第二十九話 かけたピース
エルネアは振り返って、少し頬を膨らませてみせました。
「もう、ミモルちゃんたら……。あんまり心配をかけさせないで」
「ごめん」
空気の流れが変わります。少女も謝りながら頭の後ろをかいていて、随分と軽い調子です。これからの動きを相談し始める二人に、ネイスは呆気に取られました。
「待って下さい。本気で、門を開く算段をしているんですか?」
あぁそうか、と捩れを先に感じたのはエルネアで、すぐに「ごめんなさい」と頭を下げます。怪訝そうなネイスに、二人が苦笑いをしました。
「うっかりしていたわ。分からないわよね」
「そ、そうだよね」
大事な点を忘れていたのです。彼が話を聞いていたとしても、それはあくまで三人の表面上のやり取りに過ぎないことを。
「私達は繋がっているわ。声に出さなくても、自分の考えを伝えることが出来る。マカラにも、そしてあなたにも聴こえない『声』で話をしていたの」
「……成程。半分は合点がいきました」
怪我の具合もさして悪くはないようです。治療で我を取り戻したネイスの提案で、三人は椅子に座り直しました。
エルネアの足元にはやはりカップが落ちて欠片が四散し、中身だった雫が周りに広がっています。
「それで、一体何を打ち合わせていたのですか?」
ミモルはどこから説明したものか考えあぐね、腕を組みました。
「私が扉を開ける代わりにダリアを返して貰おうって思ったのは本当だよ。最初だけ、だったけど」
姉の窮地と行く末を聞かされ、自棄気味な思いに捕らわれたのは事実です。しかし、マカラが現れて話をしているうちに、考えが変わったのです。
「気が付いたでしょ? マカラは……大事なことを忘れてるって」
彼女はひたすらに天への憎しみを吐き捨てていました。
「マカラはニズムのことを凄く大切にしていたはずなのに、何も言わなかった。それは、おかしいんじゃないかなって思ったの」
本が好きな少年の元へやってきた天使は、彼のためにたくさん集めて読ませていました。
本は簡単に手に入るものではありません。強い想いがなければ無理なことです。それに、と更に少女は続ける。
「ネイスに暗示をかけきれなかったのって、ニズムに似てたからじゃないかな?」
言われ、彼は自分の頬にそっと触れてみました。
「確かに、少年の頃の彼と背格好や髪の色は似ているかもしれませんが」
「雰囲気も似てるよ。最初に会った時、私もニズムのことを思い出したし」
だから、彼女の憎しみの原因に、ニズムが関わっているのではないかとミモルは思いました。
記憶は戻らなくても、悪魔の心を縛り続けているのは、かつての主の影かもしれないと。
「成程。二人の間に何が起こったのかを突き止められれば、事態を収拾する取っ掛かりになるかもしれない、ということですね」
二人が深く頷き、エルネアが言いました。
「マカラの憎しみはとても強いわ。そんな憎悪を止められるとしたら、かつてのパートナーだったニズムしかいないでしょうね」
全員がふぅ、と息をつき、前かがみになっていた体重を背もたれに預けます。一度に多くのことがあったせいで、心身ともに疲れてしまいました。
「あとはニズムにどうやって会えばいいのか、なんだよね」
夢とも現ともつかない世界で会ったのは一度きり。それも、ニズムの方からの接触でした。こちからから連絡を取る方法など、思いつくはずもありません。
「あの時は二人が再会する絶好の機会だったはずよ。でもマカラは逃げてしまった。記憶が不完全でも、何かを感じ取って警戒したのかも」
だから、これから先、同じようにニズムからコンタクトがあってもマカラがまた逃げてしまう恐れがあります。
「やっぱり、私達でなんとかしなきゃ駄目だよ」
「……では、旅を続けられるのが良いでしょう。いずれにしろ、今までのルートから外れたことを始めれば感付かれます。正体も分からない相手を探すより、まみえることがはっきりとした方を相手にした方が確実ですしね」
「なら……」
三人はこの日遅くまで作戦会議を行い、翌日別れを告げました。
ネイスと別れ、再び地上へ戻ってきたミモル達が現れたのは、空に浮かぶ建物の入り口でした。精霊の姿はなく、彼女達も挨拶しようとは思いません。
契約が完了した今、喚べば、いつでも会えるからです。透ける地面を蹴り、エルネアの羽で舞い上がりました。当初の目的地だった対岸を目指します。
「風が強いわね」
彼女の声は、冷風に晒されてもよく聞こえました。肉声と心の声の両方を送ってくるからです。全身でそれを受け止めていると、寒さが和らぐ気がします。
「私、やってみる」
向かい風が強いと、彼女だって飛びにくいでしょう。ミモルは自分に出来ることがないかを考えているうちにピンときました。片腕を、何かを求めるように差し出します。
「ウィン!」
風の名を呼ぶと、傍で空気が寄り集まる気配がありました。それは少年を形作り、やがて精霊が姿を現します。
「力を貸して!」
水面上を走るように飛ぶウィンが、瞳を光らせて頷きました。すると、頬を叩く風が撫でる感覚に変わり、冷たさも治まります。
まるで見えない膜が二人を包んでいるみたいです。ウォーティアの力で水中に潜った時と、似た力が働いているのでしょう。礼を言うと、再び少年は霧散して消えました。
「凄いわ。力を使いこなせるようになってきているのね」
「う~ん、そうかな?」
ミモルはそう言ったけれど、褒められたのはやはり嬉しいことでした。
旅立つ前後の自分は本当に何も出来ない存在でした。ルアナに育てられ、エルネアに助けられてここまできたのです。
激しい喪失感と、力の覚醒からくるぼんやりとした意識から抜け出すのさえ、かなりの時間を要してしまいました。
「全部、エルのおかげだよ」
「そんなことはないわ。私がここに居られるのは、あなたが居てくれるからだもの」
天使は主となる人間がいて初めて、この世界に存在することが出来ます。
彼女はそのことを言っているのでしょうが、ミモルには素直に感謝を受け入れられない理由がありました。
「ううん。だって、私が主じゃなかったら、こんな苦労をしなくて済んだかもしれないでしょ」
「……」
「私、頑張る。早く全てを終わらせて、ダリアと……エルと暮らせるように」
「そうね。一緒に頑張りましょう」
そこから更に飛行は続きました。陽が落ち、空が赤や黄色から深い青へと変わっていく様は、森から眺めるのとは異質の優しさがある光景でした。
「あふ……」
暫くそうしていると、ミモルは欠伸を噛み殺すことが出来なくなった自分に気付きました。
疲れから口数も減り、目蓋の重みを感じずにはいられなくなっていきます。エルネアは目を細めて、「眠っていていいのよ」と囁きました。
「でも……」
目を懸命に開こうと思っても、すぐに降りてしまいます。返事を呟く最中も暖かい声と感触で眠気が増してきます。
「大丈夫よ。おやすみなさい」
それきり、ミモルは眠りの中へ落ちていきました。




