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娘は筋肉を信じたい

……………………


 ──娘は筋肉を信じたい



「新入生諸君!」


 クラリッサたちの集まったグラウンドで、体育の授業を受け持つ教師が声を上げていた。この教師は元騎士であり、戦闘についてはエキスパートだ。


「君たちは敢えて厳しい道を選択した。そのことについては讃えよう。だが、だからといって私の授業についてこれるかどうかは話は別になる!」


 そう告げて体育教師は生徒たちを見渡す。


「まず戦闘科目を選んだからと言って最初から武器が持てるなどとは思わないことである。武器を使った訓練は授業の後半からだ。それまでは非戦闘科目を選択した生徒と同様に、いやそれ以上に基礎体力をつけていくぞ!」


 体育教師がそう告げるのに生徒たちからは落胆の声が漏れた。


「健全な精神は健全な肉体に宿る。武器を持つのは健全な精神を得てからだ。それまではしっかりと健全な肉体を養っていくぞ。分かったかね?」


 体育教師がそう告げて、生徒たちからはまばらな返事が返ってくる。


「よろしい。では、まずは走り込みからだ。これよりこのグラウンドを2周してもらう。大体1キロメートルの距離だ。これぐらいはできなければこれからの授業はついていけないぞ。さあ、準備体操を始めよう!」


 それから体育教師の指導で、クラリッサたちは柔軟体操で十分に体をほぐしてから、グラウンドの位置に就いた。


「クラリッサ嬢。これならば勝負になりそうだな!」


「君って本当にしつこいよね」


 ジョン王太子はクラリッサの隣の位置をキープしている。


「準備はいいか、諸君。言っておくが既にフィジカルブーストが使える生徒もいるだろうが、この授業ではフィジカルブーストは禁止だ。世の中、いつでもフィジカルブーストが使えるとは限らない。そういう場合を想定しての訓練だ」


 体育教師がそう告げるのにジョン王太子がにやにやしながらクラリッサを見た。


 およそクラリッサがフィジカルブーストを使わないならば、自分に勝ち目があると思っているのだろう。確かにジョン王太子は王太子として訓練を受けてきている。


「では、始め!」


 体育教師の合図でクラリッサたちが走り出す。


 先頭を切ったのはジョン王太子だ。彼が先頭に躍り出て、一番に進んでいく。


 その後ろをクラリッサがのんびりと進んでいる。追い越そうとする仕草は見せない。そして、さらにその後ろからウィレミナが続いていた。


 このままジョン王太子が1位でゴールインかと思われていた。


 だが、グラウンドを1周するころにはジョン王太子の速度は落ち、リズムは乱れ、何とか走っているという状況になっていた。


「最初から飛ばしすぎ」


 クラリッサはそう告げるとジョン王太子を颯爽と追い抜いた。


「お先に失礼します、殿下」


 続いてウィレミナがジョン王太子を追い抜く。


「ま、待て。私はまだ負けてないぞー!」


 ジョン王太子は気合を入れて再び走り出そうとするも、完全に息が上がっている。


 王太子として受けていた訓練では追い抜かなければならない相手もなく、ペースを守って走れていたジョン王太子であったが、今回はクラリッサという目標がいたためにペースを崩してしまった。一度崩れたペースは元には戻らず、そのままずるずると後ろに落ちる。次々と他の生徒に追い抜かれていくのにジョン王太子はずっこけた。


「走れ、走れ! 戦場でもそうでない場所でも走ることは基本だ! 走ることができなければ、武器を握ることもできないぞ! さあ、走れ、走れ!」


 体育教師はそう叫びながら、生徒たちを走らせる。


「ゴールイン」


 1位でゴールしたのはクラリッサだった。


「ゴール!」


 2位はウィレミナだ。


「はあはあ……。これで勝ったと思うんじゃないぞ……」


 そして、最後尾から3人ほど早くジョン王太子がゴールインした。


「うむ。今年の生徒は有望そうであるな! この調子で体力をつけていこう!」


 その日からジョン王太子にとっての苦難の日々が始まった。


「まずはクランチ60回だ! 腹の筋肉がなければ、剣を握ることはできないぞ!」


 ひたすらな筋トレ。


 へばる生徒が大勢出る中、クラリッサだけが平然とノルマをこなしていく。


「流石だな、クラリッサ嬢! 他の生徒諸君も見習いたまえ! 筋肉は嘘をつかない! 筋肉をつけることこそ勝利への第一歩だ!」


 そう告げて体育教師がムキッとマッスルなポーズを決める。


「筋肉は嘘をつかない。いい言葉だ」


「余裕だね、クラリッサちゃん」


 ノルマをこなしたのちも黙々と鍛え続けるクラリッサにようやくノルマを終えていい汗をかいたウィレミナがそう告げた。


「お、おのへ、くらひっさ嬢……。わ、わたひは負けないからな……」


 腹部の筋肉がひきつる中、ジョン王太子もひたすらなクランチに励んでいた。


 やはりテンポが焦りすぎのジョン王太子は急激な筋肉の動きに耐えられなかった腹筋がへばり、今やのろのろとかたつむりの観光客のような動きでクランチらしきものを繰り返していた。だが、それでは何も鍛えられないだろう。


「足、持っておいてあげる。足が上がると腹筋は鍛えられないから」


 そんなジョン王太子の足をクラリッサが掴む。


「ま、待て! 何のつもりだ、君は!」


「鍛えるの手伝ってあげるだけ。邪魔?」


「うぐ」


 クラリッサの行動は100%の善意からの行動であるとジョン王太子には分かった。この少女はもはや自分などライバルとして見ていないのだと。手を差し伸べるべき弱者としてしか見ていないのだと。残念なことにその通りだった。


「泣いてるの? クランチで泣く人初めて見た」


「泣いてない! これは汗だ!」


 目汗を流しながら、ジョン王太子は必死にクランチを繰り返した。


「手は頭の後ろに。手を振って起き上がろうとしちゃダメ」


「わ、分かっている!」


「それから急ぎすぎない。急ぎすぎると息が上がるだけ」


「分かっているー!」


「呼吸も乱しちゃダメ」


 ダメ出しされまくりながら、ジョン王太子は必死にクランチを続けた。


 頑張れ、ジョン王太子! 外見は凄い美少女のクラリッサに筋トレを手伝ってもらえるのはある意味ではご褒美だぞ!


……………………


……………………


 筋トレは続くよ、どこまでも。


「もう私の負けでいいんじゃないかな」


「王太子殿下、諦めないで!」


 鬼教官と妖怪筋トレ少女を前にジョン王太子の戦意が底をつきかけていた。


「あの平民をぎゃふんといわせるんでしょう! 頑張らないと!」


「いや、でも、どう考えても無理だ……」


 ジョン王太子にはまだジョン王太子を見捨てない仲間たちがいた。平民ぎゃふんといわせ隊とでもいうべき組織で、平民のくせに態度がでかいクラリッサに果敢に挑んだジョン王太子を熱烈に支持して、応援しているぞ。


「ジョン王太子殿下。特訓をしましょう」


「特訓なら毎日体育の時間にしているではないか」


「いえ。その体育の時間にあの平民をぎゃふんといわせるための特訓です」


「えっ」


 ジョン王太子はこの時点で非常に嫌な予感がしていた。


「毎日、放課後に走り込みをやりましょう。大丈夫です。校舎回りはいつも陸上部が走り込んでいるので、絶対に目立ちません。殿下の特訓があのふてぶてしい平民に知れ渡ることにはならないでしょう。そして、いざ体育の時間に生まれ変わった殿下の姿を見せつけるのですよ!」


「ま、待て、待ってくれ。私はあの鬼のような体育の授業の後にさらに走るの? それもグラウンドよりも広い校舎回りを?」


「はい。その通りです。やればできます。我々も微力ながらスポーツドリンクを作るなどしてお手伝いいたしますので。やりましょう!」


「一緒に走ってくれるとは言わないんだね!」


 その日からジョン王太子の特訓のための特訓が始まった。


 走る。ひたすら走る。校舎の周りを走る。


 校舎回りは1周で4キロ。体育の時間に走るグラウンドの4倍の距離だ。


「し、死ぬ……。いくらなんでも死ぬ……」


「頑張って、殿下!」


 応援団に強制的に励まされて、校舎の周りを走る──もとい、かたつむりの観光客のような速度で歩くジョン王太子。


 この特訓のための特訓は7日間続き、ついにクラリッサと再び戦火を交える体育の授業の日がやってきたのであった。


「クラリッサ嬢! 今日の私はこの前の私とは違うぞ!」


 ジョン王太子の苦しい特訓は終わった。今日はその成果が芽吹く時だ。


「うん。毎日頑張ってたよね、校舎回りの走り込み」


「そうだ。その通り。私がどれだけ辛い日々の中、苦労してきたか……って、ええ!? 知ってるのかね!?」


「うん。最近、どの部活に入ろうかと思って陸上部に体験入部してたから。けど、あれは君のような初心者には向いてない距離だよ。もっと自分のテンポで走れる距離で、自分のリズムを身に着けていかないと体を崩すだけ」


 隠れて訓練していたつもりがもろにばれていた上にダメ出しされるジョン王太子であった。彼は泣きたいと思っているが、必死に我慢しているぞ。男の子だからね。


「ええいっ! そうさ! その通りだ! 今日こそ君をぎゃふんといわせるために特訓を重ねてきたのだ! 覚悟するがいいだろう!」


「まあ、頑張って」


「なんだっ! その生暖かい視線はなんだっ!」


 クラリッサは優しい気持ちでジョン王太子を見送ったつもりだが、どうにもねじ曲がって伝わったようであった。


「生徒諸君! 集合!」


 体育教師の声が響き、軍隊のような素早さで生徒たちが集合する。


「今日も健やかなる体を作るためのトレーニングだ。今日は2キロ走ろうではないか。グラウンドを4周だ。自分のリズムを心掛けながら、しっかりと持久力を整えていこう。戦場では常に走れ、走れ、走れ、そして待てだぞ!」


 グラウンド4周という体育教師の言葉に生徒たちからうめき声が漏れる。


 だが、ジョン王太子は違った。彼はこれより長い4キロの道のりを毎日走ってきたのである。たとえ、それがかたつむりの観光客のような速度であったとしても、トレーニングしてきたという事実は自分を裏切らないはずだ。


「では、諸君。位置につきたまえ。脱落は許さないぞ!」


 そう告げて体育教師はマッシブなポーズを決めた。


「フフフ。今日という日を以てして、私はクラリッサ嬢をぎゃふんといわせるのだ。確かにこれまで2度も決闘には敗れているが、それはそれ、これはこれだ」


 ジョン王太子は柔軟運動を行いながらそう呟いた。


「2キロはきついよね、クラリッサちゃん」


「え? 2キロくらい普通に走らない?」


 なにやら恐ろしい会話が聞こえたような気がするが、ジョン王太子は聞こえなかったことにした。戦う前から負けたくない。


「生徒諸君、準備はいいな? では、始め!」


 体育教師の合図で一斉に生徒たちが走り出す。


 先頭に躍り出たのはジョン王太子だ。だが、この間のように飛ばしすぎてはいない。それなりの速度で前に出ている。


 その後ろからぴったりと続くのがクラリッサだ。彼女は平然とした表情で、必死の形相で走るジョン王太子の後ろをついて走っていた。


 その後ろからウィレミナが続く。彼女は最近、クラリッサと一緒に陸上部に体験入部しているぞ。ジョン王太子の特訓も把握済みだ。


(勝っている! 勝っている! このまま走り抜けるのだ! 7日間の特訓を無にするわけにはいかない! ここで勝ってクラリッサ嬢をぎゃふんといわせてやるのだ!)


 ジョン王太子は後ろからぴったりとついてくるクラリッサの視線を感じながらも、なるべく呼吸を落ち着けて、自分のペースを守りながら走り続けた。


 2周目突入。依然として順位はジョン王太子、クラリッサ、ウィレミナの順である。


 しかし、ここでジョン王太子が徐々にペースダウンを始める。


 自分のペースだと思っていたのだが、後ろからぴったりと迫るクラリッサの圧力を受けて、やや早めのテンポになっていたようで、呼吸が乱れ始めていた。


「体、温まってきた?」


 背後からクラリッサがそんなことを尋ねてくる。


「な、何が言いたい……」


「いや、ウォームアップができたならペースを上げようかと思って」


 その言葉はジョン王太子にとってショックであった。


 こちとら息が上がりそうになっているほど頑張って走っているのに、後ろから続くクラリッサはまだこれを準備運動代わりだと思っているのだ。


 ジョン王太子の視界がぐにゃりと歪んだ。


「テンポ崩さないで。ファイト」


「くうっ……。同情するなあ……」


 ジョン王太子は辛うじて3周目開始まではペースを維持した。


 だが、そこからはずるずると速度が落ちていき、やがてクラリッサに追い抜かれ、ウィレミナに先を越され、ジョン王太子はそのまま最後尾列まで落ちていったのだった。


「クラリッサちゃん。今日も余裕の1位だね」


「やっぱり走るのはいいよ。赤筋が鍛えられるからね。いざという時に持久力がないと、やっぱり長期戦とかには耐えられないだろうし」


「な、何と戦うの……?」


「街の秩序を乱す連中と」


 クラリッサはもう暗黒街を仕切る気満々だぞ。


「負けた……。また負けた……。私はダメな人間だ……」


「げ、元気を出してください、ジョン王太子!」


「またリベンジの機会はありますよ!」


 一方のジョン王太子のプライドはスプラッタなほどにズタズタだ。


「はい、これ」


 そんなジョン王太子の頬に冷たい感触が当てられた。


「な、なんだ、クラリッサ嬢。これはなんだ?」


「魔術で冷たく冷やしておいたスポーツドリンク。美味しいよ」


 ジョン王太子に魔術で冷やしたスポーツドリンクを差し出すクラリッサ。


「頑張ったね。次は急ぎすぎなければかなりいい具合に走れると思うよ。無理はしないようにして訓練してね。私も応援してるから」


「クラリッサ嬢……」


 思わずジーンとくるジョン王太子であった。


「って、騙されるか! いい感じの雰囲気にしてうやむやにしようとしているな!」


「ちっ」


「今、舌打ちが聞こえたぞ!」


 クラリッサはリーチオの部下たちから『女はきつく当たった後に優しくしてやるとコロッと落ちるぜ』とかいう要らぬ情報を得ていたため、ジョン王太子でそれを実践してみたわけである。いい加減に付きまとわれたくないし。


「まあいいや。もう少し付き合ってあげる」


「くそう! これで勝ったと思うなよ!」


 クラリッサはにやりと笑って立ち去り、ジョン王太子はそう叫んだのだった。


……………………

本日6回目の更新です。

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