娘は父にコーヒーを飲んでもらいたい
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──娘は父にコーヒーを飲んでもらいたい
コーヒー豆は買いそろえたので、後は入れ方を学ぶだけ。
流石に自家焙煎はクラリッサには難しいだろうということで焙煎豆を購入している。リーチオの好みをある程度知っているパールによって浅煎り豆が選ばれた。カフェインの量も浅煎り豆の方が多く含まれているというぞ。
「ブレンドはこれでいいわね」
「ブレンドって何? 何種類か豆を買ったけど何か違うの?」
「そうね。混ぜることによって風味が変わってくるの。ストレートもいいけれど、ブレンドの方が風味が出しやすいわ。まあ、私もコーヒー豆を扱っている貴族のお客様に聞いて、ちょっと勉強しただけなのだけれどね。今回はリーチオさんの好みに合わせて、酸味のあるコーヒーを目指しましょう」
「おー!」
クラリッサの気合は十分だぞ。
「では、まずはコーヒーを挽きましょう」
「ミンチにするの?」
「うーん。そこまでバラバラにしなくても大丈夫。中挽きくらいでいいわ」
クラリッサはベニートおじさんが敵組織の下っ端の腕をミンチメーカーでひき肉にした話も知っているぞ。ベニートおじさんは武闘派なんだ。
「こんな感じかな?」
「そうそう。よくできてるわ、クラリッサちゃん」
宝石館のミルでコーヒー豆を砕くクラリッサの様子をパールが見つめる。
宝石館ではお酒も出すが、どちらかというとお茶の方が多い。なので、コーヒーから紅茶までいろいろと揃えている。お酒もたしなむ程度ならいいのだが、酔っ払って女の子にちょっかいを出したり、暴れられたりすると困るのだ。そういう時はリーチオの部下がすぐさま酔っぱらいを外に連れ出して、酔いを醒まさせるぞ。
「さて、次はこの布を使ってドリップするのよ」
「トリップ……? 何か怪しい成分が……?」
「コーヒーに幻覚作用はないから安心してね」
それは知っていると不味い意味だぞ、クラリッサ。
「この布を使って、コーヒー豆の美味しいところだけを取り出すの。布の水気を取ったらこういう風に広げるのよ」
「ふむふむ」
クラリッサはこの世界では一般的なネルドリップについてパールより教わった。
「まずは豆全体にお湯をそっと注いで蒸らします」
「蒸らすの? どうして?」
「そうすると豆がお湯に馴染むのよ。豆の美味しい部分がお湯に出てくるの」
「ふうむ。馴染ませる……」
クラリッサは忘れないようにメモを取っている。
「蒸らし終えたら、こういう風にお湯を注いでいきます。このとき静かに入れるのがコツよ。勢いよく入れたり、逆にちょびちょびと入れてもダメ。静かにすーっと入れていくのが美味しいコーヒーの淹れ方よ」
「やってみていい?」
「もちろん」
それからクラリッサがトライしてみたが、最初はドボドボだったり、逆に用心し過ぎてポトン、ポトンだったり上手くいかない。5回目のトライ辺りで、ようやくパールがやって見せたようなすーっとした淹れ方ができるようになった。
「その感覚を忘れないようにね」
「難しい……」
クラリッサはあまり手先が器用な方ではないのだ。
「そして、できたコーヒーがこれです。飲んでみて」
「……自分で入れておいてなんだけど、飲めるの、これ?」
クラリッサの前には漆黒に近い色をした液体が漂っている。
「飲めるわよ。ただ、クラリッサちゃんはお砂糖とミルクを入れた方がいいかもしれないわね。コーヒーは子供には苦いものだから」
「そういわれると試したくなってきた」
クラリッサはパールがミルクと砂糖を用意する前にコーヒーに口を付けた。
「……大人はこれを美味しいと思って飲んでるの?」
「そうよ。まだまだクラリッサちゃんの味覚は子供ね」
初めてのコーヒーはちょっと酸っぱく、そして苦かった。
「パパはやっぱりそのまま飲むのかな?」
「そうでしょうね。会議の時にコーヒーを飲んでいるのを見たことないかしら?」
「うーん。あれはもっと甘いものだとばかり思っていた」
クラリッサはパールにミルクと砂糖を入れてもらってマイルドになったコーヒーを味わいながら、自分の父親が飲んでいたものはいったい何だったんだろうかと思う。
「甘いものではないはずよ。リーチオさん、いつも甘いものは避けたから。結婚式のウェディングケーキも辛うじて食べてたって感じだったわ」
「パパ、そんなに甘いものダメだったんだ」
そこでクラリッサがちょっと唸った。
「どうかしたのかしら?」
「いや。私、パパのことあんまり分かってないなって。娘なのにパパのことについて知らないことが多い。ちょっと不安になってきた」
クラリッサはこれまで自分こそが父親ともっとも長く時間を過ごし、父親のことについては自分が一番よく知っていると思っていた。
だが、クラリッサはリーチオの好みについて知らなかったし、それを知っていたのはパールであった。もしかすると、もっと自分には知らない父親の要素があるのではないだろうかとクラリッサは思い始めていた。
「大丈夫。クラリッサちゃんはリーチオさんの家族なんだから。今は知らないことでも一緒に過ごしていけば、少しずつ分かっていくわ。逆にリーチオさんが知らないクラリッサちゃんの側面もあるのでしょう?」
「はっ。まさかベニートおじさんからいつも武勇伝を聞いていることもパパは知るかもしれない……? それから人死にが出まくる演劇を密かに見に行っていることも……?」
「うん。隠し事はよくないわね」
ベニートおじさんと演劇はクラリッサの不要な知識フォルダを膨らませている原因である。どちらもリーチオはまだ把握していないぞ。ベニートおじさんの語る武勇伝については気づきつつあるのだが。
「ふう。何はともあれ、パパにしてあげられそうなことができてよかった。今日はありがとう、パールさん。また分からないことがあったら聞きに来るね」
「いつでも歓迎するわ」
クラリッサは挽いたコーヒー豆を紙袋に入れてもらうと、それを抱えて馬車に飛び乗った。ドリップ用の道具は家に揃っているので、後は入れるだけだぞ。
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「フランク王国の組織の裏にいる貴族。こいつが気になる」
その日の夕方もリーチオは仕事中だった。
「確かに変ですよね。これまでフランク王国の組織の裏には誰もいなかった。それが今になって資金援助まで受けている感じに増殖している。向こうの貴族の考えは何なんでしょうね。我々が恨みを買うようなことをした覚えはないですし」
「そいつも締め上げれば分かることだ。フランク王国貴族を拉致してきて、こっちで尋問しましょう、ボス。貴族の軍隊ぐらい俺たちならどうにでもなる」
今日のリーチオの書斎にはピエルトとベニートおじさんの姿があった。
「短絡的だ、ベニート。フランク王国側の囮捜査の可能性もある。フランク王国の貴族の存在が情報屋の網にあっさりと引っかかったのが気になる。わざと情報を流してる可能性も否定できん。そもそもそのポリニャック伯爵というのは実在の人間か?」
リーチオは唸りながら煙草を探して、家の中ではクラリッサのために吸わないようにしていることを思い出して、探すのを止めた。
「ポリニャック伯爵というのは一応は存在するようです。フランク王国の宮廷とも最近繋がりができた貴族だそうでして。もうちょっと探らせないと意図については読めませんね。それまでこっちのシマがフランク人に荒らされることになりますが」
「叩き出せ! 皆殺しにしろ! フランク人どもをのさばらせるわけにはいかん。早速何名か吊るしてやりましょう。北ゲルマニア連邦との取引はできそうなんでしょう?」
ピエルトが告げるのにベニートおじさんが吠える。
部屋の扉がノックされたのはその時だった。
「クラリッサか? どうした?」
「パパ。コーヒー淹れた。チョコレートもあるよ」
クラリッサはそう告げて、湯気のほんのりと立ち昇るコーヒーカップと一口サイズのチョコレートが乗った皿を持ってやって来た。カップからは香ばしいコーヒーの香りがする。クラリッサはそれを零さないように慎重に運んできた。
「お前がコーヒーを入れたのか? それこの香りはうちにある豆じゃないな?」
「ふふふ。特製ブレンドだよ」
よく分かっていないが、クラリッサには今回の豆は特別だと思われている。
「さあ、冷めないうちに召し上がれ」
クラリッサはそう告げてコーヒーのカップをリーチオの前に置いた。
「これ、飲んでも大丈夫な奴か?」
「失礼だね、パパ。私だってコーヒーぐらい淹れられるよ」
「台所を破壊せずにか?」
「何も壊してないよ」
そう、今回のクラリッサは何も破壊していないのだ。台所も、ポッドも、カップも、全て無事である。手先の不器用なクラリッサでも、ちゃんと教えられたことだけをすれば、何も破壊せずにミッションを達成できるのだ。……たまには。
「しかし、お前がコーヒーをとは。天変地異の前触れか」
「いいから温かいうちに飲んで」
クラリッサはなかなかリーチオがコーヒーに口を付けようとしないのに、イライラしている。クラリッサの日ごろの行いが悪いと言えばそれまでなのだが。
「じゃあ、いただくとするか」
リーチオはその匂いが一応飲めるものであることを確認すると、覚悟を決めてコーヒーをグイッと飲み下す。
「ん。美味いな。本当にお前が入れたのか?」
「私が入れたよ。パールさんに教わったから」
「なるほどな」
パールから教わったとあれば、よほどのことがない限り間違いは起こさないだろうと納得してリーチオはコーヒーを味わう。
「いいなあ、ボス。クラリッサちゃん、俺にもコーヒー淹れてよ」
「1杯3000ドゥカートだよ」
「意外に取るね、君」
ちょっとお洒落な喫茶店のコーヒーが1杯300ドゥカート程度である。
「愛情が籠っているからね。その分、お高いんだよ」
「よし! なら、おじさんは4000ドゥカート出すぞ。1杯頼む!」
「ご注文承りました」
ベニートおじさんは太っ腹だ。
「ベニート。お前はすぐそうやってクラリッサを甘やかすんだから」
「ですが、クラリッサちゃんがコーヒーを入れるようになったんですぜ。これはお祝いだと思わないと。あんなに小さかったクラリッサちゃんがまた一歩成長したんですから。ボスだって実を言えば嬉しいんでしょう?」
「まあ、悪い気はしないな」
リーチオもクラリッサの成長を喜んでいる。
あれだけ傍若無人だったクラリッサが父親のためにコーヒーを入れてくれている。それはリーチオにとってとても嬉しいことであった。娘の成長が実感でき、これからの成長にも期待が持てるようになったのだから。
コーヒーを入れる。実に些細なことだが、父にとっては大きなことだ。
「ベニートおじさん。コーヒーどうぞ」
「おお。ありがとう、クラリッサちゃん」
そして、クラリッサが2杯目のコーヒーを運んでくるのを、ベニートおじさんが受け取った。彼は匂いを味わうと、すぐにコーヒーに口を付けた。
「うむ。美味いコーヒーだ。そうですな、ボス?」
「ああ。美味いコーヒーだ。ありがとうな、クラリッサ」
ベニートおじさんが告げるのに、リーチオがそう告げた。
「お安い御用」
リーチオの言葉にクラリッサがそう返す。
「ところで、パパ。お願いがあるんだけれど」
「なんだ?」
「このプリント、見て」
クラリッサはそう告げてポケットから授業参観のプリントを取り出した。
「授業参観か。日程におおよそ2週間後と」
「そう。パパ、来てくれるよね?」
クラリッサがそう告げて見つめるのに、リーチオは困った表情を浮かべる。
今のリベラトーレ・ファミリーは礼儀知らずの客人──フランク王国の犯罪組織と半ば抗争状態にある。両者とも正式な宣戦布告はしていないものの、歓楽街を中心にフランク王国の組織とリベラトーレ・ファミリーは小競り合いを続けている。
これから2か月ほどは状況がどう動くか分からない。
フランク王国の組織との本格的な抗争になれば、リーチオも動かなければならないだろう。そのまさかの時に授業参観に行っていれば、リベラトーレ・ファミリーはボス不在のまま抗争を始めなければならない。
何せ、この世界にはスマホどころか、ガラケーすら存在しない。ボスが不在の時に連絡を取る手段は人を送るしかないのである。
「大丈夫ですよ、ボス。いきなり抗争にはなりませんから。それにもし事態が不味い方向に推移しても、俺たちがどうにかしてみせますぜ」
「そうですよ、ボス。だから、安心してクラリッサちゃんの授業参観に行ってあげてください。クラリッサちゃんもボスに来てほしいんですよ」
躊躇うリーチオにベニートおじさんたちがそう告げる。
「すまんな。なら、クラリッサ。俺は何日でも大丈夫だ。そう書いておくな」
「ありがとう、パパ。嬉しい」
これでクラリッサは心配することがなくなった。
そして、その日からリーチオにコーヒーを入れることがクラリッサの日課になったのだった。クラリッサのコーヒーの味は評判がいいぞ。
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本日1回目の更新です。




