第十五話 きえていく悲しみ
血の表現があります。ご注意ください。
それまで攻撃を繰り出し続けていたミモルの体がピタリと止まりました。後ろで高みの見物を決め込んでいたクピアがうろたえる間もなく、
「くっ!」
どがっ! 体重をかけた蹴りを思い切り仕掛けました。まともに食らった敵は倒れこみ、しかしすぐさま腹を抱えて立ち上がろうとします。
「あんた、ホントに出来たパートナーね」
リーセンと呼ばれた黒髪の少女が、子どもとは思えない表情で笑いました。
「皮肉だったら怒るわよ」
「褒めてるって」
「……どういうこと」
口の端を切ったのか、血が滲み出ていました。それを手の甲で拭ってこちらを睨みつける姿は、やはり「天使」とは程遠いものです。
二人はゆっくりと歩み寄り、クピアの前に立ちはだかりました。
「心に干渉する能力者の割に、甘いんじゃない? あたしに気が付かないなんてさ」
「罠にはめるつもりが、逆にまんまと騙されたってわけね」
「そうでもないけど? 『ミモル』はまだあんたの術に侵されたままだし」
「ミモルちゃんの同意なしで、良く出てこられたわね」
炎はすでに跡形も無く消え去っており、燻った跡さえありません。エルネアは周囲を観察しながら、戦いの最中に聞こえてきた声を思い出していました。
『ミモルはこっちで引き受ける。後ろの、遠ざけてくれない?』
リーセンの呼びかけを捉えた時は本当に驚きました。ミモルと彼女が対話する声を拾ったことはあっても、直接コンタクトを取ったことはなかったからです。
お互いの関係は間接的なもので、この距離は縮まらないと思っていました。それが、こんなに近くまで歩み寄ってくれています。文字通り、触れられそうなほどに。
「半分は、迷ってるのよ。あとの半分は術のせいで力が不安定だから」
リーセンは話を切り上げ、その赤い瞳でクピアを射抜きました。
「さっさと解いてくれない? この状態、結構疲れるの」
有無を言わさぬ響きです。しかし、それくらいで引き下がる相手でもありません。
「あの子の心はこっちの手の内にあるのよ。みすみす渡すと思う? それに、解るわ」
「何が」
「あなたじゃ、力を使えないんでしょ。っ!?」
少女の米神がぴくりと反応します。気が膨れ上がったのを感じてクピアは反射的に跳びすさりましたが、かわし切れずに爪先が頬をかすめました。
つぅ、と血が伝います。二筋の赤い線が、戦況を綺麗に縁取っているかのようでした。リーセンは繰り出した右足を上げ、攻撃の意思を示します。
「足には自信あるの。もう一発喰らっとく?」
「冗談」
形勢の不利を悟ったのか、クピアはそれだけ言うと、ふわりと空へ舞い上がりました。正体が何にしても、その翼が作り物でないことは確かなようです。
「待ちなさいよ。術、解いていけって言ってるでしょうがっ!」
その想いを代弁するようにエルネアも翼をあらわにして羽ばたきます。ところが飛び上がって敵を捉えようとした瞬間、鋭く声が制しました。
「近付かないで! 近付くと、ミモルの心を壊す」
「なんですって?」
「迷って、揺れている。ちょっと刺激すれば、容易く割れて粉々になるでしょうね」
ぎくり、と体が硬直します。僅かの距離で捕まえられるというのに、これでは手を伸ばすことが出来ません。
証明するかのように彼女が手をかざすと、リーセンが呻き声を上げました。胸を押さえ、額に汗を浮かべ始めます。
削られる……!
今は眠っている「ミモル」という存在が儚く消えていきそうになるのを、リーセンは必至に引きとめ、守ろうとしました。立っていられず、膝を付き、自らの体を抱きしめます。
「やめてっ!」
その様子を見ていたエルネアが金切り声を上げました。このままではミモルも、彼女によって具現化された自分もこの世界から消えてしまいます。
余裕を取り戻したクピアが酷薄な笑みを浮かべました。
「ね、耐えられないでしょ? だから、今すぐケリを付けてあげる」
言葉と共に空中に出現した黒い無数のはねが、真っ直ぐに少女を襲います。
先が鋭く尖ったそれは、教会で受けた硝子片よりずっと強い閃きを放ちながら、黒い軌跡を描いて恐ろしい速さで飛んでいきます。
リーセンは未だ苦しみから脱することが出来ず、うずくまっていました。防御はおろか、避けることすらままなりません。
「駄目!!」
白いシルエットが踊りました。
ミモルは、両肩に手を置いて預けてくる彼女の体重を受け止めます。
鼓動が激しく脈打ちました。
「え、エル?」
『間に合わなかった』
後悔を訴えるリーセンの声を耳に受け止めながら、ゆっくりと青い瞳を見詰めます。荒い息が頬にかかりました。
「……よかった。術から解放されたのね」
『あいつが逃げたからでしょ』
クピアは隙を突き、どこかへ姿をくらましました。
「ご、ごめん。分かってたのに、逆らえなかった」
自分を置いて去った両親に問いかけられない「何故」。その理由を昔から何度も想像してはかき消してきました。
きっと止むに止まれぬ事情があったのだと思いこむしかなかったのです。クピアの言葉はそんな心を埋め、慰めてくれる気がしました。
「いいの。仕方がないわ……」
「!」
ふらり、とその身が揺れます。支えようと掴んだ手に生暖かい物が触れ、ミモルは言葉を失いました。ねっとりと赤く、濡れています。
見れば背中にもいくつも濃い染みが広がっていました。白い翼にも黒い羽根が突き刺さり、色を変えていきます。
「エルっ? ねぇ、しっかりして!」
「抜いては駄目よ。毒が塗られているみたい」
「なに、これ」
思わず指先を固まらせました。エルネアの体が淡く光を放ち始めます。それは無数の泡のように見えました。肌や、服や、いたるところから溢れてくる――光る羽。
どんどん生まれては宙に溶けていくそれが、天使を構成しているものだと気付くのに、時間はかかりませんでした。
「あっ。いや……駄目だよ」
彼女を支える自分の腕が透けて見えます。存在が薄らいでいるのです。ミモルはありったけの力でパートナーを抱きしめました。
「あなたに怪我がなくて、よかった」
力ない微笑みを浮かべながら、透けた手でミモルの顔に触れてくる指先が、ほんのりと暖かく感じられます。
潤んだ青い瞳が細められ、長い睫毛がゆっくりと触れ合いました。次の瞬間、彼女の全身を光が包み、ぱっと弾けます。
「待って!」
割れんばかりの声で叫んでも、きらきらと輝く羽根は構わず空へ向かって飛んでいきました。
誰かが、悲しむことはない、と言います。彼女は使命を果たしたのだからと。
「違う。私はエルにそんなこと望んでない。ただ」
ただずっと、傍に居てほしかっただけです。ミモルは立ち上がり、首が痛むのも忘れて追いかけました。
「お願い、連れていかないで。エルがいなくなったら、私、何もない」
孤独が迫ってきます。すぐそこまで来て、手招いているのが感じられました。ぽろぽろと雫が零れ、鼻の奥がつんと痛みます。
滲んだ景色に重なって、エルネアと過ごした年月が蘇ってきました。
朝、目覚めれば聞こえてきた生活の音や、温かい料理、作ってくれた服、次は何をしようかとアイデアを考えている時の楽しそうな横顔。
どの場面を思い出しても、彼女の心はいつもミモルに向いていました。一緒に笑い、時に心配し、間違ったことをすれば叱ってくれました。
いつしか視線はぼんやりと庭園に植えられた花々へと落ちていきます。
「あんな声に耳を傾けちゃ、いけなかったんだ」
自分を想ってくれているのが誰なのか知っていたのに、他の手を取ろうとしてしまいました。これはその罰なのだと、ミモルは思います。ならば、受けねばなりません。
「そんなに、大切ですか?」
はっとして振り返りました。孤独が形になって現れたのかと思ってぞっとしましたが、そこに立っていたのは先ほど自分達を救ってくれたアルトという少女でした。




