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半年後には学園を卒業して結婚しこの家から出られると希望を抱いていたマリーは酒に酔った義兄シャークに顔を叩かれていた。
今宵は満月、強すぎる月の明かりが部屋を照らし、シャークの顔も嫌と言うほど良く見える。
マリーを押し倒し乗り掛かる顔は欲望を隠しきれず深緑の瞳をギラつかせる。
間髪を容れず赤茶色の髪の毛を振乱し振り上げられる拳。
「やめて!」
「黙れって言ってるだろ」
酒の匂いをプンプンさせたシャークは容赦なく拳を振り下ろす。
鈍い音と共に顔面に重い衝撃を受け鼻血がボトボトこぼれた。
マリーは咄嗟に鼻を押さえる。
「殴られるより姉みたいに殺されたいか?え?」
まだ叩き足りないのか鬱憤を晴らすように頬を叩く。
マリーは鼻を押さえたまま叩かれ窓の方に顔を向ける。
スッと綺麗な丸い月と目が合った。
まんまるの月はいつもより大きくそして格別に綺麗に感じ、その美しさにマリーの目から一筋の涙が溢れた。
(こんな時でも月は美しいのね)
こぼれ落ちた一滴の涙に続き堰を切ったようにポロポロポロポロ涙が溢れてくる。
こんなに涙を流したのは母が亡くなって以来だ。
(私がこの家から出られる日なんて来ないのかもしれないわ)
そう考えた瞬間全ての事にもう耐えられないと思った。
ローシェ達の執拗な虐めも、学園での虐めも、カルロが自分を信じてくれなかった事も、こうやって義兄から殴られている事も、もう全てが耐えられない。
(私バカみたい。何故生まれてきたの?この家のストレス発散の道具?もう死のう。これ以上生きてこの人達の好きにさせたくない。月の神様、もういいよね?)
語りかけておきながら『神などいない』と笑った時、月の光がより一層の輝きを放った。
マリーからこぼれ落ちる涙さえ月明かりに照らされ金色に輝いたほどだ。
その光はマリーを照らし身体全体を飲み込んだ。
身体を包んだ暖かな光はマリーに『記憶』をもたらした。
次々と、それこそ光の速さで流れ込む、甦る記憶。
それはマリーとしてこの世に生まれる前の、今まで数度生まれ変わって人として生きて来た記憶達。
前世は今住んでいる世界とかけ離れた地球と言う惑星で日本と言う国に住んでいた。
前前世は国は違うが今と同じ世界で女魔法使いだった。
前前前世はしがない冒険者の男だった。
前前前前世は魔女と呼ばれ虐げられ生きた。
(そうだ。これは全て私が経験した出来事)
前前前前世の記憶まで思い出したマリーは混乱する事もなくすぐに神に感謝した。
この状況から逃れる為の、この家から逃れる為の知恵を授けて下さったのだと瞬時に理解したからだ。
そして金色に輝くほどの喜びの感情が心から溢れた。
(ああ、お母様の言ってた事は本当だった)
エルフの溢れんばかりの魔力を持っている事にマリーはたった今気付いたのである。
魔法使いだった頃の記憶を思い出したお陰でハッキリと分かった。
(月の神様、感謝致します)
マリーは両手に魔力を込めて風をイメージし、思いっきりシャークを突き飛ばした。
シャークの身体は勢い良く後ろに飛び、机にぶつかると派手な音を立て止まった。
「キャー!」
マリーが大声で叫ぶとバタバタと家の警備と侍女達がドアを開けた。
鼻血に殴られた跡。
突き飛ばされたシャーク。何があったかは一目瞭然だった。
だが警備も侍女もシャークを捕らえたり、責めたりする事はない。
「シャーク様、大丈夫ですか?部屋までお連れします」
警備の1人が抱き上げるとシャークはなんとも気まずそうな顔を見せた。
「下ろせ!自分で歩ける!」
警備も侍女達もシャークに付いてゾロゾロと部屋を出ていく。
ただ1人、マリーが大嫌いな顔を半分隠した侍女を除いて。
「マリー様……なんて事……」
あろうことかその侍女は涙まで流しマリーを抱き締めようとした。
涙を見てマリーはほんの一瞬、心がぐらりと動いてその侍女を受け入れそうになったが、手をはね除けた。
「哀れみなどいらない。望んでいないわ。早く部屋から出ていって」
「哀れみなどではありません!ですが、私の気持ちはマリー様に伝わりませんね。何かありましたら、すぐに私を呼んで下さい」
「私はあなたの名前すら知らないわ」
「エミリーとお呼び下さい。お風呂のご用意をしておきますのでどうぞお入りください」
エミリーが頭を下げて出て行くと、マリーはすぐに窓際へと駆け寄り月を見上げた。
今まではただ月を眺め、歌を歌い心の中でお祈りするだけだったが、マリーは月に向かい目を閉じ手を合わせた。
記憶の中で神に祈る時はこうやっていたからだ。やってみると思いの外しっくりくる。
(神様ありがとうございます。この記憶でここから逃げ出す手段を考えようと思います)
ノックの音が聞こえたが返事も返さず月に祈り続けた。
心からの感謝を伝え終えベッドを見るとふかふかのタオルが置いてあった。
マリーはそのタオルをぎゅっと両手で抱きしめ顔を埋めたのだった。