第十六話 風のけしん
「行かれるのですね」
準備をすませ、ミモルとエルネアは塔の前に立ちました。淋しそうに見送るヴィーラの横で、ネディエも名残惜しそうに言います。
「ミモルに出会えてよかった」
「私も、ネディエと仲良くなれて本当に嬉しかったよ」
ここ数日の間行動を共にし、二人はすっかり仲良くなっていました。似た境遇への共感もありましたが、ネディエが誠実に接してくれたおかげでもあります。
「また来ても良い?」
「もちろん。ルシアさんも待ってると言っていた」
「……ありがとう」
じゃあね、と踵を返し歩き出そうとしたところへ、兵士の一人が駆け込んできました。そのただならぬ様子に、こちらの足も止まります。
「どうした?」
全速力で走ってきたのでしょう。肩を激しく上下させる兵士は、顔に汗をびっしりとかいていました。息を吸い込み、勢いに任せて一気に吐き出します。
「西の砂漠で嵐が発生し、物資の輸送が滞っているとのことです」
「何だと?」
「私は領主様ご報告に参ります」
「分かった。頼む」
彼は頷くと、そのまま塔の中へ消えていきました。
「エル……」
心配な瞳を向けると、エルネアも頷きます。
西といえば、これから二人が向かおうとしている方角でした。塔からは草原と林が見えましたし、その先に砂漠が広がっていることも地図で確認済みです。
「街は大丈夫なの?」
「嵐は毎年のことなんだ。が、今は時期じゃない」
慣れているはずのネディエの渋面に、ミモルが「どういうこと?」と問いかけました。
彼女の説明によると、今年の嵐の時期はもう過ぎているらしいのです。おかしい、としきりに首をひねっています。
「どうしよう。先に進めなくなっちゃったね」
俯くミモルの肩を、エルネアがポンと叩きました。
「安心して。ミモルちゃんは私が運ぶから。どんなに強い嵐だって、届かない上空まで上がれば関係ないもの。……でも」
「えぇ。放っては置けません。物資の輸送が滞れば、街の人達は困ってしまいますし」
物が届かなければ生活に支障が出ます。必需品が品薄になれば街の治安が脅かされるでしょうし、食料がなければいずれは飢えてしまいます。
しばらく考え込んでいたネディエが息を小さく吐き、ヴィーラに振り返りました。
「ルシアさんに伝えてきてくれ。調べに行ってくる」
「何、この音?」
ざくざくと四人の足音が鳴っては、地面に吸い込まれていきます。
街を離れ、振り返って見えるのが塔の先だけになる前に、開けていた視界は木々に遮られました。強い風の音が聞こえてきたのもその頃です。
「砂嵐だろうな。私も近付くのは初めてだ」
「こんなに凄い音がするの? 近寄って大丈夫かな……」
ネディエの先導で林を歩きます。一行は嵐を見極めるために、旅人用に整備された道を使わず、砂漠を見下せる丘を目指し、あえて険しい道を進んでいました。
「景色はきれいだね」
この辺りの木は季節の変化に左右されない、葉が落ちにくい種類が多いようです。落ち葉の絨毯はなく、大地は褐色の地肌がむき出しでした。
根のそばには、色とりどりの傘が付いた植物が自生しています。
「毒があるから触っては駄目よ」
鋭い声に、腰を落として触ろうとしていたミモルが慌てて手を引っ込めました。
「うちの森のキノコは食べられたのにな」
思い出すのは義母であるルアナの手料理です。キノコと野菜を炒めて、ぴりっと辛い特製ソースをかけた一品。
舌に合わないと思っていたそれを、今になってどうしようもなく食べたくなる自分がいて、彼女はしばらく無言でキノコを眺めました。
どんなに望んでも、もうあの料理は食べられない。その事実を受け入れるのには、まだ時間が必要そうです。
「……今度、キノコ料理を作ってくれる?」
「えぇ。あなたが望むなら、いつでも何でも作ってあげる」
ぽつりともらした呟きに、エルネアが優しく答えます。「次の町へ着いたら」と言いかけた彼女を遮って、ミモルは「違うの」と続けました。
「ダリアが帰ってきたら、一緒に食べたいんだ」
「……分かったわ」
口を挟まず成り行きを見守っていたネディエ達に謝って、立ち上がります。林は広いものではなく、太陽が真上に昇る頃には目的の丘に到着することが出来ました。
木の波から外れ、短い植物に覆われた地面は、いくらも歩かないうちに途切れました。強くなってきた風は一気に突風へと変わり、髪や服の裾を無作為に巻き上げます。
「……何、これ」
砂嵐と言うからには、暴風で砂が視界を覆い尽くすのを想像していました。しかし、そこにあったのは巨大な竜巻でした。
乾いた砂を巻き上げながら、砂漠の真ん中で数本の太い筒が激しく回転しています。それが右へ左へ、まるで生き物のように移動しているのです。
「あれが砂嵐……!?」
「いや、違う。あんな竜巻……ありえない!」
どうりで轟音がする訳です。お互い叫ばなければ、声さえ届きません。横で絶句していたエルネアが、「あれは自然の竜巻じゃないわ」と苦々しく言い放ちました。
『そうだ』
「誰っ?」
風が突然、止みました。世界は何も変わらないのに、ここだけすっぽりと違う空間に包まれたかのように、音が遠ざかります。
ミモル達の目は自然と、高くて硬い声に吸い寄せられました。丘でも、後ろの林でもありません。それは――上から降ってきていました。
「浮いてる……」
その少年は頭上から、光を宿さない深緑の瞳でミモル達を見下ろしていました。
『ここから先には通さない』
上空には風が渦巻いているのでしょう。彼は瞳と同じ色の髪をなびかせ、こちらの言い分など耳に入らない様子で「引き返せ」と言います。
「あれは風の精霊・ウィンです」
「精霊?」
静かに付き従ってきたヴィーラが言い、エルネアも頷きました。精霊といえば、ミモルはすでに水の精霊ウォーティアと出会い、契約を果たしていますが、この少年も訪れを待っていたのでしょうか?
『引き返せ。さもなくば命を絶つ』
少年は抑揚のない声で三度警告してきました。右手を突き出すと、空気がそこへ収縮し、小さな渦が生まれます。
「こちらが拒否すれば、風を叩き込んでくるつもりなのでしょう」
「たかが空気と侮っては駄目よ。直撃を浴びれば、全身を切り刻まれるわ」
天使達の忠告に、ミモルとネディエは顔を青くしました。
「やめて! どうしてこんなことをするの? あなたの役目は、世界の風を管理することでしょう」
エルネアが説得に入るも、相変わらずウィンと呼ばれた精霊は顔色一つ変えません。
虚ろな瞳で、警告を無視されたことを感じた唇が僅かに、何事かを呟き始めました。
どうっ! 風とは思えない響きが耳を掠めたのと、エルネアに抱えられるようにして横へ倒れたのはほぼ同時でした。
「え、エル!」
「大丈夫よ。私が守るから」
見れば、今しがた立っていた場所は草木が抉られ、地面が凹んでいます。あんなものを受けたら、ひとたまりもありません。
そして、上空には次の一撃を繰り出そうと両腕に風を纏ったウィンの姿。
『倒す……、倒す……』
「一体、どうしたっていうのかしら」
低く小さな声が耳に飛び込んできて、ミモルははっとします。それが、どうしても彼のものだとは思えなかったのです。
自分の意思が感じられません。目の前の少年は、子どもの姿をした人形のようでした。この違和感は何なのでしょう。怒り? 憎しみ? それとも――。




