慶応四年 三月某日
慶応四年 三月某日
私、沖田総司は江戸・千駄ヶ谷の隠れ家で床に臥せっていた。京都時代は新撰組一番隊隊長かつ最強の剣客として鳴らした私も病魔には勝てずに横たわっていた。本当はこんなところで横になっている場合ではないというのに。元来もっと明るい性格だった私も最近はすっきり気がめいってしまっていた。思いつめると胸が苦しくなってげほげほと咳が出てくる。いったんそうなってしまうともうだめで、上体を起こして胸をさすりながら発作が去っていくのを待つしかない。
「うう……何でこんなときに」
私たちは近藤さんに率いられて京都に上洛し、紆余曲折を経て新撰組を作った。そこで主に勤皇派を名乗る不逞浪士を取り締まっていたはずだったが、いつの間にか時代は流れ、朝敵だった長州の過激派が朝廷を掌握していた。本当ならそこからが正念場だったのかもしれないが、そんなとき私は血を吐いて倒れた。その間に新撰組含む幕府軍は鳥羽伏見の戦いで敗れ、江戸へ撤退。それが今年の正月のことだった。
さすがに私一人で何とかなるとまでうぬぼれてはいないけど、幕府の、いや私たちの命運をかけた戦いに参加出来なかったのは悔しかった。現在近藤さんを始めとする新撰組主力は甲陽鎮撫隊として甲府城を目指している。詳しい情勢は分からないが、厳しい戦いになるはずなのに私はここで寝ていることしか出来ない。
「げほっげほっ」
私は慌てて口元を抑える。すると両手に生暖かい感触がある。見るとはたしてそこにはべったりと血がついていた。体の重みに耐えきれなくなり再び横になる。しかし横になるとさらに胸が苦しくなり、咳は止まる気配がない。
「ごほっ、ごほっ、ぐはっ!」
再び目の前が真っ赤に染まる。このままじゃ治ってまた新撰組に入るどころかこのまま死んでしまう。……このまま死ぬ? この私が? 物心ついてから常に剣をとってきたこの私が畳の上で?
私の人生は物心ついたときから常に剣とともにあった。むしろ剣を握る前の記憶はない。剣を握って頭角を現した私は近藤さんの試衛館道場に預けられ、やはりその中でも抜きんでた力を発揮して塾頭になった。正直塾頭とかはどうでも良かったが、純粋に強くなっていくのがたまらなく嬉しかった。
そして上洛してからは常に不逞浪士と戦い、白刃の下をくぐってきた。そんな私がこのまま畳の上で死ぬ? そんなことがあってたまるか。私は思わず枕元にあった愛刀を抱き寄せる。
「頼む、神でも悪魔でもいい、この体を一瞬でも治してくれるなら!」
不思議なことが起こったのは私が叫んだときだった。突然、体が黒い光に包まれて気が付くと真っ暗な不思議な空間にいた。黒い光とかも驚いたのだが、私はここ数か月ずっと自分をさいなんでいた胸の苦痛がなくなっていることにまず驚いた。ついで、自分がどこだか分からない世界にいることに驚いた。もしかしてこれが死の世界か? 確かに死は垣間見えたが、こんなにあっさり死ぬなんて。
困惑していると、目の前に見たこともない生き物が現れた。いや、生き物と言っていいのだろうか。あえて何かに例えるならば黒い猿といったところだろうか。しかし顔からは尖った突起のようなものが数本突き出しており、手には杖のようなものを持っている。そして顔にはニタニタとした得体のしれない笑みを浮かべている。
「ようこそ沖田総司」
謎の存在はきいきいとした不快な声でしゃべる。
「誰だ?」
私は謎の空間で剣を構える。
「物騒だな。これだから日本の侍は。私は悪魔。と言っても君はよく知らないだろうけど」
「確か西洋の方にいる人を惑わして魂を奪う存在だっけ」
私はうろ覚えの知識を口にする。
「おいおい、さっき私のことを呼んだ割には随分うろ覚えだね。というか君はそんな存在に懇願したのかい?」
さっき呼んだ? そこで私は「神でも悪魔でも」と口走ったことを思い出す。正直病に冒されたうわごとのようなものだったから深い意味はなかったが、仏様は人間の願いを叶えてくれる存在ではないことは知っている。だから知りもしない神とか悪魔に願ったのかもしれない。とはいえ、本当に悪魔が答えてくれるとは思わなかったが。
「それくらい死にたくないってことだ」
「そのようだね、君の死への嫌悪感は常人離れしている」
別に死ぬことが怖いとは言わないけど、死に方には納得いかない。
「ちなみにここは?」
「夢みたいな空間だと思ってくれ」
そうか、それで私は元気なのか。死んでなかったことに安堵するような、治った訳ではなかったことに落胆するような。とはいえ最近は夢の中でも苦しんでたから苦しみがなくなったのは素直に嬉しい。
「それで、私は何を差し出したら身体を治してもらえるんだ?」
「おいおい、私はそういうタイプの悪魔じゃない。私はどっちかっていうと人から何かを奪いとるよりも人が惑い苦しむのを見て楽しむタイプの悪魔なんだ」
悪魔にも色々いるんだな。知らなかった。
「……悪趣味だな。それなら私のことなんて放っておけばずっと苦しんでるのに」
「うーん、そういうタイプの苦しみじゃないんだよ。それに死んだら苦しまないし」
悪魔は大仰に肩をすくめてみせる。
「……その冗談は笑えないかな」
「事実を言ったまでだよ」
普段ならとても苛々するタイプだが、相手が悪魔だからかそうも思えない。現実に私の体は今、とても楽になっている。この悪魔なら私を治してくれるんじゃないか。多少胡散臭い相手の方が信仰のし甲斐がある、というのはよくあることだ。
「今から君を異世界に案内する。そこには生命の実というものがいくつかある。その実を食べると君の寿命は一か月伸びる。異世界での一日はこっちでの一日にも相当するけど、代わりに好きな時にこちらに戻ってきていい」
悪魔はペラペラと設定をしゃべる。異世界とか生命の実とか、いまいちぴんとこない。
「そもそも異世界って何?」
「長い夢を見ているみたいなものだと思ってくれればいい」
「要するに、夢の中で満足するまで実を集めて来いってこと?」
それだけ聞くとこの上なくいい話だった。もちろん、実際には実を集めるのには色々あるんだろうけど。
「そうだよ。まあ、せいぜい面白い姿を見せてくれたまえ」
「いつでも醒めれる?」
「君がそう願えば戻してあげよう。戻ったときこっちの肉体が生きてるかは知らないけどね」
何もしなければ寿命は変わらないということか。当然ではある。いつまででも実を集めてもいいけど、一日で得られる一か月の寿命と一か月で得られる一年の寿命のどちらの方が価値があるかは熟慮の余地がある。悪魔の言っていることはよく分からなさ過ぎて真偽の判断のしようがない。でも、このまま病気で死ぬのとよく分からない提案を受け入れるのとであれば後者を選ぶしかない。
「よく分からないけどそれなら私にとって今より悪いことは何もないな。それなら決まってる」
「あ、そうそう、異世界は日本とは全然違うところだから。せいぜい楽しんでね」
「?」
悪魔の言葉が言い終わるか終わらないかのうちに、再び私の体は黒い光に包まれる。そしてそのまま意識が遠くなっていた。
更新頻度は謎。