第七話 清浄なるうた
「扉を押すティストの背中に手を当てていたら、その背中に自分が引き寄せられて飲み込まれそうな感じがした……」
『ふぅ、危なかった』
当のティストは、目蓋を閉じたままゆっくりと立ち上がりました。足を肩幅に開き、何かを受け入れるように両手を空中へ差し出します。
彼の意思とは思えない行動でした。
『もう助けは必要なさそうね。こっちは良いから、中へ戻るのよ』
「こんな状態のティストを放っておくの?」
まるで無防備な操り人形のようです。こんなところを攻撃されたら、避ける動作も出来ません。格好の的でしょう。
『どうせここから先は出来ることもないし、エルネアの方が心配じゃない』
違う? と聞かれ、ミモルは言葉に詰まりました。耳を澄ませば何かが破裂するような音や、硬いものがぶつかり合う音が聞こえてきます。
『派手にやりあってるみたいね。実力伯仲ってところ?』
激しい物音からすると、エルネアも本気なのでしょう。ティストを逃がしたことで、気兼ねすることもなくなっています。彼女の切り替えは、驚くほど素早いのでした。
「加勢すれば勝てるかも。よし」
口の中でいくらか物騒なことを呟いて、足を向けた時でした。どん! と一際大きな衝撃が鼓膜を揺さぶったかと思うと、入り口から白い影が飛び出してきました。
それは砂を巻き上げながら、なんとか後ろへ倒れこむのに耐えて立ち上がります。
「……エル!」
腰の辺りでまとめていた紐が解け、金の髪が散っています。服が汚れ、ミモルが先ほど治そうとした傷と同じような線があちこちに走って布を裂いていました。
短く息を吐き、きつく扉の方を睨みつける彼女は、硝子片を握る拳から血が滴るのを気にも留めていません。
「絶対、出さないのではなかったのか?」
ゆらり、と闇が建物から現れました。何度見てもそれ以外の比喩は浮かんできません。
同じ闇でも精霊が作り出すものとは全く違った性質の、死の匂いがする黒さです。
「やめて!」
我ながら陳腐だと思う台詞を叫びながら、ミモルは腕を波のように動かしました。自分に周りに纏わり付かせた風を、流れに乗せて敵に放ちます。
「風よ……壁を砕け!」
『精神を研ぎ澄ますのは、放出にも抑制にも大事なことよ』
力のコントロールに想像力は欠かせません。姉を救って故郷に戻ったミモルにエルネアが教えたのは、力を押さえ込む手段でした。
いかに自分を抑制するか、そのためにどうすれば良いのか……。目を閉じて心を落ち着かせ、内側に意識を持っていきます。
新しい我が家の窓を開け放って外を眺めながら森の声を聞くと、思考が頭が冴えていくのです。その感覚を、ミモルはこの場で辿って再現しました。
風の名前を呼ばずとも、透き通った少年の姿をした精霊が願いに応えて現れ、少女に寄り添います。大気の塊が闇を吹き飛ばす――はずでした。
「ぐっ」
ぱぁん! 彼女は黒い腕で風を受け止め、弾き飛ばしました。破裂音が辺りに響き渡り、体を揺さぶります。
「……そんな」
土煙の中、敵は悠然と立っていました。やや圧されはしましたが、それだけです。
威力も速さも力を扱い始めた頃より数段上がっているはずのミモルの攻撃は、あっさりと防がれてしまいました。
「ミモルちゃん、駄目よ。何をしても効かないわ」
「どういうこと?」
ミモルが冷や汗を垂らしながらエルネアを見詰めると、彼女もようやく気が付いたように滴る血を振り払いました。教会に植えられた植物の葉を、赤い斑点が彩ります。
「あれは消滅の能力者よ。何もかもを消してしまうの」
つまり、今もミモルの起こした風を防いだのではなく、消してしまったというのです。敵はほう、と感心してみせました。
「たったあれだけで見破ったか。これは、あまり引き伸ばすと不利と見える」
「あなた、人間でしょう。どうしてそんな力を持っているの」
返事はありません。ただ、残酷な笑みが口元に広がっていきます。一歩黒衣の女性が前に出、同じ歩数だけミモル達が下がりました。
消滅の能力が、どれほどの威力を持った力なのかは分かりません。言えるのは、彼女には自分達の存在そのものまで消してしまえるかもしれないということです。
「エル、見当も付かないよ。こんな相手、どうやって――」
ふいに、音が戦場を支配しました。
「これは、歌……?」
それも高い、女性のような声です。か細いのに、しっかりと耳に入ってきます。歌声は緩やかな旋律を描きながら、三人を包み込みました。
「……ぐっ」
敵がどさりと膝を付きます。頭を押さえて、何かに耐えているようです。
「何が起きたの?」
「直接、脳に振動を送っているんだ」
ミモルとエルネアが同時に振り返ると、歌が止んで、やや低い声がしました。
「どんなに強さを誇示する者でも、頭の中を揺さぶられるのは我慢ならないはずだ」
三つ編みに結った、長い紫の髪が背中で揺れています。閉じられていた目蓋から髪と同じ色の瞳が現れ、唇が薄く開かれます。
すると、一度止まったメロディが再び生まれました。
「……うそ」
ティストが立っていました。意識が朦朧としているのか、虚ろな表情をしています。
その後ろに、少年を包み込むように両腕と、そして翼を広げた青年がいました。そう、10代後半にも20代前半にも見える外見の若い男性です。
しかし、彼の歌声は女性のように高く、同時にとても清らかでした。
「召喚が成功したのね。あれは声を司る天使だわ」
異質な光景のはずなのに、違和感はありません。まるで光の帯が見えるようです。その光に苛まれ、女性は身悶え、激しく苦しんでいます。
そうか、とミモルは納得しました。
「声は触れない。だから消すことも出来ないんだ」
「それに、こうも苦しくては術を編むことも難しいでしょうね」
この状況を打破するには天使そのものを消滅させる必要がありますが、エルネアの推測どおり、それほどの力を溜めて放つ余裕が相手にはありませんでした。
「一度だけ言う。――立ち去れ」
ふっと音が止み、途端、教会の影に溶けるようにして闇が消えました。
「しっかりして、ティスト!」
「……ん、あれ」
肩を掴んで揺さぶると、半分ほど開いていた少年の瞳に光が戻りました。よろめく彼をその場に座らせ、状態を見ます。
「外傷はなさそうね。でも、消耗しているわ」
無理もありません。召喚と同時に天使は力を発動させなければならなかったのです。その負荷を受けたのでしょう。そして、ミモルをそっと下がらせる気配がありました。
「ティスト様」
響きはまたも外見通りの男声に戻っています。
主人のぼんやりとした視界に入るように、彼は膝をついて覗き込みました。紫の前髪が揺れ、奥から心配そうな瞳の色が現れます。
「だれ?」
天使は少年の左頬に触れて言いました。
「俺の名はナドレス。あなたの守護者だ」
「守護者……。僕を、何から守ってくれる?」
「脅かす全てから」
ミモルはこの光景を前にし、青年の言葉が真実であることを痛感していました。
天使は守護者です。体を張り、命をかけて災厄を退け、邪な思惑を消し去ります。
「本当だよ。天使は何からだって、守ってくれるんだよ」
「ティスト様。さぁ、最初の命令を」
命令と言われて王族としての自分を意識したのでしょうか。少年は目を見張り、足に力を込めて立ち上がりました。唯一無二の僕をしっかりと見下ろします。
互いに一切目線を外さず、すぅと息を吸い込む音がしました。
「王と、この国を助けて」
「御心のままに」




