第十八話 じけんの発端
「あの顔、あれは、さっきの、……どういうことだ?」
疑問が意味をなす前に落ちては消えていきます。そして応える者のないまま、事態は動きました。
少年が怪しげに微笑み、その像の手にそっと自らの指先を乗せます。背丈の差と相手が物言わぬことを除けば、まるでダンスでも踊りだしそうです。
『やぁ、シェアラ。随分と待たせたね。またボクの傍に舞い降りておくれ』
「嘘だろ……」
さぁっと世界が色を変えました。見る間に真っ白だった像は血の気を取り戻し、唇が鮮やかに赤く染まり、髪が濃いピンクに彩られ、艶を放ちます。
一刻前までの彫像は綺麗に消え失せ、今やそこにはにこやかに微笑む女性が立っていました。
エルネアを清楚と表現するなら、シェアラと呼ばれた彼女の容姿は妖しさに満ちています。笑いかけられれば誰もが見惚れ、たちまち虜になってしまうでしょう。
毒々しいまでに赤みを帯びた唇から、鳥の囀りのような声が溢れます。
「こうして貴方様に再びお仕えする日を心待ちにしておりました」
『ボクも嬉しいよ。彼のおかげなんだ』
少年から目を逸らさなかったシェアラが、初めてロシュを視界に捉えました。彼は喜びに打ち震えているのか、固まったまま動きません。
――その感激を、彼女のセリフが打ち砕くまでは。
「彼のおかげ、なんて……ふふっ。ご主人様がご用意なさった駒ですもの。正しく動いて当然でしょう?」
「な……」
用意した駒。その言葉にロシュが絶句し、酷くショックを受けているのが窺えました。逆に冷静さを取り戻したのがムイです。
「ちょっと、こっちを無視しないでくれる? そろそろ事情説明くらいしてくれても良いんじゃない?」
『何をだい?』
少年はキョトンとした表情で首をすくめました。こちらのことなど、ほとんど興味がなさそうな態度です。
「その女、さっき攻撃してきたわよね」
女とは、つい一瞬前まで彫像だったはずのシェアラのことです。
彫像から生まれ変わった彼女の姿が、先ほどミモルを操って攻撃してきた黒い翼の天使とそっくりだったのです。
『……いいや? あぁ、あれは彼が作った人形だよ』
『シェアラが欲しくてたまらなかったんだろうね。それも、仕方のないことだけれど』
ロシュの肩がぴくりと震えます。
不敵に微笑む少年は、どんどん「ティスト」だった頃の面影を失いつつありました。新たな肉体に、魂が馴染み始めているのかもしれません。ロシュは声を絞りだしました。
「どういうことだ……?」
「おかしいこと。あなた、まだ全てが偶然だと思っているの? せっかくご主人様がお選びになって下さったのに、思ったより頭の回転がよろしくないのね」
男の中で、そしてムイの脳裏で、これまでの一連の事件がパズルのように組み上がり、一つの絵を築いていきます。
「私はね、『餌』なのよ」
『シェアラ、あまり言っちゃあ可哀相だよ』
「あら、ご主人様は本当に慈悲深くていらっしゃるのね。でも、こんな男に情けをかけても無意味というもの」
言って、少年を抱きしめるように腕を回します。彼も優しく抱き返し、二人は消えていき始めました。
「参りましょう。やっと長年の夢を叶えられる――胸がはち切れそう」
『そうだね』
「待ちなさいっ!」
捕まえようと手を伸ばすムイでしたが、虚しく空を掴んだだけでした。
「結局、利用されただけだったというわけか」
投げ捨てるようにロシュが言い、その場に崩れ落ちます。脱力して倒れそうになるその身を、ナドレスが掴んで揺さぶりました。
「何がどうなってるんだ! 説明しろよ!!」
事の一部始終を見届けても、彼には事件の顛末が見えてこなかったのです。いえ、分かりつつも真実を知るのが怖かったのかもしれません。
追っても仕方ないと諦めたムイが「今までの話を総合すると」と言い、気持ちを切り替えます。ここは事情を整理しておくのが肝要だと判断したのでしょう。
「そこの馬鹿はあいつの罠にかかって利用された、ってところでしょ」
「だから、そこを具体的に教えてくれよ」
むくれるナドレスに答えたのはロシュです。
「……俺は、とある遺跡であの彫像を見付けた」
「遺跡、ね。あんた、盗掘者か冒険者なわけ?」
身なりを見る限り、とてもそんな血気盛んなタイプには見えません。ロシュは首を振って「ただの辺境に住む貴族の息子だよ」と言いました。
彼の話では、オキシアの端、国境沿いに位置するその町近くの森には古い遺跡があり、調査のために発掘作業が行われていたらしいのです。
ある日、珍しい彫像が発見されたと聞き、領主は息子に視察を命じました。人の心を絡め取る美しい彫像。彼にはその声が聞こえてしまったのです。
「あれが全ての始まりだった」
「……違うわね。多分、もっと前から仕組まれてたことよ、それ」
独り言のように語るロシュが顔を上げ、一寸体を強張らせましたが、すぐに再び力を失います。腕を組むムイの険しい表情に、次の言葉を待ちました。
「かも、しれないな」
「で? あとは説明不要? それより、もっと大事なことを聞かせてもらおうじゃないの。……ティストに、何をしたの」
「……」
「精神の奥底に眠っていたあいつを呼び起こすために、何をしたのかって聞いてるのよっ!」
ガン! ムイは、これ以上黙ったままなら許さないという意思表示として、強く地面を踏み鳴らしました。地面が揺れたかと感じてしまうほどの轟音です。
「奥へ行けば分かるさ」
代わりに返事をしたのは、いつの間にかやってきていたスフレイでした。彼はこの場の深刻ぶった雰囲気に呑まれていないようで、あくまで気楽に話しかけてきます。
「俺達を一番てこずらせてくれたものがあるぜ」
言われるまま、ムイとナドレスは暗い廊下を進んでいきました。奥はあの穢れた『神』が現れた場所です。そこに何かあるのは間違いありませんでした。
「これは……」
それを見た瞬間、二人は全身に鳥肌が立つのを感じました。焦りや恐怖が入り混じり、背中に汗が噴き出します。
骨が浮き出そうなくらいに痩せ細った女性です。瑞々しさを失った肌によれよれの髪がしなだれかかり、俯き加減の顔を覆い隠しています。
かつては美しかっただろうドレスと思しき布地は埃にまみれ、女性を更にみすぼらしく見せていました。
近寄ると、動いた空気に撫でられ、彼女の両腕を吊り下げる鎖がジャラリと重い音を立てます。
足首に嵌められた輪には鉄球が繋がれ、完全に自由を奪い去っていました。誰なのか、問いかけるのもためらわれる光景です。
「無様な姿だろ。とても王妃なんて思えないだろうぜ」
「王妃ですって?!」
「お前ら、これを見せたのかっ!」
ムイが驚きの声を上げ、ナドレスが赤い顔でスフレイの胸倉を掴みます。
同時に、胸のうちで謎が一つ解けました。少し前に聞いた、戸惑いを含んだ声と叫びの原因はこれだったのだと。
王妃と呼ばれる女性の様子を一目見れば、かなり前から監禁されていたことが分かります。
ティストは何も言いませんでしたが、城を抜け出したのも母親の行方不明のせいもあったのでしょう。それなのに、やっと叶った再会は酷いものでした。
「ティスト様を苦しめるためだけにこんなことをしたのか!」
まだ若々しい年齢のはずなのに、これではまるで老婆です。強い風が吹けば折れてしまう、枯れ木のようでした。




