第十四話 みえない未来
『一人じゃないでしょう?』
「わ、私は」
ミハイの言葉に肩を震わせたのはネディエでした。しかし、叔母は姪を一瞥しただけで吐きすてるように言います。
「何を言ってるの。ネディエはまだ子どもじゃない。能力だって、姉さんの足元にも及ばない」
ネディエはそれを否定しませんでした。ただ唇を強く引き結び、床の染みに視線を落としています。ミハイは言いました。
『ネディエは私達の家系に初めて生まれた、「選ばれた人間」よ』
選ばれた人間。それが天使の召喚者を指すことにルシアも気付きました。
『長い年月をかけて、私達はようやく天の扉を開いた。天使の守護を得られたハエルアは繁栄を迎えるでしょう。あとは、その力が十分に発揮されるように、貴女とネディエが頑張るだけよ』
今はこの世を去った指導者は、激しい恐怖に駆られたことを告白しました。悪魔に襲われ、血だらけの翼を曝して倒れた天使を前にした時のことを、です。
「娘を、ネディエを助けて欲しかったのは勿論だけれど。あの時、私には未来が見えた。ヴィーラを失えば、ハエルアの未来に影が差すことを」
それに、と彼女は続けます。
「ヴィーラはもう、私達の家族よ。居なくなるなんて考えられなかった」
わっとルシアが泣き崩れました。緊張の糸が切れたのでしょう。長い髪が床に扇状に散らばります。
「分かってたの、分かってたのよ! でも、仕方ないじゃない……!」
あとは言葉にならなりませんでした。涙が溢れて止まらない妹の元へとしゃがみ込んだミハイが、幼子にするように優しく頭を撫でました。
「ん……」
我を失っていたミモルも、焦点が定まるのを感じました。エルネアの腕の中から見上げようとして部屋の様子が目に入り、息を呑みました。
「わ、私がやったの?」
ようやく口に出来たのは、現実を受け入れがたい気持ちから出たこの言葉です。
「ミモルちゃん、意識が戻ったのね? 良かった」
割れた硝子片、ルシアの頬の傷。どちらも覚えがあります。
エルネアの安堵の声にも、「良くない」としか答えられず、己のなした仕業に身が竦みます。
「ご、ごめんなさい。私、苦しくて……怖くて」
こんなことは初めてでした。授かった力で誰かを傷つけてしまったのも、自分が怖くなったのも。
今まで良く分からず持ち歩いてきたものが、実は刃物だったのを知った時のように、心に怯えが走ります。
「大丈夫よ」
がたがたと震えそうになる体を、天使がより一層強く抱きしめます。それは、柔らかくて落ち着く感覚でした。
『気持ちが抑えられなくなることは誰にだってあるわ。大切なのは、その後。あなたになら出来るって信じてる。私もついているから』
肉声では伝わらないことを悟ったエルネアが、心へ直接話しかけます。
「え、エル……。ありがとう」
せっかく我を取り戻した矢先に、またショック状態に陥るようでは情けなさ過ぎます。
何より、自分を支えてくれるエルネアに応えなければ、パートナー失格だという想いが、彼女を現実に繋ぎ止めました。
よろよろと立ち上がり、すっかり様子が変わってしまったもう一人の天使を見つめます。
『お願いね』
「……分かってる」
まだ余韻を残して脱力しているルシアを、ネディエが引き受けました。いくら辛く当たられても、唯一の肉親には違いありません。
母親を亡くすまでは優しい人だったことを知っていますし、憎くさえ思えた彼女を、今は哀れに感じました。ミハイが立ち上がり、二人はまっすぐに向き合いました。
『ありがとう。あなた達のおかげで、ルシアはもう大丈夫。ハエルアを安心して任せられるわ』
満足して消えていこうとする彼女に、ミモルが声をかけました。チャンスがこれきりなら、聞きたいことがあります。
「ミハイさんには未来が見えるんですよね。私の未来も、見えますか?」
自分を育てたルアナがだぶって見えました。森に生き、様々な力の片鱗を見せた義母を彷彿とさせる女性に、期待をしてしまいます。
――首は静かに横へ振られました。
ミモルはがっかりして項垂れ、ミハイの向こうで娘が絶句していたことに気が付きませんでした。
『ごめんなさい。……でも、あなたには素晴らしい導き手がいるから』
振り返ると、エルネアが笑顔で立っています。それに微笑み返そうとした刹那、冷たい風を頬に感じました。
『さようなら……』
空気がふっと柔らぎます。わき上がっていた冷気が花びらのように散ったかと思うと、もうそこに母としての姿はありませんでした。
「いったのか?」
ネディエが問いかけると、ヴィーラは「いいえ」と答え、胸のあたりを軽く抑えました。
「魂はいつもここに。肉体を捨てた瞬間、永遠の一部になったのです」
「……そうか」
長い間、追悼のような静寂がその場を支配していました。
一件の後、傾く夕日を横目に二人は今晩の宿を願い出ました。
その辺りの宿より格段に立派な領主の家には、当然のことながら客を泊まらせる場所が何部屋もあり、街一番を誇る高さからの眺めは格別です。
あてがわれた一室は領主の部屋の若干下に当たる、塔でも比較的格式の高い部屋でした。
「少しの間、ここに留まって良いかしら」
「急がなくて良いの?」
落ち着いた色合いの絨毯の向こう、入ってすぐに目に飛び込んでくるベッドは、二人で眠っても余裕があるサイズです。
久しぶりに落ち着ける場所へ来た心地よさからは離れがたかったのですが、のんびりしていられる旅でもありません。ミモルがそう問いかけたのも必然でした。
「あなたが望むなら、今すぐにでも出発するけれど……」
ふと、ミモルはベッド脇に備え付けられた窓から外へ目をやりました。
眼下に広がる景色は、家並みの屋根がカラフルで面白い地域もあれば、統一された雰囲気の一角もあります。
行き交う人々が粒みたいに小さくて、おもちゃ箱を眺めているみたいでした。
果てへ目を凝らせば、二人が歩いてきた道のりが遙か彼方に見え、感慨深い想いに駆られます。
「エルがそうしたいんだったら、反対しないよ。理由があるんでしょ?」
窓から入る夕刻の涼しい風が頬を撫でていきます。
思わずミハイが発した冷気を思い出して、ここまでの旅を思い出す微睡みの中から抜け出しました。
「まだ放っておけなくて。それに私達にも休息が必要だわ」
私達。その言葉に引っかかるものを感じ、改めてエルネアの方へ向き直りました。
荷物袋の中から衣服等を床へ広げ、丁寧に整頓し直している彼女に疲れの気配を感じてどきりとします。
「どうかしたの? 辛いの?」
慌てて近寄り、服を畳む手に触れます。いつも暖かく包み込んでくれる彼女のそれは、今はひやりとしました。
「え、何、これ……。と、とにかくベッドに」
旅支度をしている場合ではないとエルネアの体を引っ張り上げようとするも、体がだるいのか動きは緩慢です。
「大丈夫よ」
「大丈夫じゃないよ。何か変だよ。もしかして病気なの?」
天使は病気にはならないと前に言っていました。しばらく一緒に居てみて、エルネアがこんなに消耗する場面はなかったように思います。
「……もしかして、私のせい?」
返事はありません。立ち上がりかけた姿勢のまま、ふっと目がそらされます。
「隠さないでよ。ねぇ、何があったの? 教えて」




