第二十三話 聖女とせいいき
気が付けば、そこは元の城の中でした。先に体が戻り、次いで精神がゆっくりと器に浸透していくような、ずれた感覚を味わいます。
それがきちんと納まったと感じた瞬間、無意識に大きく息を吐き出している自分に気が付きました。
「戻ってきたのね?」
エルネアが不安そうに問いかけてきます。おそらく自分は意識を彼方へ飛ばしている間、虚ろな表情をしていたのでしょう。光が宿った瞳でパートナーを見上げ、こくんと頷きました。
「見たよ。森に誰かがいるところと、エルとチェクが何か辛い決断をしているところを」
「……決断」
天使は形の良い顎を傾け、あらぬ方向に探し物を求めました。見付からない物をあえて追求するように目を閉じます。しばらくして、頭を振って言いました。
「駄目。思い出せないわ、ごめんなさい」
「無理しなくていいよ。忘れているのはエルのせいじゃないんだから」
ここまで来られたのは彼女のおかげです。ミモルは心からそう思っていたから、優しく腕に触れて慰めました。
「でも、どうしよう。このまま今まで通りに旅を続けて、間に合うのかな」
不安が口から零れます。焦りを感じるのは、知らなかった事実を突きつけられたせいに他なりません。
知れば知るほど、焦燥に駆られるのです。ミモルはふいに思いついたことを尋ねました。
「精霊は、あと何人いるの?」
結局、新しい手立てがない限りは精霊と契約して力を付けていくしかないようです。エルネアの憂鬱そうな顔から察するに、まだ先は長いのでしょう。
だからせめて、その長さを知っておきたいと思いました。それが即ちこの守護者と共有するべき時間でしょうから。
しかし、彼女の返事は意外なものでした。長く艶やかな睫毛が揺れます。
「あとは雷を司る精霊に会えば終りよ」
驚きが伝わったのでしょう。エルネアは改めて少女に向き直り、頬に触れました。
「雷の精霊と契約を交わした瞬間、認められた印が与えられるはずよ」
「印? 私、ちゃんと認めてもらえるのかな……?」
指先の温もりに溶かされたみたいに、言葉が落ちてきました。
「怖がらなくても大丈夫。試練はそこに辿り着くまでの経緯そのものだから」
ミモルには良く分からない話でした。ただ、エルネアには微笑が戻っていて、それが心を落ち着かせてくれます。
おもむろに外を見ると、日が傾きかけています。透けた建物の中から黄色がかった輝きを浴びて、二人は出立することにしました。
入り口に立つと、海風が体を貫くようです。髪が弄ばれ、外だと実感します。けれども、旅立とうとするミモルをメシアが呼び止めました。
「待て。もしかしたら、俺達の力が役に立つかもしれない」
意図を掴みかね、少女は首を傾げました。弟の言葉を姉が引き継ぎます。
「ここまで来られたのだから、十分な素質があるでしょう」
「素質って……何の?」
「『扉を開く力』だ」
少女の肩が微かに震えました。
「それって、エルと出会った時の――」
そしてダリアがマカラを呼び出してしまった力、とは声が続きませんでした。肉親を失った恐ろしい光景を思い出し、精霊と合わせていた焦点がぶれます。
エルネアはそんな心を察し、肩を抱き寄せました。
「あれは、扉を開く力の中でも最初に目覚めるものなの。異なる世界から何かを呼び寄せる『召喚』の力よ。メシア達が言っているのは、それ以上のことね」
「それ、以上?」
「何かを呼ぶのではなくて、ミモルちゃん自身が次元を超えて飛ぶのよ」
そんなこと出来るのでしょうか。エルネアを喚ぶのだってやっとだったのに、まさか自分がこの世界の外に出るなんて思いもしませんでした。
「俺達が光と闇の間を示して導く。あとは天使のサポートがあれば飛べるはずだ」
「待って。飛ぶって、どうして急にそんなこと」
ミモルは慌てて、話を進めようとするメシアに割って入りました。
「エルが住んでいたのは神様の世界でしょ? そこに私……人間なんて入れるの?」
神々が治め、天使が舞う楽園。ミモルとて、行ってみることが出来れば良いのにと思ったことはあります。でも、天使は首を振りました。
「天に人が入れるのは、魂が肉体から離れた時だけよ。生きたまま入ろうとしても弾かれてしまうわ」
がっかりすると共に恐ろしさも感じました。「魂が肉体から離れた時」とは、つまり死んでしまった時という意味でしょう。まだ何も達成していないのに、死ぬわけにはいきません。
「開くのはその扉じゃない」
「じゃあ、もしかして……地の底? い、嫌だよ、そんなところに行くの」
ミモルは地下からわき上がってくる、どす黒い気配を思い出して身を竦ませました。
「それも違う。開くのは――聖域への扉だ」
「せいいき?」
「名前の通り、聖なる場所よ。聖女が住んでいるの」
初めて聞く名前です。パートナーが説明を加えてくれたことで、ミモルは瞳を見開きました。
「それって、ルアナさんもそこに住んでいたってこと?」
育ての母親は「聖女」と呼ばれていました。不思議な力を持っていましたし、異界への扉を開く儀式も知っていました。
「聖女って何なの? ……人間じゃないの?」
今まで聞くに聞けなかった疑問を、ミモルは口にします。彼女は自分とは違う存在だったのでしょうか?
「聖女とは、至らなかった者のことだ。人より感応力に優れ、特殊な術を行うことも出来るが、自ら扉を開けなかった存在。導き手でもある」
「どういう、こと?」
「パートナーを得られなかった、ということよ」
「じゃあ、ルアナさんは……」
エルネアの言葉によって、メシアが何を言おうとしたのかを理解します。ミモルは、母親を哀れに思わずにはいられませんでした。
「何をするって言うの? 今更、聖女について知ったって遅いじゃない。そんなことより、一刻も早く最後の精霊と契約してマカラを倒す方が先だよ」
気持ちがささくれ立ち、ぞんざいな言い方を止められませんでした。
何が素質を決めるのかも、誰が選ぶのかも知りません。それでも、自分が辿り着けなかった高みへ安々と登り詰めた娘を、彼女はどんな気持ちで見ていたのでしょうか。
訊ねることさえ出来なくなってしまった今となっては、色々なことが酷く無意味に思えます。けれどもメシアは気分を害した様子もなく、冷静に言いました。
「聖域の主なら、悪魔を払う方法を知っているかもしれない」
「本当?」
俯きかけた顔が上がります。黒い髪の精霊は静かに頷きました。
「聞いてみる価値はある。それに天使の記憶を呼び覚ます術も、持ち合わせているかもしれない」
降ってわいた、思いもかけない言葉にミモルは呆気に取られました。それは、胸の内に燻っていた怒りも消えてしまうほどの衝撃でした。




