第三十五話 星のひかり
『やめてください!』
少女の恐怖を感じ取って、エルネアとフェロルが割って入ろうとしますが、二人は神々の発した「止まれ」の一言によって身動きを封じられてしまいました。
天使は神と主の言霊には決して逆らえませんし、それも四重の縛りともなると抵抗しようもありません。
「ミモルちゃん!」
エルネアにとっては、いま最も大切な存在です。最初は使命感からくる感情だったとしても、共に過ごす時間が絆を作ってくれました。
「ミモル様!!」
フェロルにとっては、これまで得られなかったものをやっと手に入れられそうな予感をさせてくれる少女です。
消すのならば、神々は記憶ごと消し去ってしまうでしょう。手を伸ばした格好のまま硬直する二人の目の前で、「それ」は始まろうとしていました。
「さぁ、目を閉じて」
エレメートの声は変わらず柔らかい調子です。ミモルは彼を信じ、生まれた不安を心の隅に追いやる決意を固めました。
もうここまで来てしまったのです。今更何が起ころうと引くつもりはありません。言われるままに目を閉じると、暗闇が少女を出迎えます。
『こっちよ』
リーセンに呼ばれて意識を向けると、暗がりの中にぽっと明かりが灯り、そこを起点にして視界が白く塗りこめられました。
心の中で出会う彼女は正体が判明した今でも少女と瓜二つの顔と姿で、二人の違いは赤と青という瞳の色だけです。
ここは精神だけの世界です。なろうと思えばどんな姿にだって、サレアルナにだってなれます。そうしないのは、意地っ張りな彼女の精一杯の意思表示なのでしょう。
「ほら」
指さす方には扉があり、開ききっています。光で満たされていたはずの「中」は全く変わってしまっていました。
「村が映ってる!」
ミモルがこちらへ来る直前までいたソニア村です。夜明けの光に照らされたそこに住人の姿はありません。
彼らもその企ても、神の使い達の手によって一晩のうちに終わってしまい、寒々しい廃村と化していました。
「これまで見えていたのは天だったんだから、逆になるのは当然でしょ」
「そっか。私、くぐり抜けたんだ。地上が見えてもおかしくないんだね。じゃあ、通れば帰れるの?」
「理屈ではそうなるだろうけど、ね」
リーセンは腕組みをして疑惑の目で扉を見つめます。無理をおして天にやってきたのです。すんなり戻れるとは限らないと言いたいのでしょう。
「ここは死んだ人間の魂が辿り着く場所で、死者は現世に戻れないっていう自然界の理に従うなら……。ま、今はそんなことどうでも良いじゃない?」
思考を打ち切る言い方に、ミモルもこくんと頷きます。まだ何も成していない今、考えても仕方のないことです。
『両手を』
その時、空から声が降ってきました。知の神・ディアルのものです。言われるまま手を差し出すと、胸の辺りからふわりと輪郭のぼやけた光が抜け出ました。
「た、魂?」
『お前の力だ』
こんなものが、というのがミモルの率直な感想でした。
あれだけの経験をした自分の成果がこんな弱々しい光なのかと思うと、少し情けない気持ちになってしまいます。
『人間なんて、そんなものだ』
今度はクロノの声がしました。嘲るでもなく、淡々と述べる響きが現実を知らしめます。今度はエレメートが『良くみてごらん』と言いました。
『ささやかな光だけど、自分の隣にいるひとくらいなら照らせると思わない?』
ふわりと真っ白な空から何かが――エルネアとフェロルが降りてきました。
「二人とも、どうして……」
ミモルはそこで言葉を切ります。彼女達もこの扉から召喚されたのです。ミモルの精神世界になら、入ろうと思えば入れて当たり前だったわけです。
「ずっと、気をつかってくれてたんだね」
どんなに心配でも、不安に押し潰されそうになっても、心の奥へ土足で踏み込むことはすまいと。二人がそっと微笑みます。
「言いたいことが沢山あるけど、もう何も言わないわ。その代わり、一番近い場所で最後まで見届けるつもりよ」
エレメートの言うように、この二人だけで良いのなら胸の前に浮かぶ光が小さくて弱くても、一緒に囲んで笑顔を交わし合うくらいは出来そうです。
「ありがとう」
礼を告げて笑い返すと、二人は黙って光に手をかざしました。彼らの力を受け、瞬きは僅か、明るさを増します。
『光を天へ』
ディアルに言われるまま手をそうっと差し出します。まるで吸い込まれるようにして光は指先を離れ、遠ざかっていきました。
白かった世界の天上が暗くなり、光は白い点になって真上で止まります。
『お前の星だ。良く覚えておくことだな』
「星?」
言われてみれば、たった一つの星だけが灯る、寂しい夜空みたいでした。
『お前が傍らに望む星は誰だ』
今度はシェンテの声がして、ミモルは咄嗟にネディエとティストを思います。すると、一つしかなかったはずの星の近くに色味の違う二つの星が現れました。
『目を凝らせ。星に隠れるようにして、何が見える』
「……あ」
星は三つになったと思いましたが、違います。自分の星の傍には二つ、後から生まれた星々の傍にも一つずつ、更に小さな点が寄り添っています。
「あれは僕達ですね」
「なら、あっちはナドレスとヴィーラかしら?」
『他に何を思い描く?』
少年の声に、今度は別の顔が浮かびました。今は何処でどうしているのかも分からないニズムとマカラです。
その瞬間、少し離れた場所に新たな瞬きが生まれました。
『だいぶ賑やかになってきたね。じゃあ、もっと楽しくしようか』
エレメートが言うと、色とりどりの光がぽつぽつと増え始めます。
そのぽつぽつはやがて速度を増し、初めはたった星一つの小さな煌めきに過ぎなかった天が見る間に明るさを増していきました。
「本当の空みたい」
それも尋常な数ではありません。数えるのも首が痛むのも忘れて見入るほどの美しい星空です。
ふいに、母と姉と暮らしていた頃に見た、山中の川沿いを飛び交う蛍の群れを思い出しました。
昼間の暑さから一転、気温がぐっと落ちる初夏の夜。演奏会のように繰り返される、静かな静かな明滅。
姉妹はそのひとつをそっと手のひらに捕まえては眺め、放しては飛んでいくのを眺めています。
胸をいっぱいに満たす、土と木のやや湿っぽい香りを含んだ風。蛍が生み出す柔らかな光に照らされながら、景色を楽しむ母の横顔。
隣で目移りしてはしゃぐ姉の、軽やかな足音と笑い声……。
「……!」
自然と、涙がミモルの頬を伝いました。あの日々が、もうずっと昔の出来事のように思えることが、とてつもなく悲しかったのです。
人は亡くなったら星になり、生きている人を見守ってくれるという話があります。
大人の優しい嘘だとしても、この景色には関係のない話と己に言い聞かせても、感傷がとめどなく溢れてきます。
誰の問いもありません。空を見ていて気が付かないのか、知らないふりか。うまく説明できそうにないミモルには有難い静けさでした。
星が視界の端の更に向こう側にまで広がりきると、ようやく天は変化を止めます。
ミモルはぐっと両目を手で拭い、気持ちを無理やり切り替えました。過去に捕らわれて立ち止まっている時間など自分にはないのです。




