第九話 月の下のさがしびと
本です。
見渡す限り、本で埋め尽くされて、いえ、溢れ返っていました。
部屋の四方、それこそ扉のぎりぎりの位置まで、ぐるりと視界が、本棚がそびえ立ち、どれもが様々な本でいっぱいです。
子供向けの絵本が並んでいたと思えば、すぐ横には難しそうな歴史書や、ミモルには読めない文字でかかれた分厚い本もあるようです。
床にもうず高く積まれていて、寝室であれば本来は主役のはずのベッドが浮いて見えるほどでした。
「す……すごい」
ミモルはこんな量の本を今まで見たことがありません。
養母であったルアナも読書家で、近隣の村や町へ出かけては本を求めて自室の本棚に収めていたものでしたが、ここまでではありませんでした。
「僕にとって読書は生活の一部だったから。ここにある本の大部分はパートナーが僕のために集めてくれたものなんだ」
「まるで図書館ね。いいえ、これだけあれば十分、貸本屋をやっていけるのじゃないかしら」
エルネアも個人で所有するには圧倒的な本の量に驚き、感嘆の声をもらします。
「『図書館』ってなぁに?」
「国とか、お金持ちの人なんかが、集めた本を無料で貸し出している施設だよ。ミモルは図書館に行ったことがないの?」
説明されても、森育ちのミモルにはいま一つピンときません。
普段の生活には必要のない、いわば「嗜好品」である本は、普通の人にはおいそれと手の出せない高級な品物です。
それを無料で貸し出すなんて、余程、潤沢な資金がなければ不可能です。少女にとっては、自分とはかけ離れた世界の話を聞いている気分でした。
「じゃあ、今度連れて行ってあげるわね」
「本当?」
「えぇ」
気が付くと、そんな楽しげな二人を見つめるニズムがどこか哀しそうにしています。素直にはしゃいでいたミモルは、申し訳ない気持ちになりました。
「……ねぇ、そのパートナーはどうしたの?」
これだけの本を、たった一人の少年のために集めてくれた天使。
この部屋に足を踏み入れさえすれば、その天使がどれだけ少年を愛し、慈しみ、尽くしていたかが伝わってきます。
けれども、この家からは居るべきはずのもう一人の気配の残り香さえ感じられませんでした。
「……離ればなれになってしまったんだ」
「そんな。私達はお互いに繋がってるのに?」
ミモルは呟き、ありえないとエルネアも言います。
天使と主は契約した瞬間から繋がっていて、どこにいても相手を見失うことなどないのだと。
ニズムはそれでも首を横に振りました。悲しげに一度は伏せた瞳をまっすぐ金髪の天使に向けて、消え入りそうな風情で囁きました。
「ずっと探してる。……ずっと」
「……?」
ミモルは胸が締め付けられる悲しみにはっとしました。
突然の感情の波に襲われ、急に世界が変わった気がして、何がなんだか分かりません。
「……ここ、どこ?」
しばらくは目を見開いたまま、自分が何を見つめているのかを必死に考えました。でも駄目です、状況をうまく理解できません。
「よかった。目を覚ましたのね」
覗きこんできたのは、心配そうな表情のエルネアでした。
今は背の白い翼を隠していますが、降るような金髪と整った顔立ちで、人ごみにいても際立って見える美貌の持ち主です。
彼女の青い目に焦点を合わせると、そこには泣いている自分が映っていました。周りが良く見えなかったのは、涙で滲んでいたからだったのです。
「ここは私達が泊まっている宿屋よ。……よく聞いてね。私達は、夢を見ていたの」
「……ゆめ」
何のことだか分からずに呆けていると、意識の覚醒と共に次第に涙も止まり、視界が開けてきました。
自分が見つめているのが天井で、自分自身がベッドに寝ていることにも気がつきます。そうして初めて、柔らかなシーツが体に食い込む感触を肌に感じました。
「夢? 何が、夢だったの?」
「正確には私にもどこからが夢だったのか、はっきりとしないの」
エルネアは言葉を選びなら話し始めます。諭すような囁き声は相手を気遣う優しさに満ちていました。
「水の精霊とミモルちゃんが契約したのは本当よ。でも、そのあと……ニズムの家に行ったでしょう。あれは、きっと夢の中の出来事だったのよ」
ずんと胸に重く、記憶が鮮明に蘇えってきます。その勢いがあまりに強くて、知らず知らずのうちに声が口から零れ出ていました。
「だって、ニズムが通りがかってくれたから助かったのに」
家に行きました。紅茶とクッキーの香りも味も、まだ鼻や舌に残っています。山のような本の独特の匂いも憶えているというのに?
「ついさっきまでそこに居たんだよ。それで、それで」
『ずっと探してる。……ずっと』
最後に耳にしたあの言葉が、まだ耳から離れきっていません。
それどころか、何度も何度も頭の中で繰り返し響きます。あんなにさみしい声が、夢などという曖昧なものであるはずがないのです。
「彼が何者だったのか……。でも、とても強い力の持ち主だったのは確かよ。私達を夢の中へ引き込めるほどの、ね」
ミモルはやっとのことで上体を起こし、怠い身をエルネアに任せました。
出会って間もない彼女の腕の中がこんなに落ち着くのは、パートナーだからなのでしょうか。安心したら、また涙が溢れてきそうでした。
あぁ、私は怖かったんだ。
本当の親の元では暮らせなかったけれど、自分はルアナとダリアという家族が居て、その居場所はいつも暖かかでした。
それが、今はこうして知らない町の慣れないベッドの上で、知り合ったばかりの女性と二人きりです。
彼女は常に優しく、最初に会った時の言葉通りに本当に尽くしてくれますが、決して家族の代わりにはなりません。
「これから、どうなるの?」
「旅を続けるしかないわ。ミモルちゃんが……ダリアを助けたいなら」
もしミモルが安全を望むなら、天使は自らの力の全てを使って、主を災いから遠ざけるでしょう。
でも、それは同時に姉を見捨てるという選択でもありました。
「……うん、分かってる。聞いてみただけ」
エルネアは短く「そう」とだけ、返事をしました。