プロローグ
グロテスクなシーンや暴力的表現、際どい性描写が含まれる時があります。苦手な方はご注意ください。
一
炎は、目の覚める鮮やかな色をしていた。
暗雲に覆い尽くされた大地。佇む白い城壁。纏わり付く炎は、白い岩肌を舐めながら上部へと登っている。絡みつく炎が最上階の窓に舌を這わしていると、中から黒髪の女が顔を出した。炎に照らされた顔は、橙色に染まっている。下を見た女は、魔物が身体を横たえている中立ち尽くす三人を見詰めていた。
「ブロック……」
茶色い髭を蓄えた、樽型の身体を揺らす男、ブロックを見、女は窓の縁を撫でた。熱く焼け始めた石。熱を感じた女は、じっと階下を見詰めている。炎はまだ、最上階には達していない。だが退路は無く、死を覚悟して女は笑った。
「セージュ」
振り向いたセージュは、愛しい男の姿を闇の中に見た。凛とした、懐かしい声が聞こえる。
「スヴァルト……もう終わりにしようよ」
笑う。悲しい運命を笑う。
愛し合いたかっただけの二人が、死ではなく神に引き離されたことを、笑う。
「いや、終わりはまだ先だ。今から始まるに過ぎない」
スヴァルトは、階段を上ってきた炎に照らされて、姿を晒した。声の主は、かつての美しさを留めたまま、変わり果てた姿を晒している。
白く滑らかだった肌は、今では黒ずんでいる。金色に輝いていた髪は、色が抜け白銀色になっている。緑色の、柔らかかった瞳は、金色に輝き殺気を放っている。
しかし。男の美だけは曇っていない。色彩だけが変わった男は、歪んだ笑いを浮かべている。それでも。
それでも醜く見えないのは、類稀なる完璧な外形を保持しているからだ。
均整の取れた見事な長身は、滑るように床を歩いてくる。足音はしない。肉体がないもののように、静かに動くのだ。
室内は、火の弾ける音しかしなかった。
「もう終わりだよ。これで、全てが終わる」
セージュは、目に焼き付けようとじっと見詰めた。見納めだ。この顔を見ることは、今日を最後に二度とない。腰に下げた剣を抜き、セージュは身構えた。
「やめろ。そんなもの俺には効かない」
「知ってるよ」
決めている。どうするかは、もう決めているのだ。
だが身体が動かない。もっと傍にいたいと駄々を捏ねるのだ。温もりを求めて、手を伸ばしたくなる。今にも抱きつき、頬に口づけをしたくなる。
「愛しているんだ、きっと、まだ」
セージュの頬に、一筋の涙が流れた。告白は己の弱さ。駆逐したいが、できない。
「俺も、お前を愛している」
近付いてくるのに、早く鳴る心臓以外動かない。瞬きも、できない。抵抗を拒むのは、身体か、それとも心か。剣を、愛する者の胸に突き立てなければ、使命が果たせないというのに。
後悔が広がる。深い、罪悪感が広がっていく。
黒煙が視界を遮り、煙に咳き込んだセージュは、一瞬スヴァルトを見失った。
不意に手首を掴まれ、セージュは身を引いたが、強い力に抗う事もできず、抱き寄せられた。
かつて二人で愛を囁きあった。共にいたいという己の弱さのために、禁断の果実“不老の実”をセージュが食べてしまった日から、運命は大きく変化したのだ。禁忌を犯した二人に、神の罰が下った。スヴァルトの良心は抉られ、砕かれたのだ。
「悪いのは私だ。もしあのまま死を選んでいたら、今こうして殺し合いをしなければならない宿命を回避できたというのに。あのまま死んでいればっ!」
「言うな。安心しろ。……今からでも遅くはない」
すぐそばに立つスヴァルトに、きつく抱き締められた。温かい。鼓動が聞こえる。心地良い優しい腕の中、セージュはそっと顔を胸に押し当てた。柔らかい肌の下にある、硬く厚い胸。逞しく、ほんのりと薔薇の香りがする温かい胸。顔を押し付け、きつく目を閉じた。
「畜生め。殺すなんて簡単にできないよ」
「安心しろ。俺がお前を救う。守る。この先ずっとな」
労りの響き。優しく包む腕。セージュの首に唇を押し付け、頭を撫でるスヴァルト。変わらない。優しさと労りを感じるのだ。
「違う。嘘だスヴァルト。これは嘘だ」
良心をなくしたものが、愛を感じるものか。優しさや労りを持つものか。セージュは振り払いたかった。全てを終わらせたかった。スヴァルトの温もりが信じられなかった。
白銀色の髪が、擽り首筋を撫でる。首筋の感触が、心を擽っている。
中身が変わったスヴァルト。悪の権化と化している男。解っている。解ってはいるのだ。
倒さなくてはならない存在だと。
「嘘ではない。愛している。昔よりもずっと深く」
「う……嘘だー!」
思い切り突き飛ばし、瞳を見た。金色の瞳は冷たく光っている。
斬り掛かった。振り被り、何度もスヴァルトを斬る。涙が溢れてくる。最愛の男が堕ちたのは、慈悲の無い殺戮の咎。
元は白い肌だったのに、今では罪で黒く染まっている。痛々しい、黒い肌に口づけをしたかった。
緑の血が、床に流れた。緑玉色の染みは、温度の上がった石床の上、音を立てて蒸発してゆく。
「やりたければやれ。俺はお前を二度と傷つけないと決めたんだ」
背筋が凍る。生きながらにして喰われた記憶が蘇る。セージュは再び剣を払った。
「あの時、私も決めたんだ。あなたを滅ぼす!」
「そうか。だが俺は死なない。俺は、神を倒す。お前の為にだ」
「言うなってぇ!」
炎がすぐ下まで迫っている。セージュは何度も斬り付けたが、スヴァルトは倒れない。抵抗もせず、じっと立っているだけだ。
剣の刃は、衣服のみ切り裂くが、肌には傷一つ付ける事ができない。神に継ぐ力を誇る者を、剣ごときで滅ぼすことなどできない。内に秘める力を解放しなければ、太刀打ちなどできないのだ。
しかし、力を振るうことはできない。
「なんで……心は決まっていたのに。あなたを殺すって、決めたのに。できないよー!」
セージュは、剣を投げ捨てて崩れ落ちた。熱い床に座り込み、泣きじゃくっていた。どうすればいいのか。無抵抗なスヴァルトを殺すなど、できないのだ。
「もう、こうするしか」
セージュは薄く笑った。もう殺す事ができるのは、ただ一人だけ。
涙で霞む目で、スヴァルトを見詰める。
セージュは手刀で、自分の喉を切り裂いた。
「何をする!」
目を見開き、暫く立ち尽くしていたスヴァルトが、霞んだ視界の中慌てて駆け寄ってくる。セージュは見詰めた。じっと。ずっと。
「いいんだ。もう私は命を返すしか思いつかない。こうするしか、あなたを救う術がないんだ。だから。さようなら」
「ふ、ふざけるな! 死なせるか! お前だけは、絶対に死なせない。お前が死ぬなぞ、許さない。俺が守る。俺が生かす。俺が神を倒し、お前を救うんだセージュ!」
緑の瞳が、自分の黒髪を写している。深い、深緑の瞳。どうして変わったのか。セージュは知らない。
愛おしい、狂うほど愛しい人。かつては、緑溢れる森で共に過ごし、愛を囁いた。
セージュの視界が、煙に包まれて色を映さなくなった。スヴァルトの温もりが、遠のく意識を包んでいる。あの日。始めて抱きしめられた遠き昔の出会いを、セージュは思い出していた。
声が遠ざかる。ゆっくりと闇が降りる。視界の全てを闇が包み、そして、光が急速に近付いてきた。
「違うよスヴァルト。私が……あなたを救うんだ。命をあげるから、スヴァルトを……」
ああ。深い声は変わらない。身体の芯を暖める、深い声。目を閉じれば、蘇る金色の髪。戻したい。私は、この人を元に戻したい。薄れゆく意識の中、セージュは何度も神の名を呼び、祈った。
二
紀元前。歴史に残る文明よりも遥か北方で、悪鬼が生まれ人々を蹂躙していた。人を糧に生まれた魔物達が徒党を組み、人を狩り仲間を創り出す。そしてさらに多くの命を欲し、縦横無尽に暴れまわっていたのだ。
多くの人命が失われるきっかけとなった者がいる。
魔王、スヴァルト。その名を知らぬ古代人は一人もいなかった。人々は古来から闇を恐れ、水を恐れ、空を、地を恐れていた。そこへ忽然と現れた生物にして人外のもの、魔物。人から生まれ、人に仇なすものは、よりしろを得て同じ次元に召喚された、物質界とは次元の違う場所に住まう生命体である。
征服、従属、そして虐殺。絶望に追いやられ結束した人間は、戦いを挑み何度も敗れた。最後の望みは人を戦いへと導いた黒髪の女、セージュだけになった時、セージュは最終決戦へ挑んだのだ。
僅かな精鋭を引きつれ、配下の魔物共を血祭りにあげたセージュは、一人魔王の下へ。戦いの最中火が放たれ、炎に包まれた城の外、生き残った者は大将の安否を気遣い、遠巻きに炎を見詰めたまま、その場を離れようとしなかった。
最強を誇っていた、魔王スヴァルトの城が崩れてゆく。炎は空にまでかかり、黒い煙は暗雲に同化して消えてゆく。しかし喚起の声は上がらない。セージュが中から出て来ないのだから。
スヴァルトは崩れてゆく己の城と魔物の屍、人の残党を眺めていた。残っていたのはたった三名。途方に暮れて涙を流しているさまが見える。
「また造ればいい……」
呟きは、城に放たれたのか。それとも累々と横たわる死体なのか。黒き青年の顔には、翳がある。風にそよぐ髪には白い霜が付き、吐く息は僅かな日の光に輝くのだ。もしスヴァルトを見ている者がいれば、見とれて動けなくなり、そのまま凍りついてしまうだろう。魔王スヴァルトは、人の形としては最高の肉体を持っている。
城からはとうに脱出し、すでに遠く小高い丘の上に立っている。心なぞ痛まない。人が増えれば僅かに逃がした魔物から、いつでも新しい仲間を創り出せるのだから。俯いた先には、乙女をしっかと抱いていた。
腕に抱くセージュは、死に掛けている。
青い顔には死相が浮かんでいた。薄く、赤かった唇は紫に変色し、柔らかい胸が弱々しく上下している。烏羽玉色の黒い髪が自分の腕に纏わりつき、スヴァルトは苛立ちを隠せなかった。
セージュの首からはまだ鮮血が溢れている。一刻を争うが、スヴァルトは癒しの魔力を持っていない。愛する女の蒼褪めた顔。黒い短髪は首までしかなく、鼻筋が通る形の良い鼻梁を見る蒼褪めた顔は、輝くばかりの美貌を纏っている。
「馬鹿なことを! なぜ聞かないんだセージュ。俺がお前を救うと言った。神を倒し、奴らが与えた宿命を消し去るんだ。それなのになぜお前はっ!」
黒い瞳は、見ると吸い込まれるほど澄んでいて、いつも自分だけを見詰めてくれたのだ。朗らかで柔らかい笑顔が浮かび、消えていく。
「死なせるものか」
雪の上に跪くスヴァルトは、天を仰ぎ、天を睨んでいた。
命の灯火が消えかかっている。スヴァルトはそっと深雪の上にセージュを横たわすと、深呼吸して胸に手を当てた。
ずぶり自らの胸に手を突き入れる。
激痛が駆け上る。乱れる息を整え、脈打つ心の臓に触れた。鼓動と共に痛みが打っている。
「こんなもの、あの時の苦しみに比べたら微々たるものだ」
生温く、滑る肉が規則正しく動いている。指先で触れて、スヴァルトは低く笑った。
「俺は癒しの術を知らない。だが、俺の心の臓をお前に与えることはできる。神に継ぐ力を誇る俺の、最たる能力は再生だ。お前を死なせはしないぞセージュ。生きるんだ。俺が奴らを倒すまで、生きろー!」
スヴァルトは、肉片を引き千切った。溢れ出る血液が、辺りに飛び散る。セージュの赤い血の上に飛び、雪上に蔓薔薇を描いている。
悲鳴一つ上げず、また脂汗を拭う事もせず、スヴァルトは動き続ける肉片をセージュの口に当てた。
「さあ、喰えセージュ。これがお前に再生の力を与えるんだ、さあ」
気を失い口を空けることができない。スヴァルトは戸惑いもせず自分の口に肉片を含んだ。己の口を青い唇に当てる。舌を隙間に挿し込むと、閉じた口を開いた。蠢く肉片を口中へと押し込む。
口の奥にまで動かし、セージュの頭を傾けた。
顎を上げてから口を閉じさせる。血に塗れ、赤い切れ目を覗かせる白い喉が上下したことを確認すると、そっと唇を離した。柔らかい唇の味と感触が、口の中に余韻を残している。
離れたくない衝動に駆られた。このままセージュを抱き、手元から離したくはない。
だが。神が授けた宿命を覆さなくてはならないのだ。
ゆっくりと手を離し、柔らかい深雪の上に戻す。抱きしめたい。心の奥底から衝動が湧き出てくる。このまま二人で、逃げてしまいたい。人里から遠く離れ、神の目から逃げ続け、二人でひっそりと愛を語りたい。
「まだ駄目だ」
伸ばしかけた手をきつく握り締め、スヴァルトは耐えた。共にいれば、欲が生まれる。次第に膨らみ、徐々に悪化して、いずれはセージュと完全に一つになりたいと願うようになる。完全に一体化するには、永久に離れる事に繋がるのだ。即ち、死である。
「俺の欲望は、お前を食い尽くすだろう。それでも満足できるとは言い切れない。その後はどうなるか。考えただけでぞっとするんだ。お前への愛は、お前の血肉を、骨を、喰っても止まない。お前がいなくなった時には、俺の欲望と愛は形を変え、世界そのものを滅ぼすだろう。それでも、足りないかもしれない。俺の欲は、愛を遥かに凌駕する。だがセージュ。俺は世界がどうなろうが、知った事ではない。お前を失くすことが耐えられないだけなんだ……」
ざくり避けた喉の傷口が少しずつ塞がってゆくのを見、安堵の溜息を吐いた。
セージュの顔色が徐々に赤味を帯び始めている。呼吸も安定しているようで、上下する胸が規則正しく動いていた。赤みの差し始めた頬をそっと撫でる。
「これでいい。待っていろセージュ、俺が目的を果たすまでな。どうしても気がすまないならば、俺を追って来るがいい」
スヴァルトの緑の血液と、セージュの真紅の血液は、深雪の上に蔓薔薇を咲かせている。暫く眺めていたスヴァルトは踵を返して足早に去った。安堵の溜息を漏らしていることに気付き、苦笑しながら。
「本当に悪いのは、俺だと知っている。年老いたセージュと離れたくなくて、無理をして若さの実を手に入れたのだ。心優しい神の手助けがあったとはいえ、罪を犯したのは俺だ」
罪滅ぼしか。いや、違う。罪悪感はない。罰を与えた神を殺そうとしているのだ。
「ふん、どうでもいい。俺は俺だ。殺すも生かすも、俺が決める」
良心が音を立てて消え去ったときから、全てが変わった。
「だが、なぜ愛す?」
セージュは。烏羽玉の髪を持つ美しい女だけは、忘れられない。以前より鮮明に、強く求める気持が一向に消えないのは、どういったわけか。
「ふん。愛している、だから死なせない。それでいい。覚えておくがいい、神々よ。俺はお前達を一人残らず、屠るぞ」
怒り。スヴァルトに満ちるのは怒りだ。その中に一つ、温かい温もりを感じている。
「セージュ」
忘れることなどできない女の名を、スヴァルトは祈るように囁いた。
呪うは、神。
宿命を背負わせた神に、スヴァルトは一人戦いを挑む決心をさらに固めていた。
そして。
歩き去るスヴァルトが遠くに霞んだ時に、セージュは目覚めた。一人横たわる雪上に残る血痕が、全てを悟らせる。寒さが肌を切り付けるが、以前よりも堪えない。耳も、指も悴んでいたが、起き上がる頃には回復していた。
雪上で毛皮も羽織らず、肌を晒しているのに平気なのは、スヴァルトのおかげか。
「そういえばあの人、冬でも薄着だったっけ」
思い出す。緑のチュニックだけで走り回るスヴァルトを。「寒くないか」と聞いたとき、「寒さとはなんだ」と返された。
思い出に浸るセージュは雪を見ていた。蔓薔薇が冷たい雪上に咲き乱れている。凍った緑色の蔓を、そっと指でなぞってみる。
「スヴァルト」
愛しい人の名を、天に向かって囁く。死ねなかった事を悔やみ、しかし新たな希望が生まれてくるのを、セージュは感じていた。
「絶対に、術はあるはず。世界は広い。この広い世界のどこかに、きっとある」
拳を握り締める。強く、強く。
崩れ去り、残り火だけが燻る城に背を向けて、深雪の上に残る、愛する男の足跡とは逆に走った。
「今は、できない。私はもっと強くなる。待っててスヴァルト。次に会うときには、必ず!」
決意が、口に出すだけで固まる。思いが言葉になって出てきたとき、セージュは目に残る涙を捨てた。
「もう二度と泣かない。泣いても、何にもならない。私は、強くなる!」
走る雪の上には、深い足跡が残る。引き返し仲間の元に戻る事もできるが、セージュはしなかった。平和になれば、老いない自分はいずれ邪魔になる。そうすれば新たな争いが生まれ、悲しみが生まれるのだ。
「一人で、いいんだ」
言い聞かせるセージュは、白く輝く息を残し、南へと向かっていた――。
三
この世には、次元の違う世界が存在する。同じ場所にあるが、同じ場所にない。棲む次元が違う世界は、見事なまでに寄り添っている。太古の昔より、神のすむ世界、死者の世界、そして生きとし生けるものの棲む世界は重なっているのだ。
ユグドラシル――世界樹という、遥か昔北欧に口伝で語り継がれた世界観であるとか、中南米に伝わる生命の樹であるとか、概念は古代から語り継がれていることだろう。触れるものが全てではなく、我々の隣には神がいて、向かいには死者がいるのだ。それが世界であり、次元層の違う三層、神の国、死者の国、そして、我々の棲む国そのものである。
ある日突然、魔物の圧制から開放された人々は、セージュとスヴァルトの記録を残すべく、生い立ちや戦いの様子を語り継いだ。
人から人へ、親から子へ、子から孫へ。
代々受け継がれる話は伝説となり、紡がれてゆく。悲しい娘は知らぬ間に伝説になり、子供達の御伽話の中で生きづいた。欲を持つ者は辛い罰をうけるという教訓と共に、いつしか三〇〇年が過ぎ去っていく。時間の流れは、緩やかだが確実に過ぎてゆく。時には自然そのものや、人の心の質すらも変えてしまうのだ。
紀元前二一世紀。上下エジプトが統合し、蠍王の息子ナルメル一世が即位してから五年。これは、悪神が蘇り、人々を混乱と恐怖に包もうと、平穏な国に巨大な歯牙を向けた時に現れた、変わらない精神を持つ一人の女の散文物語を集約したものである――。
四
照りつける太陽。
乾いた空気。
熱を孕んだ熱い砂。
東の砂丘に陽炎の立つ砂漠の上、セージュは歩いていた。
あれから何年が過ぎたのだろうか。黒の妖精を追い続けるセージュは、度重なる激戦を潜り抜け、今砂漠に立っている。
「もうじき、エジプトだ。……水、飲みまくってやる」
照り返す熱と光の為、身体は乾き切っている。下手に頑丈になってしまった身体のお陰で、命こそ永らえているが、流石に辛い。
汗すら出ない身体に、冷たい清水を注ぐ瞬間を想像して、セージュの足は速まった。
ナイルとの妨げは高くに臨む砂丘一つ。
「もうすぐのはずだけど」
息を吐き、見上げた時に、項を痛みに似た感覚が襲った。
ぞくり。
背筋に悪寒が走る。
「これ、なんだろ?」
醜い呪怨の念が、空を覆い尽くしている。強烈な思念と、蠢くものの息遣いが肌に染みる。
セージュの胸内の、更に奥底に秘めた感情の一端がむくり起き上がってくる。衝動に駆られ、矢の如く走り出した。
何かが、邪悪な何物かが、恐怖を撒き散らしている。
「あーもう、走り難いっ!」
唇を噛み締めたセージュの、砂漠の地表にのめり込む足が、抵抗に勝り砂を巻き上げる。風に流れ去る砂粒が、微かに鳴いて消えていく。
頂に辿り着き、眼前に広がるナイルの流れはどす黒く濁っていた。
砂丘を抜け忽然と広がる緑の大地。
蜃気楼ではない。
この砂丘の頂上に立った者は皆見るだろう。木々の間に真新しい都市が見えるのを。
都市の中心には、巨大な神殿がある。薄い茶色の建物は、日を跳ね返し白く輝き、間には梢が顔を覗かせ、濃い緑の葉を茂らせている。
その向こうには真っ直ぐに大地を分けるナイルの河。畔には田畑が鮮やかに彩色を放っている。
だが、恵みをもたらす河は、闇色をしていた。
流れの中に何かいる。
それは闇よりも更に濃い、絶望の黒。
首を伸ばした大蛇は、朝日を放つ太陽に向かって真っ直ぐ鎌首をもたげた。
ああそうだ。きっとこいつが呼んだのだ。ただ一人世界を放浪するセージュを。
太陽神に呪詛を吐きかけ、命ある者を呪い、エジプトに混沌を齎す大いなる災い、黒大蛇。
だが、所詮セージュの敵ではない。光と闇に愛された女には、邪な神とて敵わないだろう。身に帯びた宿命の重さには、黒大蛇如き敵う筈もなく、再び地中深く封じられるのみ。
セージュは走った。己の宿命を憂いながらも、一歩も引かず立ち向かうために。
その身に漲る闘志を開放し、邪蛇の元へと駆ける。
叫んでいた。
セージュは、命の灯火が消えることを嘆いていた。
畔にはエジプト民の戦士団がいる。
白い鎧が陽光を反射している。剥き出しの足、腕は褐色。顔には白い布を巻き、目だけを出している。
ただ一人、黄金の冠を被る者は金色の鎧に身を包み、鼻梁の通った褐色の顔を日の元に晒していた。
先陣を切っている冠の男を庇おうとした戦士が、今まさに黒大蛇に飲まれようとしている。 怖気付いたか、武器を放り出し慌てふためいて逃げた。
「間に合って」
有らん限りの力で走る。
失くす悲しみが、別れる辛さが蘇る。
北欧の主神の呪いと、光の神の救いが身体を突き動かす。
セージュは走った。
自分の為に。最愛の男の為に。
そして、守る者のある全ての人間の為に。