第十二話 領主のねがい
領主の部屋の惨状は凄まじいものでした。
元は綺麗に整頓されていたであろう本が床じゅうに散乱し、グラスだったはずの硝子は割れて中の液体がこぼれ、絨毯に血のような染みを作っています。
明かり取りの窓にかけられていたカーテンはびりびりに千切られて、本来の姿が想像出来ないほどです。
「まるで嵐の後みたい」
「領主――ルシア様は奥の寝室でお休みになっています。もう、ずっと具合がよろしくなくて……」
ヴィーラが顔を顰めると、影が濃く差し込み、やつれて見えました。
具合が良くない、とはかなりオブラートに包んだ表現です。部屋がこんな状態になるまで暴れられては、とても笑顔になどなれないでしょう。
「悪魔が現れて、全てを滅茶苦茶にしてしまったのです」
領主の元へ向かう途中、階段を上りながらの告白でした。
「……マカラなの?」
「あの悪魔を知っているのですか?」
しばらくの沈黙の後にミモルがぽつりと漏らした呟きを、ヴィーラが聞きとめて振り返ります。責められているわけでもないのに、その瞳を受け止めていると辛さを感じました。
「私達は、悪魔からミモルちゃんの家族を救うために旅をしているの」
詳しい経緯をエルネアが語り、ヴィーラはその一言一言に頷きます。
特徴を聞く限り、彼女が出会った悪魔がマカラなのは間違いないようでした。彼女はミモル達を襲ったあと、この街へ降り立っていたのです。
「悪魔は突然、私の主の前に現れました」
地上に現れたばかりでまだ力が弱いマカラは、ミモルのような人間が持つ力を求めて彷徨っているうち、彼女の主を見つけたのでしょう。
「応戦しましたが、私では力及ばず……」
鋭い爪に全身を切り裂かれ、立ち上がることもままならなくなったヴィーラは、目の前で主が襲われるのを見ているしかありませんでした。
「もう駄目だと思った時、私を助けて下さったのがマスターの母親であったミハイ様です。……エルネアさんはもうお気付きでしょうね」
自嘲気味に笑い、ちらりとこちらを窺って視線を足元へ落とします。
「えぇ。あなたの髪も目も、以前は青かったわ」
「どういうこと?」
きょとんとするミモルに、エルネアが目を伏せてそっと囁きます。
「……受け入れたのね」
息を呑みました。それが、ミハイが天使に身を捧げて傷を癒したという意味だとすぐに気付いたからです。
「そんなことが出来るの?」
「それだけ優れた能力の持ち主だったのでしょうね」
「おかげで悪魔を不意打ちという形で退けることが出来ました。でも……」
事件が起こるまで、ハエルアは先見の力に長けたミハイとルシアの姉妹が治める穏やかな街でした。
ルシアは敬愛していた姉を突然失った悲しみが受け入れられませんでした。
全ての元凶はヴィーラの主だと言い放ち、手近にあった物をことごとく投げ、容赦なく暴言を吐きました。
そうして寝室に籠もって泣き、泣き疲れては眠り、目を覚ましては暴れる、その繰り返しが続いているのだといいます。
「そんな、ひどいよ。あの子は悪くないのに」
「マスターにお会いになったのですか」
察するに、先程街でぶつかった女の子でしょう。
歳もミモルとそう変わらない少女が、自分のせいで母親を目の前で失い、更に叔母から目の敵にされるなんて、どんな気持ちがするのか……。
「悪いのは……私、なのかな」
ぽつりと呟きます。力を与えられながら、姉を助けられず、母も救えなかったと。そんな落ち込みかけたミモルの思考を、エルネアが「違うわ」と制します。
「あなたは最善を尽くそうとしているじゃない。今だってダリアを助けるために旅をしているのよ。そのことを忘れちゃ駄目」
「……うん」
話が終わる頃にはいくつかの扉を過ぎ、ちょうど最上階の部屋の前へ辿り着いていました。そして見た惨状が想像以上の荒れ様だったのです。
エルネアも絶句していましたが、我に返ってミモルに残るように言い置きました。
「あなたにも危害が及ぶかもしれないわ」
「待って。会ってどうするの? 部屋がこんな有様なんだよ。話なんて」
奥の寝室へは厚いヴェールがかけられていました。そこへ行こうとする腕を取り、ミモルは強く引きとめようとします。自分に危害が及ぶかもしれないなら、彼女だって危ないに決まっています。
「心配してくれて、ありがとう。でも、大丈夫よ」
「何が大丈夫なの? 分からないよ。ちゃんと説明して――」
押し問答はそれ以上続くことはありませんでした。声が聞こえてきたからです。
『いるの……? そこに、誰か、いるの?』
ぞわぞわっとした感触が背中を駆け上がりました。低く呻くような響きに、両足が床から離れなくなります。
小さいのによく通る、支配者のみが持つ、耳への拒絶を許さない声でした。
「ルシア様。先ほどお知らせしたお客様です」
『……天使が来たのね?』
声色が興味深げなものに変わりました。ヴェールの前まで歩み出たエルネアが、「初めまして、エルネアと言います。お願いがあって来ました」と挨拶をしました。
「エル」
「……領主の職務を放棄してしまったルシアを、放っては置けないわ。トップがこれでは街は廃れてしまうもの。困るのは民達よ」
『占って欲しいのよね? 良いわよ。……代わりに私の願いも聞いてくれるかしら』
「私の力で叶えられる願いなら」
逡巡などありませんでした。間髪いれず、ルシアは言いました。
『その聖なる力で、私の姉の魂をこの世に呼び戻して欲しいの』
再び怖気が走りました。彼女は、なんでもないことのように言ったのです。生き返らせてくれなんて贅沢は言わない。ただ呼んでくれるだけでいいのよ、と。
「う……」
「大丈夫ですか、ミモルさん」
ミモルは、そのどす黒い感情にあてられて気分が悪くなりました。人の気持ちを強く感じられるようになった能力が仇になったのです。
よろける体をヴィーラに支えられながら、暗い波の中で立つエルネアの背中を見つめました。
『ヴィーラはアタシがいくら頼んでも聞いてくれないの。酷いでしょう?』
「ミハイさんの魂を呼んで、どうするつもりですか?」
『……』
ルシアは答えません。でも、エルネアには末路が見えているようです。
「……ごめんなさい。その願いは私の力では叶えられません。輪廻に加わった全ての魂は神の手の中にあって、私達が関われる領分を越えているのです」
『……』
「ルシアさん。お姉さんが亡くなったのは誰のせいでもない。まして、あなたの姪のせいでもない。怒りをぶつけては駄目。もう暴力を振るったりするのはやめて、そこから出てきて下さい」
「マスターによって喚ばれ、私はこの街の守護をしています。大地は豊かになり、街は栄えるでしょう。でも、あなたがそんな状態では、私の加護も無意味になってしまいます」
説得するエルネアに、ヴィーラも同調します。穴が開いたコップのように水は零れていくばかりで、街はさびれてしまうだろうと。
2人の物言いに気圧されたのか、奥の気配は急に静まりました。声だけではありません。ミモルを襲い続けていた影も突然、消えました。
「聞いて、くれたのかな」
案じるのと、次の動きはほぼ同時でした。
「エルっ!」
ヴェールの向こうから伸びた白い手に、エルネアは寝室へ引きずり込まれてしまいました。




