第7話
「旦那様がお戻りになりました。お食事にしましょう」
「クリスさん……」
夕陽がすっかり沈んだ頃、伯爵様は屋敷に戻って来た。
伯爵様の執事クリスが客間で待機していた私を呼びにやて来た。
「待たせてしまって申し訳ない」
「いえ……その、ガーベラさんは?」
「あの少女か。教会に用があるからと、あの後すぐに別れたよ」
「ど、どうして……伯爵様はあの子の事好きになるはずなのに」
「どうして?初めて会う人に好きも嫌いもないが……」
家政婦さんが夕食を用意してくれた部屋に到着すると、クリスは静かに頭を下げて部屋から出て行った。
2人きりの室内に沈黙が続く。
「だって、あの子は……」
ヒロインなのよ?
なんて言ったところで理解されないだろうけれど、でも、運命はそうなっているはずで……。
「すまない、不安にさせてしまったか。僕はどうも言葉が足りないようなんだ。クリスにもよく怒られているよ」
伯爵様は深呼吸するように息を吸うと、ゆっくりと吐いた。
そして扉の前で首を傾げている私を優しく抱き締めた。
「僕はクローディア、君に恋をしてしまったようだ」
「え……!」
「恋焦がれるよりも、君と愛し合いたい。これでも我の強い僕なりに我慢して君に配慮してきたつもりだよ?でも、君はずっと僕に怯えているようだから……。まあ、怯えた顔も可愛いしそそるけど、でももっと違う…幸せそうな顔や笑った顔も見てみたいよ。こんな風に好きになった相手を想うのは初めてだ」
拒絶するなら、今しかない。
これが最後にチャンスかもしれない。
抱き締められながら私は彼の身体を抱き締め返すか否か悩んでいた。
そろっと震える手を彼の背中に当て、ギュッとシャツを掴んだ。
「……私もオスワルド様が……好き」
「クローディア……本当かい?」
「ええ。あなたに殺されてもいいって思うくらい好きよ」
「嬉しい。でも、なんだその恐ろしい表現は。殺すわけないだろ?温室のバラのように溺愛して大事にしてあげるよ。君を蝕む害虫は躊躇なく駆除するかもしれないけど」
「ふふ」
しばらく抱き締め合い、2人目を閉じて心の通い合ったキスを交わした。
「僕と結婚してくれるかい?クローディア」
「ええ、よろしくお願いします……」
「じゃあ、この紙に署名と血判を」
ひらりと白紙と万年筆を差し出した伯爵様。
「え?……今ですか?お食事が冷めるわよ?それに家族にも一言……」
「乙女心とスープは冷めやすいからね…今君をこのまま帰してしまったら、朝には気が変わってるんじゃないかって不安で不安で」
「オーバーな……」
「さあさ」
物腰は柔らかいのに押しの強い人だ。
私は万年筆を走らせ自らの名を書くと、血判を押した。
あの後、あの倉庫の中で全裸で捕縛され、何者かに全身を鞭で打たれ気を失っていたケビンは従士団に連行され監獄行き。
彼と顔を合わせた親族は、彼は光悦とした顔で「ブヒブヒ」としか鳴かないと戸惑っていた。
その話を後日伯爵様にしたら、
「普段は専ら馬を調教していますが、豚の調教も楽しいものだね。馬のように利口な生き物だよ」
とニコニコ笑っていた。
「そう言えばクリスって……、オスワルド様の姪っ子さんと同じ名前なのね。ん?クリスがオスワルド様の姪なの?クリスってもしかして女性?」
なんとなく伯爵様の書斎の整理をしていたクリスに話し掛けると、クリスは首を傾げた。
「旦那様にご兄弟はおられますが、皆さま独身で姪っ子などおりませんよ?後、私は男ですし、旦那様とは血縁はありません」
「え?……あ、前妻が殺されたっていう噂は?」
「政略結婚で初めから相手方に恋人がおりまして、旦那様が海外へ駆け落ちするのを手助けしたんですよ。隣国でピンピンしてますよ。ゴシップ誌が面白おかしく書いちゃうんですよね~有名税ってやつですね」
「え?」
「私はもともと孤児でスリをして路上生活してた所を旦那様に拾われたんです。クリスという名も旦那様が付けてくれました。あ!クローディア様の髪に着いてたバレッタをこっそり盗んだのも私ですよ。ごめんなさいね~。旦那様に頼まれたんです」
「…………なっ」
私は絶句してしまった。
もしかしたら自分が想像していたものよりも、ずっと恐ろしい男なのかもしれない。
婚約式を明日に控えた夜、私の顔は青ざめていた。
私はさながら蜘蛛の巣に引っかかった憐れな蝶々?
怯える目を書斎の机の前の椅子に座っていた伯爵様に向けた。
今更気付いてもーーもう逃げられないけどね。そう語っているような伯爵様の黒い笑み。
クローディアの前途多難な夫婦生活はこれから幕を開ける。