第二十話 光のひと
「な……何あれ!?」
その先は唇から滑り落ちてしまいました。興奮からバランスを崩し、慌ててエルネアの肩にしがみつきます。それでも目を離すことはできませんでした。
「びっくりした?」
「……建物が浮いてる!」
ひどく断片的な表現でしたが、まさしくその通りだったのです。水平線の上、家ひとつ分程度の高さのところに、ぽっかりとそれは現れました。
水の色を含む、透き通った細長い建物。まるでガラスかクリスタルで出来ているかのようです。それは日を浴びてきらきらと輝き、同時に向こう側をも見せていました。
「みんなびっくりしそうだね」
「普通の人には見えないはずよ」
エルネアは軽く羽ばたき、高度を上げました。どんどん建物が近づいてきます。
入り口を確認出来る距離まで来たところで、想像より小ぢんまりとした建造物だと気がつきました。
「私の家より少し大きいくらいだね」
「さ、入りましょう」
入り口も青く澄んだ海色をしていて、建物はたくさんの柱が集まって出来ているようでした。
「勝手に入っていいの?」
「大丈夫よ」
エルネアは笑って、柱の間を抜けるように城へ滑り入ります。一瞬の浮遊感の後、足を地面に付けると、ミモルは少しよろけてしまいました。
「疲れたみたいね」
「ううん。エルの方が疲れたでしょ」
二人の会話も靴音も、クリスタルの壁に幾重にもこだまします。
あんなに日を取り入れてはさぞ眩しく暑いだろうと思っていましたが、ちょうど良い明るさで、むしろひんやりと涼しいくらいでした。
「ねぇ、ここは何なの?」
我慢できず、うろうろと眺めまわりながらエルネアに問いかけます。ですが、その応えは後ろにいる彼女からではなく、何故か前方から届けられました。
『私の城へようこそ……』
「誰?」
洞窟を抜ける風がちょうどこんな感じでしょうか。肩が飛び上がるほど驚いたミモルは、咄嗟にそう思いながら問いかけます。
これまでの旅路で不思議な現象には慣れてしまったからか、びっくりはしたものの恐れは抱きませんでした。
「あなたの家で少し休ませて貰ってもいいかしら?」
奥へ向かって、エルネアが問いかけます。その振る舞いに淀みはありません。まるで旧友の家に立ち寄った時のようです。
『代わりに私の願いを聞いて下さるなら』
建物と同じく透き通った高い声です。降り注ぐ神秘のように感じられ、ミモルはようやく一つの結論に至りました。
「……もしかして、ここって」
「えぇ、精霊の棲み処よ」
精霊が建物を拠点にしているなどということが、ありえるのでしょうか?
水も風も、精霊は自然そのものでした。この城に住まう精霊には、何故こんな「入れ物」が必要なのか……。
ミモルが首を傾げていると、エルネアは先に歩き出してしまい、慌てて追いかけることになりました。
奥といっても深いわけではありません。最初の部屋から進み、通路らしき部分を抜ければ、再び広い場所――次の部屋に出ました。
「あれ、誰もいないよ?」
中央に太いクリスタルの柱がそびえ立つ以外は、がらんとした何もない空間で、精霊の姿はどこにも見当たりません。
少女が目を彷徨わせていると、その様子が面白かったのか、笑い声が聞こえてきました。
『ふふっ、私はここよ』
「……あっ」
呼びかけられ、ミモルは自分が見当違いの方向を眺めていたことに気が付きます。振り返ってみれば、最初に目に入ってきた柱の中に「彼女」はいました。
エルネアより淡い金髪です。柔らかく広がろうとするそれを首の後ろで束ねていました。ゆったりとした服を腰の帯で引き締め、下はその布が長くのびて足を隠しています。
『ここを訪れる者も、いつ振りになるかしら』
柔和な目元でこちらを見下ろした女性が、ゆっくりと口を開くのを見ました。
こうして動くところを目の当たりにしなければ、クリスタルに掘り込まれた緻密な彫像だと信じてしまうに違いありません。
「こ、こんにちは。ミモルです」
その微笑に促されて挨拶をしました。ウォーティアと逢った時もそうでしたが、精霊と視線を交えて話をするのはとても緊張します。
『私はセイン。光を司る役目を預かっているわ』
ミモルは怪訝な顔をしました。確かにセインは光の精霊のイメージにぴったりの美貌の持ち主ではあります。
この城も、光のように美しいと言って差し支えはありませんが……。
『光を、というには弱いと思うでしょう?』
図星を突かれ、どう答えていいのか分からずにいると、彼女はくすくすと笑いました。
『私の願いを聞いて欲しいの』
突然、会話の流れが変わったことに驚いたものの、ミモルはすぐに先ほどの件だと気が付いて顔を上げました。城で休憩を取らせて貰う代わりに、彼女の願いを叶えるという約束です。
「わ、私に、叶えられることなら」
すでに精霊の領域に足を踏み入れ、目を楽しませて貰った身として言えるのはこんなセリフだけです。
『まずは一つ目。ここから出してくれるかしら?』
「えっ?」
呆気に取られてしまいました。お互いは瞳に浮かぶものさえ判断出来そうなほどに近いのに、その間には硬質の輝きを放つクリスタルが立ちはだかっています。
「出られないんですか?」
『城が浮いているのを見たでしょう? 私が、この城の支え。柱なの』
まさかという思いが湧き上がります。もしかして、セインはずっとこの中に居続けているのでしょうか? もしかして、この世の始まりから終わりまで?
「じゃあ、そこから出たら、この建物は落ちちゃうんじゃあ」
『あなたの助けがあれば、この城を落とさずに出られるわ』
「本当?」
『ウォーティアとの契約は?』
精霊との会話は本当に独特です。こちらの話を聞いてはいるのでしょうが、受け答えにむずがゆい思いをします。
時に、二手三手先を見据えて話を展開しているらしいその口ぶりは、少女の理解の上をいっていました。
「あ、はい。終わってます」
『では、天使エルネア。導きを』
ずっと緊張の中、見上げていたことに今更気がついたように、隣で微笑んでいるエルネアへ視線を移しました。
少し首を痛めてしまったみたいです。ミモルは顔を顰めましたが、手を引いてくる彼女に従って部屋を後にしました。
「え、出してあげないの?」
疑問が後から後から溢れてきます。エルネアは笑って「もちろん、出してあげるわ」と言いました。迷いのない足取りは変わりません。
扉から外へ出ると、潮風に頬を叩かれました。高度がある分、空気の流れが速いのです。足元には風に煽られて波打つ水面が広がっています。
顔に当たる金糸のような髪の毛を払いながら、エルネアが頷きました。セインとの会話から察するに、どうやらここで水の精霊を呼び出すようです。
ミモルは訝しげな表情のまま、息を吸い込みました。森や山とは全く違った匂いが、肺の奥まで満ちてきます。
「――水よ、呼びかけに応えよ!」
なんだろう?
声を吐き出してみて、慌てて口元を押さえました。自分の頭には、こんな威圧を振り撒く言葉は入っていなかったはずです。
『あんたが手に入れた力ってのは、そういうものなのよ』
ふいに聞こえてきた、もう一人の自分の声へ反応する前に、水音に意識を奪われます。
透き通る青みがかった肌、うねる髪、全ての水を集めたような蒼い瞳……この海を創った張本人が二人の前に現れていました。




