の指では収まらない。
大きな物をいくつか挙げれば、まずは容姿だ。
髪はただ伸ばしてひっつめただけだし、香りを嗅ぐのに邪魔だからと化粧をすることもない。くわえて、成人済みとは思えないほどの細くて平坦な体つき。
顔の部品自体は適度に置かれているかもしれない。
ただ、それだって誰かの目を惹くようなものではない。
平々凡々で特徴なんて見つからない。
ない。ない。ない。
選ぶ理由が見つからない。
歌いだしたくなりそうなくらい、理由が思いつかなかった。
つまり、『見た目で婿入りを希望する殿方はいない』のだ。
しかし、だ。
見た目が悪くても、味わいが良いものはいくらでもある。
鰈、平目、鮟鱇なんて、その筆頭だろう。
では、黄華は。
きっと他人に聞けばこう返されるに決まっている。
『世間知らず』、『食材狂い』、それから『鉄血の料理番』
つまり、なまじ裕福に育って世間知らずだし、飯以外に興味もない。厳しい修行を受けたせいで、鍋、板、麺と全てをこなせるけれど、それゆえに半端な職人が嫌い。
無理やり連れて来られた料理人の婿候補を、一体どれだけ職人として再起不能に、もとい泣かせてきたことだろうか。
それでも婿候補が枯れないのは、黄華の家が持つ『金』とそれを生む『料理の秘伝』がためだ。黄華以外の子は流行り病で世を去ったこともあって、この秘伝は、他に受け継いだ者がいない。
申し訳なさもあるが、『婿養子さえ取れれば用済み』とばかりに働かされれば、愛着ある同僚や故郷や全てを捨ててでも、別の道を選びたくもなる。
(だから、今度ばかりは料理から足を洗って、絵描きとして新しい人生を歩いてやるってわけですよ)
そんなわけで黄華は、ようやく出来た馴染みの露店脇に腰掛け、切り立った山々と上流に浮かぶ釣舟を紙に収めようと、ご機嫌に墨筆を走らせていた。
「黄華ちゃん。長居すんのは構わんが、汚さないでくれよな?」
降ってきた声に、黄華は露店のおっちゃんを見上げる。
日傘の淵から零れる夏の陽が眩しい。
猫より目を細くして、軽く返す。
「この通り、気を付けていますよ」
黄華が着ているのは綿麻製で空色の衣と裳だ。
加えて、墨が跳ねても良いように、上から男物の道袍を羽織っている。
たまたま露店で安く見つけた濃紺の物だったが、小柄な黄華にとって、絵を描くときにはちょうどいい台座兼作業着だった。
もちろん暑さは堪えるものの、汚れを気にしなくていいので助かっている。
「で、どうだい、絵は描けたのかい?」
「次の戦争が起こる頃には、ですかねえ」
「ははっ。じゃあ、あと千年は無理じゃねえか」
進まない筆へのため息を、おっちゃんが笑い飛ばす。
戦もなく平和な国だ。そりゃあ、冗句にしか聞こえないだろう。
涼しい風がひっつめただけの黄華の髪を揺らした。
風の先に並ぶ木々から視線を剥がし、黄華は茶を啜る。
(この辺は、地味もいい)
紙にくるんだお手製の包子を脇に置く。
大河の支流には水車小屋がいくつもあって、売られる小麦の質も良い。
『豪華さはないが、自然と人が調和している』
どこか懐かしいような、不思議と居心地の良い街だった。
「平和ですねえ」
「もっと客が来てくれねえと困んだけどな」
おっちゃんと軽口を叩き、夢中で毛筆を動かしていたのは、一時くらいだろうか。
木々の影が少し伸び、屋台のおっちゃんが暇そうに欠伸をしていた頃に起こったのは、黄華にとって忘れられない『事件』の始まりだった。
地名、役職などは意図して付けている物もありますが、
大体は雰囲気としてお楽しみいただけると幸いです。