第四話 助けを求めるもの
多少走ったところで、人が垣根のように連なる大通りでは容易に追い付けるものではありません。
真っ直ぐ進むことを諦めたエルネアは、回り込もうと脇道を選んで入りました。ぐっと喧噪が遠ざかります。
狭い通路の両側には住居が建ち、窓や繋がれた縄から洗濯物がはためいています。
王都という光はあまりに強力なのでしょう。華やかな表の世界から隠され、日陰に追いやられた庶民の生活を、その褪せた布が語っているように感じられました。
「……教会?」
通りの声よりも自らの足音が際立つようになった頃、それは目の前に現れました。
協会。信仰の場であり、かつて国家という括りが存在するより以前から、人々の心の拠り所だった場所。神の膝元……。
鉄柵の中では赤い小さな実を付けた腰丈の植物が植えてあり、白塗りの壁はところどころ黒ずんでいます。
「……」
エルネアは引き寄せられるようにして木の扉を押し開きました。色とりどりの光が訪問者を出迎えます。ステンドグラスが陽の光を浴びて美しい絵を描いていました。
長椅子が並ぶ建物の中は予想よりも広く、その間をゆっくりと歩いていきます。正面で全てを包み込むように腕を広げる像の前で、足を止めました。
「女神像かしら」
長い髪を持ち、薄布を纏った女性の像です。周囲に羽を生やした者達を従え、温かい表情が掘り込まれています。
「どことなくディアル様に似ているかも」
ディアル――この名こそ、知を司り、エルネアを遣わした神の名でした。彼女は深い蒼の髪を靡かせる主神の横顔を思い出します。
「あ、やっぱりここにいた!」
驚いて振り返ると、肩で息をするミモルが扉を開いて入ってくるところでした。はぐれたことに気が付き、気配を辿ってきたのでしょう。
「離れるなって言ってたのに、ごめん。ムイも何処に行ったのか分からなくなっちゃったし……」
「良かった。ちゃんと戻ってきてくれたのだもの、十分よ」
エルネアは頭を下げる彼女の肩に手を置きました。人が出払っているのか、教会は空のようです。
息を整えたミモルは物珍しそうに見回し、しばし七色の光に目を奪われていました。
かたん、と何かが音を立てて、元の世界へと引き戻しました。
「誰?」
「あ……」
扉に手をかけたまま立っていたのは、ミモルと同い年くらいの少年でした。淡い碧の瞳でこちらを見ています。ミモルの故郷では見かけない珍しい色です。
彼は瞳と同じ髪を持ち、服の上からすっぽりと覆う薄茶のマントを羽織って、合わせ目を強く握り締めています。
しばらくはお互いに黙ったままでしたが、やがて少年が切迫した様子で言いました。
「た、助けて!」
「え、どうしたの、何かあったの?」
いきなり見ず知らずの自分達に助けを求めてくるほどだから、余程のことがあったのでしょう。しゃくりあげそうになるのを必死で堪えているのが窺えます。
「私はミモル、こっちはエルネア」
近寄り、心を落ち着かせようとにこりと微笑むと、彼もいくらか冷静になれたようです。
「ぼ、僕はティストって言うんだ」
ミモルはどこかで聞いたことのある名前だと思いました。でも、無言で話の先を促します。
「僕、逃げてきたんだ。このままじゃ、この国が大変なことになると思って」
「待って、国が? どういうこと?」
最初から説明してと、しゃがみこんだエルネアが肩を掴んで顔を覗き込みました。何か恐ろしいものが、彼の小さな肩を震わせています。
ミモルは目の前の少年から伝わってくる青みがかった感情を受け止めていました。深い悲しみと、怖がる気持ち、それと怒りです。
「具体的に話してよ。力になるから」
「……本当?」
「放っておけないもん。それに、本当にこの国が危ないなら、住んでいる私達も無関係じゃないよ」
「そうね」
笑顔で返しました。
国との繋がりなど、普段は税を納める時に感じる程度のものです。それはこの国の基盤がしっかりとしているからです。もう何年も、戦争の話も聞きません。
広い領土を持った、豊かで安全な国だとミモルは思っていました。
「ねぇ、ティストはどこから逃げてきたの?」
彼は目を伏せてやや逡巡して、他に誰もいないことを確かめてからはっきりとした口調で告白しました。
「お城から。僕はこの国の王子なんだ」
「お、王子様!? ご、ごめんなさい。あの、お許し下さい」
森育ちの自分には一生縁がないと信じ込んでいた相手が突然現れ、ミモルは慌てて頭を下げます。貴族だって、礼を欠けば罰を受けると彼女でも知っていました。
顔から血の気が引いていくのを感じます。二人並んで磔にされる様を思い描いてしまい、屈めた背中から汗が噴き出ました。
「王子様。知らなかったこととは言え、失礼致しました」
エルネアも畏まった口調で話しています。ただし、こちらは軽く一礼をしただけでした。
「跪かぬ無礼をお許し下さい。膝を付き、頭を垂れるお方は、この世でただお一人と決めておりますので」
少女はどきりとしながら話を聞いていました。自分のことをそんな風に言われると焦ってしまいます。エルネアは家族です。跪かれたいと思ったことなど一度もありません。
慌てたのはティストの方でした。両手を振っています。
「お願いだから、やめて。二人は何も失礼なことなんてしていないし、かしこまる必要もないよ。僕は確かに王子だけど、今はただのティストとしてここに居るんだから」
そう言われ、ようやく二人とも緊張を解きました。
「じゃあ、話を聞いてくれる?」
「もちろん」
誰かに相談したくてたまらなかったのでしょう。一度開いた口からは、とめどなく言葉が溢れてきました。
「変だと感じたのは半年ほど前なんだ。どこか、周りの人間の雰囲気が違うような……。最初は気のせいだと思った。僕ももう十一歳だし、子ども扱いされなくなっただけだと」
ミモルはびっくりして彼を良く観察しました。ミモルには垢抜けた王宮育ちの彼がとても大人びて見えたのです。
「私も十一だけど、まだまだ子どもだよ。エルがいてくれないと何も出来ないし」
「この国では十五が成人だから。そうしたら僕は王位を継いで国王になる」
少女は腕を組み、必死に四年後の自分を想像してみました。今より背が伸び、世の中を知って、多少はエルネアの手助けが出来るようになっているかもしれない未来を。
「う~ん、あと四年じゃあ、一人前になんて絶対なれっこないよ」
「あら、そんなことはないわ。ミモルちゃんなら立派な大人になれるわよ」
「もう、また持ち上げて。自分のことくらい、ちゃんと分かってるよ」
膨れてみせて、すぐに笑いました。彼女と軽口を叩ける瞬間は、距離が縮まった気がして嬉しいものです。
「いいな。僕の周りには、そうやって一緒に笑ってくれる人がいないから」
「え……王子様だったら、召使いや臣下がいっぱい居るんじゃないの?」
「みんな、僕を王子としてしか見てくれないからね」
少年の瞳からは淋しげな色が拭えません。苦笑していた口元が引きつっています。
「お城の中には相談出来る相手がいなくて、飛び出してきたんだ。でも、街に出て気が付いた。どこにも行くところなんてないことに」
気が付くと、自然と足が教会に向いていたのだと言います。
「あとは神様に助けて貰うしかなかったんだ」




