第三十七話 聖なるぎしき
それからは毎日が飛ぶように過ぎて行きました。
ネディエは、ミモルの管理下に置かれるという名目によって解放され、一足先にヴィーラと共に地上へ下ろされました。
「気を付けてね」
「そっちこそ、帰ったら真っ先に知らせてくれないと怒るからな」
別れ際の、嬉しいとも悲しいともつかない顔はお互い様です。
ミモルは友人を助けられた喜びを感じる一方、自分の身に起きた事実を受け止めるので精いっぱいでしたし、ネディエも友人を犠牲にしたような後ろめたさが拭えずにいました。
「ママ!」
ジェイレイはネディエと似た構造の別の建物にいました。違う点は、可愛らしいぬいぐるみや積み木といったおもちゃが、部屋に散らばっていたところです。
彼女は天使達に世話をされながら過ごしており、こちらもミモルが迎えに行くと一目散に胸に飛び込んできました。そっと抱き返せば、その体は少し細くなった気がします。
「ジェイレイ、ごめんね。……ごめんね」
聞けば、着いた当初は相当混乱し、泣きじゃくったようでした。誰とも口を聞かず、固い硝子窓を眺めては涙を零していたそうです。
ですが、泣き疲れた頃には置かれた立場に納得したのか、周囲の言うことを聞くようになっていったといいます。
「しんじてたよ。むかえに来てくれるって。ジェイレイ、ちゃんと良い子にしてたよ」
「……そう。えらかったね」
何度も頭を撫でてやります。純粋な心をまざまざと見せつけられ、ミモルはこみ上げる感情を抑えるのに必死でした。
あの時に手をはなした事実は消えません。幼い子どもを傷付けた過去は記憶に残り続けることでしょう。
「もうお外に出ていいんだよ」
「ほんとう?」
幼子は、ミモルが当分の間天にいることを告げると、満面の笑みを浮かべました。
「じゃあ、じゃあ、ママとパパとみんなでいっしょにいられるんだね!」
『だから誰がパパよ!』
「あはは……」
リーセンの叫びにミモルも苦笑します。まさにひな鳥の刷り込み状態で、何度言い聞かせても駄目なのだから諦める他ありません。
「さてと、じゃあ新しいお部屋に行こうか」
「うん!」
久しぶりに外へ出られた喜びより、待ち焦がれた人の訪れに嬉しさが止まらないジェイレイは、皆の回りを飛び跳ねながら「はやくはやく!」と急き立てます。
「そんなにはしゃぐと転ぶよ」
ミモルは困ったように笑って、雲の流れる空を仰ぎました。それから、残してきた自宅や故郷の森、その奥にひっそりとたたずむ義母の墓に思いを馳せます。
いつか、絶対に帰るからと。
ミモルには学ばなければならないことが山ほどありました。
ディアルからはあらゆる分野の知識を、クロノには時間を正しく紡ぐ術を、シェンテには膨れ上がる力を抑え込む方法を、それぞれ決められた手順に沿って教わっていきます。
エレメートとだけは小さな花の精とお喋りしたり、一緒に空を眺めたりして過ごしました。
「良いんですか?」
「大丈夫だいじょうぶ」
勉強や訓練らしくなく、ミモルにとっては安らぎの時間ではありましたが、これで本当に大丈夫なのだろうかという疑問も抱いていました。
時間は、こうしている間にも消化されていきます。世界の当面の危機はミモルが半分ほど解決したとして、まだ残っている問題がありました。
神々に残された時間が少しも変っていないことです。
寿命だけはどうしようもありません。彼らが去ってしまうまでに必要なことを全てを吸収しきれるなどと思う者がいたとしたら、天才か大馬鹿者です。
「……ありがとうね」
ある時、休憩時間に草原で寝そべって風に吹かれていたら、エレメートがやってきて隣に腰を下ろしました。ミモルも上体を起こして、優しげな瞳を見つめ返します。
「ミモルが来てくれて、本当に嬉しいよ」
「どうして、私だったんですか?」
思い切ってミモルは、これまで胸にしまい続けた疑問を口にしました。
人間はそれこそ星の数ほどいます。あの時見た夜空に瞬く星々の数だけ、「神」になる資格を持つ者が存在しているのでしょう。
「……僕らは幾つもの幾つもの種を蒔いた。その中で花が咲きそうだなってところには肥料を与えて、あとはひたすら待ってたんだ。花を咲かせたあと、種を飛ばす時に『こんな小さな花壇じゃ嫌だ』って言いだす花をね」
なんの話でしょう。多くの何かを含んだ話に聞こえましたが、ミモルにはすぐに理解しきれませんでした。花が人間だとして、肥料や花壇は何を意味するのか……。
深い思考に落ちようとする少女に、彼はのほほんと「そんな顔してると、皺になっちゃうよ」と笑いました。
「心配しなくても、ミモルにはたくさん助けてくれるひとがいる。それに、永遠にお留守番をしてなきゃいけないわけじゃないんだから」
「……帰ってきて下さるんですよね?」
「もちろん」
時が来れば、彼らは死んでしまいます。でも、世界が存続するならば神々もまた転生し、いずれ復活すると彼らは言ったのです。
魂の輪廻を見守る者という不可欠なピースが外れ、ばらばらに壊れかけそうだったパズルが、ミモルという新たな欠片を得てかろうじて崩壊を免れました。
「僕達が帰ってくるまででいいんだ」
あくまで一時に過ぎない役目です。欠片はあくまで本物のピースが戻り、かちりとはまるまでの臨時の代用品なのでした。
「いつ、とは約束できないけど。その時がくれば絶対に分かるから。探してくれると嬉しいな」
どこかで人間として生まれる神の現身。
それを探すなんて、砂漠で小さな砂粒を求めるような作業に思えたけれど、その粒は宝石の如く光り輝き、居場所を知らせてくれるはずだと。
見つけ出した時こそが神の復活の時であり、今はまだ出せないでいる「ミモルなりの答え」を伝えるタイムリミットでもありました。
長い長い、黒い人影の列が彼方まで続いています。最前列を歩く白い棺を担いだ者達を見送ったのは、どれくらい前でしょうか。
啜り泣く声が止まない葬列。大人も子どもも関係がありません。天使達にとって親であり、先生であり、導き手であった神々。それが突然失われたのです。
ミモルが後継者に選ばれるまでは決して漏らされなかった事実だけに、知らされた瞬間の衝撃は形容しきれるものではありませんでした。
「う、……うぅ」
列の出発点となった神殿の入口。エルネアが止め処なく瞳から涙を零しながら、白い床に座り込んで項垂れています。
初めて見る黒い礼服を身に着けたその姿は、美しくもぼろぼろに見えました。
ミモルは何も言えないまま、金糸の髪を撫で、抱きしめます。自分が辛い時、いつもエルネアがしてくれるように。
そうしないと、大切なひとを追って彼女からも魂が逃げていってしまいそうに思えました。
後ろに立つフェロルは懸命に涙を堪えているようでしたが、目元の赤さまでは隠しようがありません。
「フェロル、泣いても良いんだよ?」
ミモルにとって母を失った時の胸を裂かれるほどの悲しみは、まだ古い記憶になっていません。だから、涙が押し流してくれる痛みもあると知っています。
「……いえ、大丈夫です」
返ってきたのは引き絞るような声でした。泣きたくないのか、泣けないのか、それとも別の何かでしょうか。
儚げな青年の胸中に渦巻くものを、ミモルには推し量ることが出来ません。
葬列も、まだ最後尾は訪れません。長い間使われて擦り減った魂を解放する「聖なる儀式」は、朝を昼を過ぎ、夕暮れまで続きました。




