第十八話 さばくの変容
「エルっ!」
細身が盛大に蹴り上げられました。そのまま金髪を振り乱して横へ転がるのと、悪魔が空へ飛び上がるのとはほぼ同時でした。
「興醒め。今日のところは引いてあげる。じゃあね」
「待って、ダリアを返してっ!」
羽ばたきから生まれる風が声を掻き消そうとします。それでも捕まえたくて、ミモルは手を伸ばしました。
『力を貸そう』
耳にそよいだのは誰の声だったのでしょうか。疑問より前に体が動いて、手に集まってきたそれを相手へ放ちました。
「なっ」
一筋の風が、槍となって漆黒の翼の片方を貫きます。ぽっかりと握りこぶし大の穴が開き、空気を孕む力を失った影が悲鳴と共に崖下へと落ちていきました。
『ちょっと、やり過ぎたんじゃない? あいつ、ただじゃ済まないわよ』
驚いているのはもう一人の自分も同じらしく、焦った声が頭に響きます。
「そんな……」
ミモルは手のひらをじっと見つめたあと、襲ってきた震えに耐えかねて自分を抱きしめました。
ただ、ダリアの居場所を教えて欲しくて必死だっただけなのに、こんなことになるなんて。疑問や後悔、不安などの様々な感情が一気に押し寄せて、目に涙が滲みましだ。
『助けたいか』
「……ウォーティア?」
予想もしていなかった声に顔を上げると、空中に透けた体の女性――水の精霊・ウォーティアが現れ、問いかける瞳をこちらへと向けていました。
「どうして、ここに?」
『望まれたからだ。お前はどうしたい』
先ほどのセリフが頭の中で繰り返されます。『力を貸そう』と言ったあれは風の精霊の声だったのかと、ミモルは今更ながらに思いました。
気配を感じて振り向けば、少年がこちらをじっと見詰めています。精霊とは力そのもの。その事実を少女は肌で感じ取りました。
彼らは契約した相手の要請に応えて助力はしてくれますが、その力をどう使うかは全て自分にゆだねられているのです。強く唇をかみ締めました。
「……助けたい。憎い相手だけど、マカラがいなくなったら永遠にダリアと会えなくなるかもしれない。そんなのは嫌だから」
『了解した』
止んだ風が再び吹き荒れる時にように、ゆっくりとした時間が急速に戻りました。それを感じさせたのは、地鳴りと微かな揺れでした。
「何が起こったんだ?」
エルネアを介抱しに駆けつけたヴィーラを支え、ネディエが膝を折ります。しゃがんで大地にしがみついていないと、マカラの二の舞になりそうだったからです。
「分からない。でも、……来る!」
どどどどど……! ありえない光景に視線が張り付きます。地平線の向こうから競り上がって来たのは、人の丈をゆうに超える高さの水の波でした。
何もかもを飲み込む激しい濁流が砂漠を覆っていく様を、彼女達はただただ見つめます。リーセンだけは、「滅茶苦茶ね」と呟きました。
『水が衝撃を和らげた。悪魔ほどの生命力があれば、生き延びているはずだ』
「う、うん。ありがとう」
「……ありがとう、じゃない。海だぞ、海が出来てるんだぞ! これを街に帰って、みんなにどう説明すれば良いんだ?」
冷や汗混じりに礼を述べるミモルの横で、ネディエが慌てふためきました。
彼女の言うとおり、崖の下の砂漠は元の姿をとどめておらず、今は向こうの方まで水平線が果てしなく続いています。
「ま、まぁまぁ。マスター、なんとかなりますよ」
「なるか! 隣町との行き来を復旧させるために来たのに、これじゃあ当分無理じゃないか」
『望みは叶えた。これで失礼する』
「待て待て!」
叫びも空しく、水の精霊は霧となって消えてしまいました。ヴィーラの治癒によって回復したエルネアも、暴れる少女を前に苦笑を隠せないでいます。
「砂嵐のおかげで砂漠を通る人はいなかったでしょうし、街にも被害はないみたいだから、きっと船が調達出来るまでの我慢よ」
言われてようやくネディエも気を取り直したのか、深く息を吐きました。
「……仕方ない。ルシアさんに相談してみるか」
その時、帰ろうとした一行を呼び止める者がいました。誰でもない、風の精霊・ウィンです。
悪魔の呪縛から解き放たれた彼は、ネディエの前へ歩み寄り、『契約を』と言いました。
「良いのか?」
手を取って風を身に付けようとする友人の横で、ミモルは解放した瞬間に感じた風を思い出していました。
「結局、振り出しに戻っちゃったね」
マカラはどこかで生きているでしょうが、それは何の解決にもなりません。かろうじて悪魔ごと姉を失う最悪の結末を回避しただけです。
落ち込む少女に、エルネアははっきりと首を振りました。
「今回はウィンを助けて、マカラを追い払えたんだもの。確実にミモルちゃんは強くなってるわ。旅を続けましょう。力が足りないなら、他の精霊とも契約して高めていけばいいのよ」
これまで強くなりたいと望んだことはなく、むしろ己の力が恐ろしいものだと知るばかりでした。
けれど、家族を取り戻そうと続けてきた旅の間に、ここままで良いのかという不安が首をもたげてきたのも事実です。
「……うん。頑張る」
悪魔と対峙する毎に感じるのは無力感で、それを克服する手立てがあるなら手に入れたいのです。
つまづくことがあっても、この優しいパートナーの手を借りられるのなら、また立ち上がれるとミモルは思いました。
砂漠が海に変わった前代未聞のニュースは、瞬く間に街中へ広がりました。怪しげな噂になる前に、ルシアが正式に発表したからです。
まずはお金持ちや街の有力者達を塔に呼び、それから広場で人々に静かに伝えました。いずれも内容は簡潔で、「神の声を聞いた。あの海は神の恵みだ」、ただそれだけでした。
「大丈夫なの?」
ミモルが心配顔で訊ねると、本来の姿を取り戻した領主はあっけらかんと「嘘はついていないもの」と言い放ちました。
こういう時は何を言ったところで混乱は避けられません。大きく構えている方が、良い方向に進むものらしいのです。事実、住人達はそれで納得してしまいました。
わいてきたのが疑問や抗議、非難ではなく、今後の対応策がほとんどで、外から来たミモルは驚かされるばかりでした。
元々、占いを信じて生きている人々だから、物事をありのままに受け止める柔軟さを持っているのでしょう。
「多少はゴタゴタするでしょうけど、そんなの、どうとでもなるわ」
「そのようだな」
街で最も心配性だったのはネディエだったようです。それ以上、文句は口にしませんでした。
「どうする?」
領主の間でソファに腰掛けていたミモルが、隣に座るパートナーに問いかけました。
懸念していた混乱も起きないようなのであれば、先に進みたいのです。眼差しを受け、彼女も金髪を揺らして微笑みました。
「そうね。今日は休んで、明日改めて出発しましょうか」
彼女の提案通り、その日は再び塔に泊めてもらうことにしました。ベッドに入ると、一気にだるさが少女にのしかかりました。
新しい力を得たことで少なからず消耗していたという事実に、深い眠りに落ち込む瞬間、気が付いたのでした。




