第一話 予兆のゆめ
暗がりの中には、ランプの火が薄くともっています。
その明かりに照らされるのは、赤や紫や黄色の表紙の本たち。
金や銀色の鮮やかな糸で刺繍された文字が、明かりを受けて仄かな光を発しています。
周りには輪郭が浮かび上がった本の山がいくつも連なり、それを取り囲むようにして本棚が列をなしていました。
「……ふふ」
幼い喜びが唇からもれ出て、ぱら、というかすかな音が室内に響きます。
それは、埃をかぶった本でさえ、息を潜めてひっそりと住まう部屋の中心で、静かにページをめくる空気の揺らぎでした。
本を照らすものと同じ明かりが、文字を目で追う細面に当たっています。
その横顔も、服の袖から伸びるページを繰る指も、陽の光を浴びることを忘れたかのようです。
黒ぶちの重そうなメガネは几帳面に四角く、髪と同じ銀色の瞳の前で、黄色がかった光を反射して閃きます。
抱えた大きな本を読み進める度に、淀んだ空気が動いて音を立てました。
他には一切の変化を持たない世界で、本は読まれていきます。
そうして、時は始まりから終わりまで、緩やかに過ぎていくだけのはずでした。
誰かがその部屋の扉を、けたたましく叩くまでは――。
◇◇◇
少女――ミモルは唯一人で立っていました。
視界はゼロの、全くの闇の中です。あるいは彼女の目が光を映さなくなったのかもしれませんが、それさえも確かめる術はありません。
分かるのは冷たい両壁の感触が教える「世界の狭さ」だけ。壁はつるりと滑らかで、登ることも許さないといわんばかりでした。
「……」
記憶を探ってもいつから何故ここに居るのかは思い出せず、気が付いたら「そこ」に居たという感じです。
ふいに、ミモルはびくりと体を震わせました。何かが耳を掠めた気がしたのです。気のせいと言われれば否定できないほどの小さな揺らぎでした。
やがて心が平静を取り戻してくると、彼女はその正体を辿ろうとし始めます。じっと耳を澄ましてみました。
『出シテ、アゲル』
今度ははっきりと聞こえ、びくんと肩が跳ね上がりました。驚いたことに、それは外界とこちらを隔てている壁の向こうから響いてきていていました。
底冷えのする世界に膝をつき、壁に指をはわせてみます。暖かみを持たない、冷たく突き放す鉱石に似た感触です。それでも恐ろしさより脱出の欲求の方が何倍も勝り、壁にすり寄りました。
「出たい!」
ミモルは思い切り叫んでみました。しんとした世界で、その声は自身の耳を強く打ち、鼓膜がじんと痛みます。
からからに乾いたノドに急に強い息が吹き込んだために、皮膚が裂けそうな気がしましたが、今は外に出る方法以外はどうでも良いことでした。
孤独な空間から外へ連れ出してくれるのなら、声の主が誰なのかすら後回しで構いません。
「どうしたらいいの?」
けれども、壁の向こうの人物はこちらの焦りをくみ取る素振りを見せません。これではまるで、物言わぬ壁に向かって独り言を言っているようです。
やがて声は言いました。
『鍵ヲ、開けて』
相手の声が近寄って来たのを感じました。厚みも分からない壁越しのため、実際に距離が縮まったかどうかは怪しいのですが、気配が近付いてきた気がしたのです。
「わっ」
すると、ぱっと手元が明るくなり、彼女は咄嗟に手で顔を覆いました。
壁に穴が空いていました。極細の針で指した程度に過ぎない光の筋が、そこから差し込んでいたのです。そんな僅かな明かりだとしても、暗がりに慣れた目には焼けつきそうでした。
「鍵なんてないよ……」
そんな都合の良いものがあるなら、とっくにこんな場所から脱出しています。沸き上がってきたのは、二度とここからは出られないという絶望感でした。
憤りが込み上げるのと同時に、これまでに感じたことのない寒さが、背中を下から素早く走り、体という枠を無視して左右へ広がります。
押さえた指の間から見える光の筋が、涙で滲みました。声は淡々と語りかけ続けてきます。
『鍵は、中に』
「……中?」
ミモルはその意味を理解できずに俯きました。ふと、明るさに慣れてきた目で光の輪郭を追うと、それが鍵穴の形をしているのに気付きます。
「鍵……、ここから出る鍵?」
『モウ、行カナケレバ』
「えっ、待ってよ!」
声は調子を変え、再び肉感を失いました。遠ざかっていくのを感じます。
どう考えても「鍵」の持ち合わせなどありません。焦燥感を強く胸に抱き、助けが去るのを恐れて、すがり付くように声を発しました。
「待って!」
泣きそうな気持ちで、必死に知らない相手を呼びとめます。
『モウスグ……モウスグ……』
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