二
二
遠き高台から、歓喜の声が生まれた時、セージュは朦朧としていた。毒が回ったのか、いや、見たものが悪すぎたのだと、セージュは一人口を押さえている。
浮浪者にまで抱擁を交わすほど浮かれている戦士団に連れられ、反抗も侭ならぬ雰囲気に気圧されたセージュは、河から神殿へと続く街道を上っていた。
「ごめん、もう歩けないや」
「ん? どうした?」
ウォールは、蹲ったセージュの肩を、心配そうに叩いている。
「さっきね、黒い水、飲んじゃったから」
上手く笑えただろうか。恐らく胃壁から溶け出しているはずだ。たまに出るげっぷは、自分の血の味がする。
「水を? 大変だ、お前、腐れるぞ!」
慌てたウォールは、セージュを肩に担ぎ走り出した。
「ああああ! 駄目! そっと運んでって!」
ムカつきは、頂点まで達していた。乾いた身体に水を補給できたのはいいが、黒蛇のお陰で穢れた水が、余計に浸透してしまっている。
「すまん。まだ大丈夫か? 神殿の中まで行けば、毒素を払える神官がいる。暫くの辛抱だぞ」
「……ほんと? だったらゆっくりでいいから、優しく運んでくれる?」
「どうやら、少量しか口に入っていないらしいな」
セージュを下ろして、しゃがみ、背を向けたウォールは、幾分ほっとしていた。
今は、説明をするのが億劫だ。セージュは無言で、背に身を預けた。
エジプトの民が、避難していた神殿や王宮から、喚起の声を上げて戦士の一団と王を出迎えた。
人の波を掻き分けて移動する戦士団は、都市の中央に聳える巨大な王宮に向かっている。 人々が殺到するほぼ中心で、セージュはウォールの背におぶられていた。
歓声と、歓喜。浮かれた人々は何を思うか。ただ守られているだけの民でも、国を支える大切な者だ。
ゆっくりと、しかし確実に近付いてくる王宮の、入口の両脇にある太陽神の巨大な石像が、人々を見下ろしている。
先代王の石像は、膝を揃えて真っ直ぐと正面を見ていた。
白い柱は、人が十人で抱えなければならないほど太く、また高かった。
砂漠地帯の風は十分な熱気を孕んでいて、神殿内も暑いのだが、湿度が低く日陰の多い王宮内では割と心地いい。
レリーフや彫刻で飾られた神殿内にセージュが運ばれたのは、黒蛇が消えて一経過した頃だった。
「しっかりしろ」
励ますウォールの背中に負ぶさっているセージュは、朦朧としながらエジプトの民や神官を見ている。皆同じに見えるのだが、種族が違うので仕方が無い。
口にしないようにと気を配っていた。
「不覚だったよ」
笑いたいところだったが、力が篭らないので諦めた。
ウォールの背中は、香油だろう清々しい香りがする。お陰でだいぶ気分が良くなったのだが、亜人間の御業を目の当たりにした事を後悔していた。
「……うっぷ」
「吐くなよ? 我の大切な鎧だぞ」
「了解」
手で口を押さえ、嗚咽を堪える。片腕でウォールの首を強く抱え、セージュは黒く長い髪に顔を埋めた。髪は少し太陽の香りがする。
「女。我らのため尽力を尽くしてくれた事、心から礼を言うぞ」
ナルメルは深く感謝し、王の間に来るよう言い残し、出迎えた神官達と別室へと向かった。
高貴な身分であることは一目瞭然。
未だ警戒心を持つウォール以外の戦士達の顔をちらと見る。
「ありがと」
不覚にも、直視していた光景が酷すぎた。生理的に無理だし、思い出したくもないのだ。「長年生きてきたけど」と、セージュは胸中で呟き、続きを口に出した。
「あんな酷いの、もう見たくないや……」
「あれが駄目だったか。女らしいところもあるようだな。それより、先ほどの鳥人間のことだが」
「また後でね」
毒素を含んだ水で未だむかつきが収まらない腹に手を当てて、目を瞑る。褐色の戦士は、一体自分をどんな女だと思っているのか。ちょっと気になるが、今は話すらしたくない。セージュは、ウォールの髪に顔を埋めた。
砂丘の頂上は、砂の波が立っていた。風に煽られ、表面は絶えず変化している。長い影を落とす人影が一つ。細い、糸のようなナイルの流れの対岸にある、白い石の街を静かに見ていた。
横には、砂漠には似つかない生き物が一匹。厚い毛皮の持ち主は、荒い息を吐き続けている。
『おい、色男。今どうなってるんだよ、なあ?』
耳を伏せ、人影の下に潜り込んだ狼は、見上げ、男の顔を見詰めていた。
顔を形成する部位の、一つ一つが麗しい。炎天下の下、太陽でさえも幾分顔を赤らめ、気温がさらに上昇しているのだと、狼が頭を上げた。
美を担う者は、黒が良く似合う。男は、黒いコートを羽織っていた。直射日光で表面は熱く、さらに熱を吸収している。コートの中はより一層熱を持っているのではないだろうか。しかし、銀髪が流れる額には、汗一つ浮かんでいない。
日中砂に潜るトカゲは、死の危険を顧みず、男を眺めたかったのだろう、日向にでて、目を細めたまま、今では男の足元で、干からびて固まっていた。
美を、万人に美と感じさせるには、守らなくてはならない絶対的な法則がある。黄金率を頑なに守っている全てが、個々を引き立て合い、相乗効果を伴い、何者にも勝る美を奏で、初めて、形成上美と呼べる資質を備えることができるのだ。ほんの僅かな狂いさえあれば、美しくはならないのだから、美は心を打つ。
完璧。いったいどうやれば、これほどの形成物を造り上げる事ができるだろうか。昔から、天才は常に時代を賑わせているのだが、いかな芸術家でさえも造り上げるのは不可能と思われる美を、男は持っている。
じっと立ち、熱気の向うに霞む白い街を、男は見ていた。
『おい、スヴァルト。お前、気にし過ぎだってばな』
「煩い。黙ってろ」
『お〜怖っ。まあ、いいけどよ。拳握りすぎだぜ、お前』
「煩い」
砂丘に砂が舞った。風が一際強く吹いたようだ。
スヴァルトは以降何も言わず、じっと炎天下で立ち尽くしていた。
ウォールは、王の間でセージュを下ろすと、大国一の神官を呼びに、そそくさと退室して行った。
王座に座すナルメルの前に座っているセージュは、胡坐を掻き膝に両肘を預けて、深く項垂れている。
「ねえ。ちょっとさ。悪いんだけど、槍どけてよ」
黄金の王冠を被るナルメルは、彫像のように座っている。もしか、決められた座り方でもあるのかもしれない。
邪魔な槍先から覗いていると、ナルメルは澄ました顔で、厳かに話し出した。
「我が父、偉大なる蠍王の……」と、先代の王の出生から始まり、現在の自分がどのようにして今の立場になったかを語っているが、セージュには興味が無い。
耳も傾けずに、槍の刃を見詰めていた。
「女。何故お前は偉大なる神の生まれ変わりである私に近付いたのだ?」
適当に相槌を打っていたセージュは、身の上話が済んでいた事も、質問の意図するところも解らないので、答えようがなかった。
「あー、なんか誤解してそうだね」
高い天井を見て暫く考えた結果、一人納得した。
王は、自分の身と国を案じているだけなのだ。
何気に、王族の間では暗殺や陰謀が渦巻くものだし、誤解しようがなんだろうが、どうでもいいのだが。
「誤解、とは?」
ナルメルは、身を乗り出している。
王からすれば、見たこともない女が不思議な術を使って黒蛇を打ち倒す手助けをしたこと自体脅威なのだし、まあ良しとしようと思っている。
ただどうしても、経験上この後不毛な争いになるパターンが多いので、それだけは嫌で仕方がない。
無益どころか負益な戦いをさせることなど、相手に申し訳なさ過ぎる。
「あんたが誰かなんて、どうでもいいってことだってば」
知らない間に両脇に立ち並んでいた人の列は、無礼な台詞が気に入らなかったのか非難の声を上げ出して、セージュは辟易していた。
「お待たせしました! 怪我人はどこですの?」
ベストタイミングと、セージュはほく笑んだ。澄んだ少女の声が王の間に響き渡り、ざわめきを止めてくれたからだ。
「ああ、あなたですね!」
きょろきょろと見回していた少女は、セージュを見つけると可愛らしい作りをした顔に微笑を湛えて走り寄ってきた。
セージュは、ウォールが連れてきた白いローブが近付いてきたことに気付くと、少女の褐色の顔を見上げた。瞳の色と同じ、大きめの青金石の付いた銀のサークレットが光っている。
金髪の髪は肩で切り揃えられていて、直毛はさらり揺れていた。手には黄金の杖を握っている。先には丸い青金石の珠を抱える鳶の彫刻があり、嘴の先が光を放っていた。
「ええと、こんにちは」
若い、というよりも幼いといったところだろうか。胸の膨らみもない少女は、深々と頭を下げてからセージュの前に正座した。
「こんにちは! あなたの事は、嵐の神に聞いていますわ、セージュ様。王を守って頂き、心から感謝致しますわ」
「ちょっとたんま。神ってのは、あの時にいた亜人間だよね? なんで神様と呼ぶの?」
「亜人間? さあ、心当たりはありませんし、神は神ですわ! 私がお呼びすると、いつもすぐ来てくれるのです」
「は? あんた普通の人間、だよね?」
「ええ、私は人間ですわ」
「それで、どうして?」
「さあ。物心ついた時からお呼びしていましたし、声が聞こえるのですわ」
「へ、へえー」
話している内に頭痛がして、前かがみになって頭を押さえた。荒唐無稽なんだもの。少女の話はどんなに記憶を探っても例が無い。
少し常識的に考えてみよう。仮に、嵐の神とやらが亜人間ではなく、本当に神としよう。神と呼ばれるものは、肉体があるものとないものがいる。召喚ならば、精神体のものをお呼びするわけだが、どちらにせよ上級の存在だ。召喚したのなら、それなりの熟練と魔力、寄代が必要になる。少女の魔力は確かに強いのだが、それでも足りない。
それに、寄代はどう調達するのだろうか。しかも初召喚が物心付いた頃とは、幼子がだろう。いくらなんでも、簡単にできるはずは無い。
それにもう一つ。どうも少女は、色仕掛けをすることができ……るわけがない。
惑わしたり騙したりしないのならば、人々が亜人間を神とは認めないだろう。化け物とは口を揃えて言うだろうが。
だとすれば、少女は操られているんじゃなかろうか。となれば、少女に本気で思わせた何者かがいるはずだ。
「うっそだぁ。あんた騙されてない?」
ややあって、シルビイの顔に疑問を投げ掛けた時だった。
「不礼な女め。この神官は我が国の誇る神官にして神の愛娘、シルビイであるぞ!」
横目でシルビイを見ていたセージュに業を煮やし、とうとうナルメルは激怒して、玉座から立ち上がったのだ。
室内の両脇に立っている人々は慄き、その場に跪いて額を床に擦り付けている。
王は、顔を赤くしていた。ほんのりとこめかみに筋が浮かんでいるところを見ると、どうやら本気のようだ。
セージュが異論を唱えようと口を開きかけた時、突然シルビイが手を打って、ぺこり頭を下げた。
「な、どうしたのだ?」と、王は瞬時に固まった。
「申し訳ありませんわ王様、私忘れていました。始めましてセージュ様。私は太陽神殿に遣える巫女、シルビイですわ! 以後お見知りおきを」
「……いや、シルビイそれは……」
ナルメルは、神官のあまりのあどけなさに怒りを忘れ、中腰のまま戸惑っている。
人影から様子を見ていたウォールが、肩を震わせて笑いを堪えていたが、セージュは素直に腹を抱えて笑った。
しこたま大目玉を食らったセージュの誤解は、じきに解けた。 夏国の大使から貰っていた翡翠の珠が功を相したのだ。
“唯一英”と掘られている翡翠珠。革でできた袋には、夏の印が焼き付けられていた。
「女、お前の身分は夏国にあるということだな?」
ナルメルは落着き払い、静かに翡翠珠を確認した。
「王よ、この者は黒髪。肌も黄色く背も低い。顔の作りも、我等と比べ、のっぺりとしています。夏国出身で間違いないでしょう。聞けば、夏国の者は面妖な術を使うとか。それでしたら先ほどの空を飛ぶ者も説明が付きましょうぞ」
髪を一本残らず剃っている年配の神官が、胸を張って報告している。
「のっぺりは余計だろうに」
いちいち神官が口を挟むのは気に入らないが、セージュは他国を流れ続けている。
王と名の付く者には必ず神官が付き添い、意見を述べるのは慣わしに過ぎない。のっぺりとしているとは、大きなお世話だが。
「そんなとこかな。まあ話せば長くなるからあれだけど。一応やることもあるんだ」
「やること、とは?」
シルビイの癒しの魔力のお陰で、ムカつきが取れたセージュは、胡坐の上に頬杖を付いて、ナルメルを見詰めていた。
「邪神を鎮め、スヴァルトを滅ぼす。それが私の使命」
王宮はしんと静まり返った。
暑い砂漠の空気さえも凍りつく。
「スヴァルトだと?」
「そ。幾千の魔物の王であり創造主。倒すなど、人間には到底為し得ない所業と言われているの。元は白の妖精だったとか言われてるらしいけど、間違いだから。ただの長命の男だしね。まあ、奴はね、今もどこかにいるんだ」
北欧の妖、スヴァルトの噂は聞き及んでいるようだった。
三日で一国を滅ぼし、人々を恐怖に陥れたという、魔王として君臨したスヴァルトの力がいかほどか、ファラオを始め皆想像すら出来なかった。
ただただ驚愕するばかりだ。
「なんと……。女。お前が邪神や、あの悪名高いスヴァルトを倒すというのか?」
「そ。ちょっと色々あってね」
困惑している王を見守るセージュ。薄く笑うと、天井のレリーフを見上げた。
「ここの王様も、やっぱ理解できないっていうんだろうな」
人の集まりが国である。頂点に立つ者は、いつしか己の保身を考え、脅威と戦う気が失せる。セージュは、半ば諦めていた。
数多くの国を訪れたのだ。
旅を始めた頃に行った、北欧に位置する小さな国と、大陸の違う遊牧民族だけが全面的に信用してくれたが、それ以降は難色を示す対応しかお目に掛かれていない。
「うむ。その心意気、良し。では我が国はそなたを受け入れよう!」
手の平で膝を打ったナルメルは、目を輝かせて笑っている。
辺りを見回したセージュは、ナルメルとウォール、シルビイの三人だけが破顔しているのを確認した。
「いいの?」
「当然の事である。我が国は肥沃で、神の恩恵に溢れている。我が国以上の大国なぞ、この世にはないであろう。そなたは一人、勇敢にも悪の権化を倒すべく旅をしているのだ。私が助けず、誰が助けようか」
ナルメルは喜びを隠せない。
わなわなと武者震いしていたが、神官達や戦士団は渋い顔をしていた。
「ちょっと待って。一応神官と良く話をした方が……」
勇気のある王は、得てして早死にし易い。
協力を受け入れてくれるのは有難いが、暗殺されたら元も子もない。
黒蛇を倒したのはセージュでなくこの地の神とされる亜人間だ。
破天荒な話を可能と裏付けられる実力を、まだ示せていない事はかなり重大なミスに近い。このままでは、大国の中で分裂が始まり、新たな、人による脅威が生まれかねないのだ。
セージュが考えを廻らせている間、神官達は早くも王の耳元で、進言を囁いていた。
結論が保留され、暫く滞在することになったセージュは、一人、夜の庭を散歩していた。
滞在といっても軟禁だ。王宮の限られた場所しか行けない。
「ああ、いつまで足止めされるんだろ」
黒い気配があったのだが、スヴァルトのものでは無かった。魔王が気配を悟らせる事はほとんどない。
ただ、近くにはいるはずだ。セージュは辺りを眺め、噴水の縁に腰掛けた。
花園にはナイルの水を引き入れている噴水があった。透明な清水が勢い良く出てくる壷を、名も知らぬ女神の像が小脇に抱えている。彩色は施されていないが、白一色の像は鮮やかに白々としていた。
三日月が空に浮いている。雲一つない夜空を照らし、小さな星を曇らせているが、白色の宝 石が空一杯に広がっていた。
「変わらないのは、空と人の性質だ」
セージュは呟いていた。真っ直ぐに空を見詰める。
「人は、変わるべきなんだけどね」
暫く眺めた後、静かに噴水の中に手を差し入れた。聖なる流れ、ナイルの水は清らかで柔らかい。月明かりに光る水面を撫でると、波紋が生まれさざめく。セージュはじっと見詰め、何度も波紋を作っていた。水は河と違い、驚くほど冷たい。エジプトの浄水技術は、他国と比べると群を抜いて優れているようだ。
「セージュ、眠れないのか?」
聞き覚えのある声に顔を向けると、鎧を着けていないウォールが立っていた。肌色に近いローブを纏っている。膝上のローブからは、無骨な足が伸びていた。茶色い腰紐は、麻だろうか。肌の色と変わらない履物は、何も履いていないように感じる。
「あら、いつの間に」
気配がしなかったが、大した事ではない。熟練の戦士ならば当然だ。
髪は後ろで束ねていた。波打つ黒髪に、白い筋が見える。月の灯かりが、ウォールの髪を撫でているのだ。きっとモテるだろう。男らしい顔立ちの中、他のエジプト人にはない、不思議な品位がある。
セージュが、エジプトの王を当てろと言われたら、ナルメルではなく目の前にいるウォールを選ぶだろう。王たる者は、やはり屈強な戦士である必要がある。上に立つ者は、知、力、人望を持たないと長くは続かない。ウォールは全て兼ね備えているようだった。
「さっきから見ていた」
目を伏せると、睫毛は少し長めだった。
エジプト人は、薄着である。庶民は裸で、腰に長い布を巻いているだけの質素な服を着ていた。女性は、加えて胸を隠している。王宮の婦人や侍女は白の上質な布、恐らく蚕が出す絹を着けているのだろうが、庶民は麻だ。女性は、若い娘ならば庶民でも綺麗な顔立ちをしているし、ウォールが望めば若い華のある女が手に入るだろう。
何を間違えて、夜中に一人でいるのだろう。セージュは彫りの深い目の周りと、剥き出しの腕の筋肉の流線を見ていた。たまに、熱い胸板が覗く。艶のある肌は、きっと日向の匂いがするだろう。
「ま、ウォールは、暇人なんだね」
セージュの横に、ウォールは腰掛けた。どうも人懐こい性格のようだ。子供じみた仕草がたまに浮かぶし、好感が持てる人物だった。隣に座られても、苦ではない。
「誰から使命を受けたんだ?」
落ち着いた声が、耳の横で聞こえた。顔を向けると、見上げる位置に頭がある。
ウォールの声は、良く通る。
「ん? 神様」と、空に視線を上げて答えた。
「ほう、神の使命を受けているのか。それは凄い」
馬鹿正直か、本気で感嘆している。きっと、人は嘘を吐く生き物だという事すら知らないのだ。呆れ、欠伸を一つすると、セージュは俯いた。
「凄くない。有難迷惑」
「何故だ? もし我なら喚起するが」
「なんで?」
顔を向けると、ウォールは暫し考え、顎に手を当てて思案しながら話し始めた。
「神は、人を信じた時に使命を託すからだ。お前の神がどこの神か解らないが、神というものは信仰を持たぬ者に信託を授ける事はしない。つまりお前は信仰に厚く、善人で、神に認められたという事だろう。だから喜びとなるんじゃないか?」
実直な性格なのだろう。真っ直ぐに生きて来たのだろう。ウォールの言葉には迷いがない。セージュは感心しながらも、答えようか迷ったが、意を決し、「呪いだよ」と呟いた。
「そんな馬鹿な」
渋い顔をしている。きっと理解できないのだろう。
「本当。昔、神の食物を口にしてから私は、若さを得た。永遠の若さだよ。迷惑な話だって」
「不老? 恩恵じゃないのか?」
「まあね。その代わり、罰を受けた。私に不老の実を食べさせた者に死を与えなくてはならなくなったんだ」
セージュは、ぼそり打ち明けていた。話を信じるかどうかは相手任せだ。突拍子もない出来事を人に説明しても、本気で捕らえる者は、皆無と言っていいことを知っている。
案の定ウォールも、おやという風に考え込んで、「待て。その話は子供の頃に聞いたぞ。異国の御伽噺だ。セージュ、我をからかったな?」と、悪戯に引っかっかった顔をした。
胸のすく笑顔だ。セージュは好感を込めて、笑顔を向けた。
「ふふっ、そうかもね」
「食えない女だな」
「ありがと」
心が惹かれるものを、ウォールは持っている。純粋であり、強い、優しい男だ。しかも好奇心が旺盛なのだろう。噴水に並んで越し掛け、暫し話した。他愛もない雑談だ。他国の話をしてみたら、ウォールは喜んで聞いていた。冗談を言えば笑い、悲しい出来事を話すと涙を堪える。
「ウォールは素直だね」
セージュは満足だった。作り笑いも、偽の憤慨も見せず、真っ直ぐに話を受け取る男と話すのは、久方振りだった。誰以来か考えると、頭に“樽”が浮かんだ。きっとウォールと“樽”は親しくなるに違いない。
「セージュ。神官達は恐らく、一度腕試しをさせる方向に向かうと思う」
不意に、会話が途切れ、ウォールは深く息を吐いた。項垂れる事も無く、真っ直ぐと前を睨み付けている。
「まさか、それを伝えに来たの?」
「そんなところだ。我はお前が気に入ったからな」
「はっはん、惚れるなよ?」
冗談で言ったのだが、ウォールは俯いて気恥ずかしそうにしている。「分からん」と呟いてはにかむ姿は、妙に男臭かった。
「で、腕試しは何を?」
「もしかしたらだが、怪物退治に行かせるつもりかも知れない」
気を取り直したウォールは、真剣な面持ちになっている。怪物なぞ、どうってことないが、 目の前にいる褐色の戦士が見せる表情を垣間見る限り、厄介な敵のようだ。
「どんなやつ?」
「月の竜に匹敵するものだ」
「ふうん」
「怖くはないのか?」
「べっつにー。だいじょぶ」
「……そうか。邪魔をしたな」
心配が、瞳の色に出ていた。ウォールの鳶色の瞳が不安に揺れている。さもない風に話していたから、ある程度は安心したようだ。セージュは口元に微笑をうかべ、立ち上がり片手を上げると、颯爽と立ち去ってゆく後ろ姿を見送っていた。
「面倒になりそう」
一人月光の下、花の咲き乱れる庭に残されたセージュは、深い溜息を吐き出していた。花々が、妖しく揺れている。風が止まり、近くの茂みで虫が泣き出した。
大きな蓮が、水面に浮かんでいる。桃色の大輪が咲き、黄色い花弁を覗かせていた。王宮の 庭は、年中花が耐えないらしい。これはこれで、贅沢である。
地面の上、草陰から飛び出した虫がいる。目を凝らして見ると、緑色のバッタのようだ。丸い目でじっとセージュを見ているが、本当に姿を写しているかどうかは、興味がない。
セージュは、一歩足を踏み出して、バッタを踏んだ。
「なんだ、こいつは」
額に汗が滲む。不快感。鼻を突く硫黄の臭いが感覚を増幅させる。視線と、息使いをすぐそばに感じる。虫の身体から、思念が抜けて通り過ぎた。
「蟲使いでもいるのかな?」
気を配るが、存在がどこにあるか解らない。通っていった軸道すら掴めず、セージュは辺りを見回した。
「もしかしたら、とんでもないところに来ちゃったかもしれないなあ」
呟きと共に、風が舞い戻ってきた。ナイルから吹く風は、肌を撫でて悪感を拭い去ってくれる。セージュは、月を見上げた。
遠く。この星からは手すら届かない虚空の向うに浮かぶ月。月の神は、意思と共に光を届ける。それは、月より遥か遠くに浮かぶ命の源である太陽の意思を反映しているのだ。
下弦の月は、いずれ訪れる未来に不凶があると告げていた。
庭を抜け、建物の内部に入っていたウォールは、松明が灯る廊下を真っ直ぐと進んでいた。幾重にも交差した王宮内を、足音を響かせながら歩いている。
たまに見回りの兵隊が槍を片手に、真面目腐って頭を下げた。緊張感を持って見回りをする若い兵士達は、皆信念を持ち、王の為に尽くす覚悟がある。
笑顔で「お疲れ様」と伝えると、どの兵士もほっとした表情を浮かべて、ウォールの後姿を、憧れの眼差しで見送ってくれるのだ。
窓のある通路に出て、右に曲がる。先は月明かりと松明の明かりで良く見えた。奥に、二人の兵士が立っている。先に続く階段の入口があり、通行を制限している。
会釈をしたウォールを見、兵士達は跪いた。盾を持ち、反った片手剣を手に握り締めている兵士は、十代の若者だ。
若兵が夜番をするのは、慣わしである。熟練の戦士は、戦に備えて日々訓練している。いざという時のために、常に待機しているのだ。
王の寝室に足を運んだウォールは、入口の警備兵に二言話をして、中へと入っていった。
石造りの、豪華絢爛な室内は黄金で彩られている。いくら弟とは言え、丸腰でないと入れない王専用の寝室だ。ナルメルには妃がいるが、妃と共に寝る時には、離れにある別棟の寝室を利用していた。
ここは、王がただ一人の人間に戻れる、たった一つの場所である。
「おお、ウォール。どうしたのだ?」
金の椅子に深く座っていたナルメルは、弟の姿に気付くと笑顔で出迎えた。
「兄上。セージュのことだが」
ウォールは、ナルメルと抱擁を交わし、机の上にある金製の杯に水を注いだ。
手に取り一気に飲み干す。心持ち心痛な面持ちでウォールを見るナルメルは「すまない」と囁いていた。
「気にしないでくれ、兄上。これも配下の仕事だ」
ウォールは、自分が使った杯に再び水を注ぎ、ナルメルに差し出した。
「あの女を、奴の退治に出向かせる事になったのだ」
冷たい水を美味そうに飲む兄の姿を見、ウォールは微笑んだ。
「兄上の変わりにか?」
「いや、私も出向くのだ。もし天命ならば私も女も死なずに済むと、神官は言っておったわ」
上エジプトと下エジプトの派閥は、裏で静かに争っていた。王になってから五年も経ったのだが、未だ衰えることが無い。王の権威が及ばないなぞ恥ずべき事態だとナルメルは言う。
義理兄はまだ若い。それゆえに不甲斐なさを強く感じてしまうのだ。
「我は行けるか?」
ウォールは、ナルメルの横に座ると、そっと背中を叩いた。
「入口までな。中には私とあの女で入るのだ」
「くそっ! 神官共め、卑怯な」
歯軋りして、寝台の柱を殴ると、ベッド全体が揺れた。ナルメルは余りの馬鹿力に苦笑している。
「元はお前の味方ではないか」
確かにそうなのだが、言わない約束ではなかったか。ウォールは呆れて義理兄を突っ突いた。
「言うな兄上。我は王位なんか望んでないんだ」
「そうだったな。偉大なる蠍王の直子ではないと、あの時お前は派手に拒否していた。思い出すよ」
ウォールは、下エジプトの王族の生き残り。ナルメルの父、蠍王がウォールの母を妾にし、ウォール自身を養子にしたのだ。統合して十年。ウォールはナルメルの弟として共に過ごしてきた。
優しい義理兄。ウォールよりも小柄な義理兄は、正義感も強い。民をないがしろにせず、優しさと切れる頭を持っている。武芸では勝るが、自身よりも王としての器はでかいと、ウォールは知っている。
「我が拒否しても、下エジプト出の神官は諦めない。だから我が毒見を進んで受けたのだ」
こうすれば毒殺だけは免れよう。機転のお陰か、まだウォールは毒を口にした事が無い。
「弟よ。私もいつか、先王のように暗殺されるのだろうか」
「気にするな、兄上。我がいる限りそうはさせないさ」
心底の想いだ。ウォールは命に代えても義理兄ナルメルを守るつもりだった。
今、ナルメルは肩を落として落ち込んでいる。
何千何万という人の命を預かる王は、どれほどの重圧を背負わなければならないのか。
義理兄の気持ちを考えると、ウォールは胸が苦しかった。
「で、どうするんだ?」
ナルメルを見守る。寂しそうに微笑む義理兄は、小声で弱々しく何か呟いたが、小さすぎて 聞こえない。首を傾げたウォールに、ナルメルは気を取り直して深く息を吐いた。
「あの女、腕は確かだった。行くしかないであろうな」
覚悟。溢れるのは自信ではなく、悲しみだった。
「道中我が護衛しよう。いいな兄上」
「うむ、頼む。シルビイが同伴を申し出ているのだが、どう対処すればよいかな?」
「まだ子供だぞ」
「うむ、そうなのだが。絶対に行くと言って聞かないのだよ。神官長も意を唱えたのだが、神の信託だといってな。頑として聞かないのだ」
「仕方ない。お守りばかりだが、引き受けるか」
「うむ、頼むぞウォール」
義理兄ばかりでなく、シルビイまでとは。子供の頃から神殿の奥で大事に育てられた小さな 大神官は、世間知らずである。
神に深く愛されているシルビイが行きたいと言えば、拒否する事は背信行為だと神官達に批判を受けるし、煽られるのが目に見えて解る。
安心して笑うナルメルを見、ウォールは先行きに不安を抱いて、床に着いた片足を、悪戯に踏み鳴らしていた。