白雪姫に口づけしないなら
最初は何とも思っていなかった。
新しく引っ越した部屋の天井に黒いシミがひとつ。
ベッドに寝転ぶと目に入る。
小さな脚立を昇り、天井のシミをよくよく見る。そこだけ天井が凹んでいる。何かが奥からチカッ、チカッと光る。
右手の人差し指をぐりぐりと押し付ける。指先がふっと軽くなる。天井板を貫通した。不思議なもので、穴奥から光が漏れている。右目で覗き込んだ途端、強い光に目が眩む。
気づけば深い森の中、一軒家の前にいた。扉から小人が七人よたよたと出てきて、
「おお、王子! 毒リンゴを食べてしまった白雪姫をお助けください」
と、膝をつく。小人たちが指さした先には棺に納まった絶世の美女がいた。
「姫は真実の愛のこもった口づけでしか目覚めぬ呪いにかかってしまったのです。さあ、王子! 姫に口づけをしてください!」
小人たちは飛び掛からんばかり。
棺の美女は黒檀の髪、血のように赤い唇をしていて、笑ったらかわいらしいに違いない。
だが考えてみてほしい。初対面の女性といきなり口づけを迫られて、はいと頷く人がいるだろうか。どんな美人でも躊躇する。
「するわけないだろう」
「なんですと!」
小人たちは驚きでそろって飛び上がる。
「嘘です、白雪姫の王子がそんな夢のないことを言うはずがない!」
「我らの白雪姫をご覧ください。このぷよぷよの白い肌、むちむちした太ももを!」
「いじわるな継母が白雪姫に毒リンゴを食べさせたのですよ!」
「姫にはあなたさまの口づけが必要です!」
困ったなと思っていると、小人たち同士がひっつき、ひそひそと話している。互いの顔を見合わせて、うんうんと頷き合っていた。
「何が何でも王子の唇をいただく! すべては白雪姫のため!」
小人たちが一斉に向かってきた。
来た小人たちをみんな、腰のあたりを掴んでは投げ、掴んでは投げ……。
「なんとお強い方だ……」
最後の小人が地面にひれ伏した。周囲がしん、と静まり返る。死屍累々の小人山が出来上がると、棺の白雪姫を見下ろした。
あまりにも美人すぎて言葉で表現することすら難しい。白雪姫の美貌は、私を感嘆させるばかり。
おとぎ話の白雪姫は毒リンゴの欠片を喉に詰まらせて仮死状態になっていたはずだ。聞きかじりの腹部突き上げ法を試みた。
後ろから白雪姫の身体を抱え、利き手の親指でへそから鳩尾を突き上げる。ぽろりと口から欠片が飛び出した。
私はすばやく白雪姫を芝生の上に横たわらせた。彼女の眼がぽっかりと開く。
「あら。わたくしは今まで何を……?」
きょろきょろと辺りを見渡すと、小人山を見つけた白雪姫。親切な小人たちが伸びているのにびっくり仰天し、ひとりひとり優しく介抱している。
私は草葉の陰から白雪姫と七人の小人たちを眺めていたが、後ろに気配を感じてふりかえる。
背筋の曲がった老婆が立っていた。
「邪魔をしたな! 白雪姫が幸せになってしまう!」
「幸せになっていいだろう。幸せをねたむのは、自分が幸せでないからだ。あなたは自分が幸せになることを考えなくてはいけなかったんだ」
世界一の美しさを持つ白雪姫。自分より美しいと言われてしまった継母のお妃さま。
世の女性は、少女であれば白雪姫に憧れ、大人になればお妃さまに共感してしまうのではないか。大人になれば、自分が特別でないことに気付いてしまうから。
「美だけがお妃さまの幸せではない。白雪姫にこだわるだけ、あなたは醜くなる。一度、鏡で自分の顔を見てみるといい。あの鏡は、昔の方がきれいだったと言うのかもしれない」
お妃さまは怒りで顔を真っ赤にした。ぶるぶると身体を震わせると、魔法の力が解け、すらりとした肢体の美女になる。
「おまえ、名は?」
「知らない人に不用意に名前を言うなと親から遺言されているから言えない」
茫然とするお妃さまに挨拶代わりに手を振る。ずんずんと森の奥に進む。
長い時間が経った頃。ある木の幹に、黒いシミを見つけた。凹みがある。右手の人差し指をぐりぐりと押し付ける。指先が何かを貫通した。穴を右目で覗き込む。眼が眩む。
私は引っ越したばかりの自分の部屋に帰っていた。右目を穴から離すと、穴はゴキブリみたいにカサカサと移動し、どこかに行った。
ピンポーン、と新居のチャイムが鳴る。ドアを開けた。
ものすごい美人がいた。
「毒リンゴはいかが?」
口にリンゴが突っ込まれた。もがいているうちに欠片を呑み込んでしまう。
長い眠りにつく前に、女の声が聞こえた。
――わたくしの心を奪ったあなた。あちらの世界へ行きましょう。それまでは……おやすみなさい。
腹部突き上げ法は危険を伴います。安易に真似をしないでください。