第9話
伯爵邸の門が見える窓辺の長椅子に座って、バイオレットと共にうたた寝をしながら伯爵様の帰りを待っていた。
「……んん……」
すっかり日も沈んだ頃、伯爵邸に馬車がやって来た。
伯爵様を乗せた馬車だ……。
「オスワルド様、お帰りなさい」
「ディア!」
伯爵様は馬車を降りるなり、私に向かって走って来て思い切りハグをした。
久しぶりに感じる伯爵様の体温や匂いに、私も嬉しくなって彼の背に手を回してそれを受け入れた。
「ただいま。僕が不在の間、変わりなかったかい?」
「はい、オスワルド様。出向、お疲れ様です」
「首都からディアへお土産を持って来たんだ。気にいるといいな」
「ありがとう」
ニコニコと優しい笑みを浮かべて、愛おしそうに私を見つめてくる伯爵様。
半月以上も離れていたのは今回が初めてかもしれない。大袈裟だけどーー私も少し寂しかったから、彼の温もりに触れて思わず目頭が熱くなった。
「オスワルド様、長旅で疲れたでしょ。私がお茶を入れてくるわね」
「ああ、書斎で待ってるよ、僕の可愛い天使ディア」
「ああ、はいはい」
伯爵様のこの歯の浮くようなセリフにも慣れた。慣れって恐ろしい。
私は厨房へ向かった。
食事や大まかな家事などは家政婦のレミーが通いで訪れて日中はやってくれる。
夜間は屋敷外の自宅へ帰ってるため、私がこうして必要に応じてお茶を淹れたり料理をしたり掃除をすることもよくある。
*
ティーセットと簡単に作った軽い夜食をワゴンに乗せて伯爵様の書斎へ向かった。
ドアの前に立った時ーー書斎の中から伯爵様と聞き覚えのない女性の声が聞こえた。
「ーーー?」
執事のクリスは所用で街へ出ており、家政婦のレミーは帰宅している。他に駐在している使用人はいないし……、私が厨房へ行っている間に誰か訪ねてきたんだろうか?
私は首を傾げながらも戸を叩く。
「オスワルド様?」
書斎に入ると、そこに居たのは伯爵様ただ一人。
私は目を点にしながら、また首を深く傾げた。
「オスワルド様、お一人ですか?今、中に誰か……」
「うん?ずっと僕一人だよ?ディア」
「???」
伯爵様はいつものように笑っているがーー 一瞬だけ何かを思い悩むような、浮かない顔をしていた。
たまにこういう顔をすることがある。けど、私には何も話してくれない。それがもどかしかった。
「オスワルド様?どうかしました?」
「……ディア」
書斎のソファーに伯爵様は移動すると私の腕を引っ張って、自分の膝の上に座らせた。
私はジタバタと絡みついてくる伯爵様の腕から逃げようと暴れた。
「おっオスワルド様、お茶を……」
「半月振りに会ったんだよ?ディア、こっちが先でしょ」
突然顔を引き寄せられーーチュッ、とキスをされた。
私は顔を真っ赤にしながら暴れ猫のように彼の腕の中でもがいた。
「暴れん坊な僕の子猫ちゃん」
「は……っ、はぐらかさないで!」
私はなんとか彼の腕から逃れられた。
そして叫ぶ。
呆然としている伯爵様を残して、私は一旦書斎を出た。
そしてワインとグラスを持って書斎へ戻った。
「オスワルド様、今夜は一緒に飲みましょう!」
「ディアも飲むのかい?」
「ええ、飲みながら……、何か愚痴や悩みでもあれば、どんな些細なことでも構いませんので、なんでも私に遠慮せずに話してください!」
「え?」
伯爵様はかなり驚いたような顔をしてる。
「なんでも話し合えるのが夫婦でしょ?どうしても話したくないことは別だけど……」
多分 私達に足りないのは話し合う事じゃないかな。
「……」
私達は顔を見合って沈黙する。
気まずくてグビッと飲めないワインを一気飲みした。
「…あ、そういえば、私もオスワルド様に言うことあったわ」
「なんだい?ディア」
「昼間、林の中でオスワルド様の弟さんに会いました」
「ーーーーー!」
伯爵様は目を見開いて固まっている。
驚いているのかな。
「教会で牧師をやってるのね?教会で今度行われるバザーに誘われたんだけど」
「そうかい……。そうか……。君はバザーに行きたいの?…」
急に不安げな目で、だが俯きがちにしおらしく訊いてくるから、私はなんだか拍子が抜けた。
「いいえ、特にはーー行きません。オスワルド様ってば、例え私が行きたい!って言っても、あらゆる手を使って全力で阻止するじゃないですか?今日は一体どうしたんですか?元気がないわね」
「……なんでもないよ、ディア」
なんだろう?伯爵様の様子が変?
目がなんだか虚ろで…。
「私、言いましたよね?何でも、思うところがあるなら話してって」
「……ディア」
伯爵様はまた俯いた。
そして数分黙り込んで何かを考え込むような仕草をした後、重い口を開いた。
「僕は昔、まだ成人前の頃かな…平民の娘と交際をしていたんだ」
私はすぐにピンと来た。
ラノベに登場した伯爵様の幼馴染で初恋の相手マーガレット。
親に交際を反対され、なんとかお許しをもらった時には彼女は別の平民男性と結婚して子供まで居たーー。
「……」
小説を読んでいたから知ってるが、ここで知ってるなんて流石に言えるわけもなく黙って話を聞く。
「彼女はーー僕の弟と浮気をしていたんだ」
「えっ……?」
私は思わず声を出して驚いた。
「まあ、それがきっかけで僕と破局した後、弟にはすぐに捨てられたみたいだけどね」
伯爵様は茶化すように笑った。
でもその目は悲しそうだった。
「僕の初婚相手、ロゼッタについては前に君にも話しただろ」
結婚する前に伯爵様は前妻についてきちんと話してくれた。
親同士が決めた結婚相手で、前妻には昔から長く付き合っている恋人が居た。それは伯爵様も公認で、前妻とは友人のような関係であったこと。前妻と恋人の駆け落ちを、伯爵様がサポートした事……。
この点も原作のラノベと相違していた。
伯爵様に関する情報は全てヒロインの主観や解釈だから相違があってもおかしくはないけれどーー。
「うん……」
「そのロゼッタにも弟は迫っていたようだ。彼女には恋人がいたから拒否したようだが……」
「え?」
「弟の狙いは…僕の恋人や配偶者を寝取ることだろう。僕に嫌がらせをすることが彼の生き甲斐みたいだからな」
「そんな…!」
あの善人顔で清らかな雰囲気があって人が良さそうな美青年が……?
もし、その話が事実で原作ラノベの世界にも彼が存在していたなら…。
必ずクローディアにも接触していたはずだ。
自分の感情や欲求に素直なクローディアだーークリオスさんの誘惑にコロッとやられそう。
原作ラノベでも他の男に移り気して伯爵様を裏切り殺されている。
その他の男こそーークリオスさん?
転生した私という自我とクローディアの身体に微かに残る自我が乖離している。
私はクリオスさんは良い人そうだとは思うが全然タイプの男性じゃない。
クローディアの意識だとめちゃくちゃタイプで心が惹かれているのを体感する。逆に身体の持ち主であるクローディアは伯爵様がタイプではなかったのだろう。
お金のために伯爵様と結婚した強欲なクローディアだったが、最後はクリオスの愛を選んでしまったのかもしれない。
それで伯爵様に殺されてしまった?
ゾクゾクと悪寒を感じた。
伯爵様と結婚して平和に暮らして来たけれど……ここでまさかの『死亡フラグ』!?
「ディア?どうしたんだい?顔が真っ青だよ?」
心配そうに私を見つめる伯爵様。
私はブンブンと首を横に激しく振って、テーブルをバァン!っと叩きながら勢いつけて立ち上がった。
そして伯爵様に必死で訴え掛けた。
「安心して!オスワルド様!私はクリオスさんのこと、ちっっっっとも好きじゃないです!タイプじゃないです!長髪男ってむしろ地雷なくらいです!あの人と不倫?とか100パーないですから!」
「はぁ……」
伯爵様は私の勢いに圧されて目を点にしている。
「オスワルド様は知ってるでしょ!私が今めちゃくちゃ推してる演劇団!劇団マッスル……ああいうのが私の好みなのよ!全くの対極的でしょ?クリオスさんとは1ミリも被ってないでしょ?」
劇団マッスル。
ワイルドで爽やかなマッチョないい男たちが数多く所属し、元騎士や元傭兵のメンバーも在籍しておりアクションや肉体美に定評がある、主に男性と一部の腐った女性たちに人気がある有名な演劇団。
「……へえ(怒)」
伯爵様は笑いながら怖い顔をした。
クマ一頭視線で殺せそうなくらい顔を凄ませ、声は低くおっかない雰囲気を出している。
しまった!
一回 件の劇団を観に行く行かないで夫婦喧嘩もしたのに……掘り起こしてしまった。
あの時は嫉妬に狂った伯爵様が劇団を社会的に抹殺するところだった。
なんとかなだめて説得して今度 家政婦のレミーさんと一緒に観劇に行くことになっていたのに!
「……でも、ディアが今日弟と会っていたことを素直に話してくれてホッとした。それを伝え聞いて、不安でどうにかなりそうだった」
「ね?ちゃんと正直に話し合うと不安も晴れるでしょう?」
「ディア……。そうだね」
私は立ったまま、ソファーに座っている伯爵様を抱きしめた。
「今後も、不安なことがあれば私に話してください。それに、私に思うことがあるならハッキリ言ってください!」
結婚して分かったことーー伯爵様は内に篭りすぎる。すぐに自己完結する。
ちゃんと対話してぶつかって、すれ違いを無くしていけばーー破滅や死亡フラグも回避できるかもしれない。
「……じゃあ、ディア。遠慮なく言うよ」
「はい?」
「劇団を観に行くのはやめておくれ、君の綺麗な瞳に僕以外の男が映るのは我慢ならないーー」
伯爵様に顔を掴まれ、間近で目を見つめられた。
「ーーいっ、イヤです!もうチケットも買ったんです!レミーさんとも約束してるんです!演劇見るくらい別にイイでしょ!私は~!」
反論している途中で伯爵様はキスで口を封じた。
私は必死に抵抗する。
「文句ならベッドの上で聞いてあげる」
「な~~~!」
伯爵様にお姫様抱っこされた。
呆然としている私を腕に抱え、伯爵様は書斎を出た。
その時の伯爵様の憂いのない明るい笑顔を見て、私はちょっぴり安堵していた。