第五話 二人目のよびかけ
ツンと焦げるような匂いが鼻をつきました。その異質さが、焼けたのが衣類だけでないことを知らせています。
「大丈夫よ。何も心配しないで」
優しい声が頬をなでます。きっと、目を閉じて耳を塞いでいればエルネアがなんとかしてくれるでしょう。
全部きれいに片付けて、何もなかったように振舞ってくれるかもしれません。でも、それではいけないことも一方で理解していました。
思った途端、涙が滲みます。してしまったことにフタをして忘れたふりをするのが、どんなに自分や周りを苦しめるか、今のミモルは知っていました。
ゆらりと立ち上がります。触発されたように全員がミモルを見、目の前の惨劇を直視しました。
「……」
先ほどまで俊敏に動き、自分を脅かそうとしていた人影は、まるで意思のない物体のように仰向けで床に横たわっています。
騒ぎの間、かなりの音が鳴っていましたから、ネディエがいくら人払いをしていてもいずれ警備の兵が来るでしょう。猶予というほどの時間もありません。
ミモルは決して口にできない言葉がわき上ってくるのを必死で押さえ込みました。
――誰か助けて。
『あなたの望むままに』
「えっ」
聞き覚えのない声に驚くのと、目の前に転がる「物体に等しいもの」が身じろぐのとは同時でした。
「お、生きてるんじゃねぇの?」
冷めた目で状況を見つめていたスフレイが全員の意志を代弁し、仲間達がわっと少女に近付きます。悪魔のため以上に、心を痛めるミモルのために。
その中で、当の本人だけは頭に響く誰かの呼びかけに立ち尽くしていました。
「誰なの?」
「ミモルちゃん?」
赤い髪を散らす悪魔に触れようとしていたエルネアが、主の様子に気付いて手を止めます。
『今ならまだ間に合います』
低い、男の声でしょうか。先程はびっくりするばかりでしたが、記憶にひっかかりを覚えました。……そう、これが初めてではなく、どこかで聞いたことがありました。
「あなたは誰?」
『よんで下さい』
問いかけに応えるこの一言で閃きました。
「ねぇ、どうしたの?」
斜め上を向いたまま独り言を呟いていたミモルが、肩を軽く揺するエルネアへと目線を合わせます。
「声がするの。夢の中で私を呼んでたあの声が」
「まさか」
それはどちらかと言えば「そんなはずはない」よりも「もしかして」の意を多く含んでいるように聞こえました。心当たりがあるのでしょうか。
『時間がありません』
「おい、放っておいたら今度こそオワリっぽい感じだぜ?」
膝を付いて悪魔の少女の様子を窺っていたスフレイが言い、隣に立つネディエも視線を送ってきます。思考を巡らしている時間など、本当になさそうです。
『よんで下さい』
もう声はすぐそこで鳴っています。すぐ横で囁いているみたいに。
「……分かった」
時間も、目の前の惨状も、迷う暇を与えてはくれません。なら、出来る事をするだけです。
「みんな、離れてて」
言って、倒れた少女の前に数歩進み出ると、そんな覚悟に満ちた空気を纏うミモルからそっと全員が距離を取りました。
「ミモル、何をするつもりだ?」
「よぶの」
何度も呼びかけられているうちにピンと来ました。似たようなケースがこれまでに二度あったことに。一つは数ヶ月前にティストと出会って間もなく、そしてもう一つは更に前の――。
「彼」は呼んで欲しいわけじゃなく、喚んで欲しいのです。ミモルは目を閉じ、再び闇に塗りつぶされてしまった心の奥へと意識を沈ませていきました。
精霊の力を制御する訓練のおかげで、今ではかなりスムーズにこの世界へと降り立つことが出来るようになっています。
「いらっしゃい」
ふわりと地に足を付けて目を開ければ、リーセンが複雑な表情で歓迎し、扉を指し示しました。
ぴったりと閉じられていたそれは、向こう側から押されて開きかかり、強い光を溢れさせていました。
「一緒に開けてくれる?」
ティストの時は自分が手伝う側でした。それよりも前、ミモル自身の時は亡き義母が導いてくれました。今度は肩が触れるほど近くに彼女がいてくれます。
外ではエルネアもサポートしてくれることでしょう。きっと、大丈夫です。
「物好きね。箱の中身が何だか確かめもせずに手を突っ込むなんて」
「だめ?」
リーセンはふっと笑って手を払いました。
光はミモルを中心として柱のように立ちのぼり、客間にいた全員を包み込んだかと思うとあっという間に収束して消えました。
「何が起きたってんだ。……あ?」
倒れる少女のそばにいたスフレイが、ミモルから再び手元へと視線を移して間抜けな声を出します。
そこにあったのが、倒れ伏した悪魔の背でないことに気が付いたからです。ゆっくりと立ち上がって数歩下がると、ほぼ同じ高さで目線がぶつかりました。
「誰だお前」
切り上げるように短く、半ば敵意を含んだ口調で睨みつけるも、一方ではどこか楽しげで、新たな展開に面白みを感じてもいるようです。
「私に話しかけていたのはあなた?」
「相手」が応えるよりも前に別の質問を投げかけたのは意識を取り戻したミモルでした。
「はい」
迷いなく返すその低い響きは、まさに夢の中と同じです。
澄んだ瞳と長い髪は独特の青い色を放ち、涼しさを運ぶ風を連想させます。筋肉質のスフレイと並ぶと、スマートさが際立つ若い青年でした。
何より彼の素性を明らかにしていたのは、背の真白な翼で、それをさっと畳んで消してしまうと、軽く一礼してみせました。
「フェロルと申します。ミモル様をお守りするため、エルネアさんの補佐役として遣わされました。どうぞ、よろしくお願いします」
すらすらと言って軽く微笑めば、指通りの良さそうな腰までの髪が揺れます。
表情によって十代後半にも二十代前半にも見えるところが、エルネアに――これまで出会った天使に良く似ていました。
「やっぱり……」
最初に反応したのはエルネアです。すでに心当たりがありそうだった彼女は、彼を見て想像を確信へと変化させたようでした。
「エル、知ってることがあるなら教えて」
「お話のところ済みませんが、先にこちらを」
二人の会話を遮って、フェロルは胸に抱えた小さな何かをミモルに差し出します。
それは、大人の両腕にすっぽりとおさまる小さな姿で、見た全員があっけにとられるものでした。
「これって、もしかして」
すやすやと規則正しい寝息を立てる、幼児と言って差し支えないほどの子ども。既視感を覚える面影を残した女の子でした。
「もう一度人払いをしてくる」
ネディエが部屋を出ていくのを見送ってから、ミモルは信じられない思いでその少女の頬に触れてみます。温かくて柔らかい感触は、幼子そのもの。
なにより目を引いたのは、つるりと垂れたポニーテールの赤です。そっと受け取ると、ずしりとした重みが伝わってきて、生きていることを実感しました。
「精霊の力を浴びた悪魔は、聖なる炎に身を焼かれる運命にありました。天との繋がりも切れてしまっているため、消え去るしかありません」
「じゃあ、どうして」
小さく小さく、まるでかつてのエルネアに起きたことのように縮んでしまったものの、少女は確かに呼吸し、命を繋いでいます。同じことが起きたのでしょうか?
「ミモル様が僕を召喚した瞬間に溢れた、天の気のおかげです」
どんな穢れをも払い、生命に活力を与える清浄な空気。だからフェロルは急ぐように言っていたのだと今なら理解できます。
あのタイミングで彼を召喚できていなければ、悪魔はそのまま命を散らしていたことでしょう。
「もう一つは、この少女が純粋な悪魔でなかったから、かもしれません」




